第1話未読の方はこちらから

第2話:絹ヱって、なに?
「……なあ、ミユ。シルクちゃんって名前、どこかで聞いたことある気がする」
昼休み、編集部のベンチ席で缶コーヒーを片手にソウタがつぶやいた。
「え、ほんと?うちもあの名前、初見かと思ったけど……でもなんか、耳に残るよね」
ミユは自分のスマホを見ながら頷く。あの夜ふたりのスマホに現れた『シルクちゃんのデスラブ日和』。一度は閉じたはずのサイトは、今朝にはまた開かれていた。勝手に。ロック画面すら突破して。
ソウタの胸の奥で、なにかがうっすらと疼いていた。
「たしか……昔、『こいおと。』がまだ走り出しのころ。やたら過激で、でも妙に面白い記事を書いてるライターがいたんだ。恋愛の毒を笑いに変えるような人……。あれ、もしかして、シルクちゃんだったかも」
ミユは目を丸くした。
「え、それって……ヒトエさんの時代?」
「そう。僕がライターとして最初に文章を学んだのが、あの頃だった」
かつて「こいおと。」という恋愛メディアがあった。 ソウタは高校卒業後、文章を書くことで誰かの心に触れたいと願い、その門を叩いた。 彼にライターとしての基礎を教え、最初に「君の書いたものを、世に出したい」と言ってくれたのが──ヒトエだった。
「会いに行ってみよう。あの人なら、シルクちゃんのことを知ってるかもしれない」
ふたりは、あの夜と同じカフェスペースにヒトエを呼び出した。
「もう、逃げられないのね……」
小さく笑いながら現れたヒトエの顔は、前より少しだけやつれて見えた。
「シルクちゃんについて、くわしく教えてください」
ソウタのその一言で、ヒトエの目の奥がふっと揺れた。
3年前の転落死と「もう戻ってこない子」
「──あの子は、もうこの世にはいないの」
ヒトエの声が、静かに、でも確かに空気を震わせた。
「3年前。酒に酔って、自宅近くの非常階段から落ちたの。……逆立ちしているみたいな姿勢で発見されたそうよ」
ミユが息をのんだ。
ヒトエは机の上に手を置き、語りはじめた。
「彼女は、元々“こいおと”っていうメディアで記事を書いてたの。毒舌系のライターとしては異例のバズりっぷりだった。恋愛や芸能ネタ、男女関係をエグい角度から切り込む記事が人気だったわ」
「エグいって、どのくらい……?」
ミユの問いに、ヒトエは目を細める。
「“結婚したいならそのブス顔やめろ”とか“あんたがフラれるのは無言の自業自得”とか。とにかく強烈だった。でも、怖いくらいに図星なことも書くのよ。それが、魅力であり、毒だった」
ソウタは何も言えなかった。
「読んで元気になる人もいれば、心がえぐられる人もいた。彼女は“記事は鏡”って言ってた。“読んで傷つくなら、自分の中にそういう闇があるってこと”って」
ミユが口を開いた。
「それって、書き手として、ちょっと……怖い」
「でも、止められなかったの。数字が出るから。彼女はどんどん過激になっていって──」
ヒトエの声が少しだけ震える。
「ある時、シルクちゃんが、ある地下アイドルの恋愛ネタを記事にしたの。『ファン食い女の末路』ってタイトルでね。もちろん実名じゃなかったけど、関係者にはバレバレだった」
「……それって」
「ええ。記事の内容に当てはまったアイドルの子は、心を壊して、自殺未遂を起こしたの。命は助かったけど、それが大きな問題になって──編集部は彼女を降ろしたわ」
ソウタが小さくつぶやく。
「……筆を折った、んじゃなくて、折らされた」
「そう。納得してなかった。彼女は何度も泣きながら電話してきた。“あたしは悪くない”って。やがて酒に溺れるようになった。泥酔して、意味のわからないメモを送りつけてきたり……もう、限界だった」
「そして……階段から転落?」
ヒトエは黙って頷いた。
「ねえ」
ミユが、おそるおそる口を開いた。
「この“デスラブ”ってサイト、本当に、彼女が書いてるの? 死んでるのに……?」
「わからない。でも、彼女を知ってる編集者に会えば、何か手がかりがつかめるかもしれない」
ヒトエは引き出しから、一枚の古びた名刺を取り出す。
編集者 東雲(しののめ)
「当時、シルクちゃんを直接担当してた人物よ。彼は今、もう編集業からは離れてるけど……連絡は取れるわ」
ソウタが名刺を受け取り、強くうなずく。
「会ってみます。……僕が、行かないといけないような気がするんです」
