すれ違い
──こんなにも、誰かを愛おしいと思ったのは、初めてかもしれない。
ミサキと付き合いはじめてから、毎日が光に満ちていた。
朝の「おはよう」から、寝る前の「おやすみ」まで。
LINEのやり取り、並んで歩いた帰り道、ちょっとした意見の違いすら愛しく感じるくらい、僕はミサキに夢中だった。
彼女もまた、僕のことを応援してくれていた。
「こいこと。」の活動にも興味を持ってくれて、記事についてアドバイスをくれたり、ライターとしての僕を褒めてくれたり……。
──幸せだった。本当に。
あの頃の僕は、ずっとこのまま並んで歩ける気がしてた。
だけど。
「違和感」っていうのは、ほんの小さな針のように、ある日突然心に刺さってくる。
気づかないふりをしようとしても、やがて痛みは大きくなって、無視できなくなる。
それが、すれ違いの始まりだった──。
ミサキ、編集部に馴染む。高評価のリクの記事
ミサキは、僕の仕事にどんどん興味を持ってくれた。
「こいこと。」の編集部にも何度か顔を出すようになり、他のライターとも軽く挨拶を交わすようになった。
編集部の雰囲気や、企画の進み方、みんなの会話の熱量に、彼女は目を輝かせていた。
「ここ、すごく楽しそう。私もこんな場所で文章を書けたらって、ちょっと思っちゃう」
そんなミサキの言葉を、僕は嬉しい気持ちで聞いていた。
ある日、僕が入稿した記事が編集部で高く評価された。
「リクくん、今回の記事、いままででいちばんよかったよ」
「めっちゃ読みやすかったし、心が動いた」
そう言ってもらえて、僕は舞い上がるような気持ちになった。
すぐにミサキにLINEで報告すると、彼女も一緒になって喜んでくれた。
──その時は、まだ気づいていなかった。
僕の中に芽生えはじめた“違和感”の正体に。
リライトされた記事
ある朝、リクが起きてスマホを手に取ると、「こいこと。」の公式サイトに自分の記事が公開されている通知が届いていた。
「早いな……昨日入稿したばかりなのに」
布団の中で軽く目をこすりながら、リクは公開された記事に目を通した。
──読んでいくうちに、違和感を覚える。
「……あれ?」
確かに、自分が書いた記事だった。構成も、タイトルも大きくは変わっていない。
けれど、ところどころの言い回しが違う。
たとえば、「焦らず、少しずつ歩み寄ることが大切」と書いたはずの箇所が、「焦りすぎて相手を見失わないよう、優しさのペースで歩もう」に変わっている。
悪くない。むしろ、読んでいて心地いい。
でも、自分の書いた文章じゃない──そう感じた。
「……これ、誰が直したんだろう?」
編集部による通常の校正というよりは、文章そのものの色が変わっている。まるで、別のライターが手を入れたような。
そしてふと思い出す。以前に読んだ、ミサキの文章の“クセ”。
──これ、あのときのコラムと似てる。
嫌な予感がして、リクはLINEを開いた。
「ねえ、昨日の記事、編集部に出す前に見せたっけ?」
「もしかして修正してくれた?」
数分後、ミサキから返信が来た。
「うん。ちょっとだけ、読ませてもらって、直した方がいいかなって思ったから」
──やっぱり。彼女だった。
リクの心が、少しざわついた。
勝手に直した理由──“あなたのため”という言葉
リクはスマホを握ったまま、しばらく画面を見つめていた。
ミサキの文章は、確かに読みやすいし、心にすっと入ってくる。けれど、それは自分が紡いだ言葉じゃない。
しばらく悩んだ末、リクはメッセージを送った。
「ミサキ、ありがとう。でも、できれば勝手に直すのはやめてほしい」
すぐに「ごめんね」という返信が届いた。
「すごくいい記事だったから、もったいないなって思って。もっと伝わるようにしたかっただけ」
やさしさから来ていることは分かる。悪意なんて、まったくなかったはずだ。
だけど──。
「もし直したいと思ったら、事前に教えて。できれば、アドバイスという形で」
「うん、分かった。本当にごめんなさい」
ミサキのメッセージは素直だった。リクも、怒っているわけじゃない。ただ、モヤモヤが胸の奥に残った。
“あなたのため”という言葉は、ときに相手の輪郭をぼかしてしまう。
リクはそのやさしさが嬉しい反面、自分自身の言葉を守りたかった。
評価される“誰かの文章”
公開された記事には、読者からのコメントが次々とついていた。
「今回の記事、すごく心に沁みました」
「このライターさん、文章力あるなあ」
高評価の嵐。SNSでもシェアされ、PV数はいつもより大きく伸びていた。
編集部のグループチャットでも、
「今回の記事、今まででいちばん響いたかも」
「リクくん、すごくよくなってきたね」
──そんな言葉が並んでいた。
嬉しいはずだった。なのに、心がちくりと痛んだ。
「僕じゃないんだよな……」
頭ではわかっていた。評価された文章は、ミサキがリライトしたもの。
しかも、その文章はリク自身も「いいな」と思ってしまった。悔しいけれど、認めざるを得なかった。
──自分の文章より、彼女のほうが上手い。
その事実が、じわじわと胸に広がっていく。
編集部での立ち位置。ライターとしてのプライド。恋人としての複雑な気持ち。
ミサキがすごいのは、わかってる。でも……。
気づけば、LINEの返信も少しずつ遅くなっていた。
「また連絡するね」
その言葉のあと、スマホを伏せたリクは、ひとり、静かにため息をついた。
ふたりの距離、少しずつ
それから数日、ミサキとのやりとりは減っていった。
既読がついても、返信はしばらく来ない。
リクの方も、話しかけようとして、結局メッセージを打たずに画面を閉じることが増えた。
こいこと。の編集部では、ミサキはますます溶け込んでいた。
「ミサキさんって、話しやすいよね」
「一緒に企画考えると楽しい」
そんな声がちらほら聞こえてくる。
リクはそれを横で聞きながら、笑ってうなずいた。
でも心の奥では、なぜかぽっかりと穴が空いたような気がしていた。
──気のせいだ。
仕事が忙しいだけ。疲れてるんだ。
そんなふうに思い込もうとしても、スマホに届かない通知が、それを否定してくる。
ほんの少しずつ。
でも確かに、ふたりのあいだにあったあたたかい距離が、変わっていくのをリクは感じていた。
──第7話へ、続く。