こいこと。で開催された料理対決。
優勝を果たしたのは、まさかのケンジさん。
ごほうびとして好きな企画を選べるという話になったとき、彼が選んだのは──
「ちょっと変わった体験がしたい。最近、噂の“あの場所”に行ってみたいんだよな」
そう言って、ケンジが向かった先は、不思議な現象が起こるとウワサされるとある小さな空間。
そこには、謎めいた詩人・ナツメの姿があった──
ナツメとの遭遇:不思議な場所、不思議な現象
「ごほうび体験なら。ケンジさんが気になってるあそこに行ったほうがいいよ!」 他のライターたちに背中を押されるようにして、ケンジは噂の場所へと足を運んだ。
目的地は、街のはずれにある古びた貸しスタジオ。地図にちゃんと載ってるのかすら怪しい。なのに「ちょっと変わった体験ができる」と、一部のライター間では密かに噂になっていた。
ケンジはため息をひとつ。 「……ナツメ、ってやつがいるって聞いたけど。ほんとかね」
扉を押すと、スタジオ内は妙に静かでがらんとしていた。誰もいないかと思った瞬間──不意に視界の端が歪んだ。
「どーもー。おっちゃん、もしかして迷い込んだんちゃう?」
声のする方を向くと、そこにいたのは……見たこともない、いや、“見た目からしてようわからん”何か。 ラジカセみたいな姿で、喋っている。
「……おまえが、ナツメか?」
「そやで。ぼくはナツメ。音楽生まれ音楽育ち、音に宿る不条理や」
ケンジは目を細める。 「他の連中から噂は聞いてたけど……思った以上に、意味わからんな」
「そんなん褒め言葉やん。ま、今日はええ体験させたるで」
そう言うと、ナツメのスピーカー部分から、ぼんやりとした音が流れはじめた。
ギター。ドラム。そして、2人のボーカルの声。──懐かしい音。
「……こいつ、なんでこの音を……」
ケンジの背筋に、ぞわりと寒気が走る。
ナツメはにやりと笑った。
「さ、過去の扉、あけたるさかい。心の準備、できとる?」
過去へのタイムスリップ:若きバンド時代とあの喧嘩
気がつくと、ケンジはライブハウスの片隅に立っていた。 ──もう何十年も前、若い自分がいた頃のあの場所。
「……なつかしいな」
照明の暗がりから、ステージの音が響く。 ギターのリフ、ドラムのキック。そこに重なるツインボーカルの声。 その瞬間、ケンジの中で何かが弾けた。
「うちのボーカル、2人とも歌は最高だったよ。だけど──主張が強すぎた」
ふたりの声がぶつかり合う。 ピッチじゃない。感情のぶつかり合いだ。
「あの頃のあいつら、ステージでも楽屋でもしょっちゅう言い争ってたな」
怒号。飛び交う言葉。 「それじゃ私の声が死ぬ!」 「おまえが出しゃばりすぎなんだよ!」
冷たい空気が、スタジオ全体を包み込んでいた。 恋の気配すら、バンドにとっては軋みの原因になった。
「……たしかに、俺とあいつが、そういう関係になってから、空気はもっと悪くなった。 言わなきゃよかった、なんて一度も思ってないけど──うまくはいかなかったな」
その日も、ボーカルふたりの口論でリハは途中で終わった。
「炎みたいな連中だったよ、俺たち。 派手に燃えて、周りも巻き込んで、自分たちまで燃やして、終わった」
ケンジは静かに目を閉じた。
「……灯になりたかったのにな」
炎から灯へ:後悔と再出発
「ここにいるってことは、やり直せるのか?」
ライブハウスの片隅、若い頃の自分が見える位置から、ケンジは小さくつぶやいた。 でも答えは返ってこない。
「無理だよな」
視界が揺れる。音が遠ざかる。 あの日の熱狂、激情、後悔──すべてが渦を巻いて飲み込んでいく。
「悔いがないって言ったら、そりゃ嘘になるさ」
心に刺さって抜けない棘。 どうすればよかったのか、いまだにわからないままの分かれ道。
「でもどうにもならねぇじゃねぇか」
今もたまに夢にみる。 ステージに立つ自分。 声を重ねるあいつら。言葉にできなかった感情。 ぶつかり合って壊れていった関係。
「前に進むしかないんだよ」
ぐにゃりと空間が歪み始める。 音が戻ってくる。 感覚が引き戻される。
気づけばケンジは、あの不思議な部屋に戻っていた。
「……帰ってきたか」
部屋の片隅、ナツメがすっと立っていた。
「どや?ちょっとええもん、見れたんちゃう?」
ケンジは肩をすくめ、目を細めて笑った。
「どうだかな。ほろ苦いわ」
帰還と余韻:こいこと。という場所が呼び覚ます記憶
ナツメの部屋を出たあと、ケンジはひとりで空を見上げた。
さっきまでいた場所の記憶は、まるで夢みたいにぼんやりしている。 でも、確かに感じた。あの頃の情熱。あの声。あの衝突。
「俺たちは炎から灯になりたかった。でも、それは叶わなかった」
燃え尽きて、何も残らなかったと思っていた。 でも今になって、思う。
「灯になれなかったあのバンドが、どこかで誰かを照らしてたかもしれない」
こいこと。に参加するようになってから、 不思議とあの頃の記憶がよみがえることが増えた。
──あの声。あのやり取り。あの匂い。
明確なきっかけがあるわけじゃない。 でも、言葉を交わすうちに、ふとした表情を見たときに、 遠い記憶が急に目の前に立ち上がることがある。
ハルキがギターを始めたと聞いたときは、ちょっとだけ胸が熱くなった。 火を絶やしたくないと思った。
「まぁ、こいこと。の連中に焚きつけられてんのかもな」
静かな笑いと共に、ケンジは歩き出す。
悔いがないなんて言わない。 でも、前に進める。 あの頃より、少しは大人になった自分で。
今回のごほうび企画は、ちょっぴりほろ苦かった。 でも、それも悪くない。