「わたしも行く。……もう見ちゃったし、途中で止めるのも、怖いから」
ミユが苦笑まじりに言った。だが、その目には小さな決意の光が宿っていた。
ヒトエはふたりを見つめ、ぽつりとつぶやく。
「あの子は、もう戻ってこない。でも、何かがまだ、終わっていない気がするの」
壊れた編集者、東雲との接触
午後2時3分。都内、駅前の古びた喫茶店。
時間が止まったような店内の片隅で、年季の入ったスーツを着た男が湯気の立たないコーヒーを前に座っていた。
「……東雲さん、ですよね?」
ソウタの声に、男はゆっくりと顔を上げる。
「……ああ。連絡をくれたのは君たちか」
「はい。シルクちゃんについて、詳しく知りたくて」
男はふっと目を細め、視線をミユに向けた。
「……君たち、もう呪われてるんじゃないのか」
一瞬、店内の空気が張り詰めた。
「え……?」
「さっきから、話してる間に言葉がぐにゃって歪む。音が反響して聞こえる。……それ、あの子が近いって証拠だ」
ソウタとミユは目を見合わせた。
「あの子って……シルクちゃん?」
東雲はふっと笑う。空っぽの笑顔だった。
「最高のライターだったよ。過激で、痛烈で……バズりまくってた。でもな、過激すぎた。あるアイドルを皮肉った記事で……彼女が自殺未遂した」
「……!」
「それで“こいおと”からは外された。あの子は酒に溺れた。……酔って、階段から落ちた。頭から落ちて、逆立ちみたいな形で死んだ」
ミユがそっと手を握りしめる。
「でも……それだけじゃないんですよね」
東雲の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「あの子は……絹ヱになった」
「きぬ……え?」
ソウタが問い返すが、東雲はもうこちらを見ていなかった。
「絹は裂けても、音を立てない。シルクは、静かに壊れる。……そういう呪いなんだよ」
ソウタは、その場にいるのが耐えられなくなった。
「……あの、すみません。今日はこの辺で……また、明日お時間いただけますか? ご自宅の方に……」
「ああ、いいとも。明日の午後、14時14分でどうだ」
東雲の口から自然と出たその時間に、ソウタはわずかに胸騒ぎを覚えながらも、頷いた。
夜の更新:死に惹かれるラブ
その夜、23時44分。
それぞれの自宅で夜を過ごしていたソウタとミユのスマホが、ほぼ同時に震えた。
『シルクちゃんのデスラブ日和』が更新されました。
ソウタはベッドの上で、ミユは自室のソファで、同時にその通知を開いた。
画面には、いつも通りのモノクロ調のレイアウト。
しかし今回は、挿入画像が表示されていた。
モノクロの写真。暗いキッチンの床に、逆立ちしたように転がる人影──顔は見えない。
その下に、記事タイトル。
「彼氏をハグしたらバラバラになった♡」
……読後、画面が一瞬だけ暗転。
そして、うっすらと浮かび上がる文字。
「愛は、逆さに落ちる」
ソウタはスマホを伏せた。鼓動が速くなる。ミユもまた、吐息を震わせていた。
「これって……ふざけて書いたんじゃないよね」
「うん……これは、誰かが……本当に感じてる“愛”なんだ」
翌朝の知らせ:三点倒立の死
翌朝、7時07分。
ソウタのスマホが鳴る。発信者は「ヒトエ」。
「……ソウタくん、聞いて。東雲さん、亡くなったって」
寝ぼけていた頭が一気に冴える。
「え?」
「ニュースになってる。昨日、あのあと……自宅の階段下で、三点倒立の状態で発見されたって」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「……まただ」
ソウタは静かに呟いた。
死が、また“あのサイト”と同じ姿で、現実に染み出している。
絹ヱの気配と、静かに狂いはじめる世界
朝の陽が差し込む部屋で、ソウタはぼんやりとコーヒーを淹れていた。
スマホの画面には、東雲の訃報。事故死とされていたが、死因は不明。発見時は「逆立ちのような姿勢で倒れていた」と小さく記されていた。
“また……か”
胸の奥に、冷たい霧のような感覚が広がっていく。
そのとき、ミユからメッセージが届いた。
『ソウタくん……。あのさ、絹ヱってさ、何なんだろうね』
その言葉に、ソウタの指先が震える。
『東雲さんが言ってたでしょ? あれって呪い? 呪文? 暗号? それとも……なんか、気持ち悪いの。ずっと頭にこびりついてる』
続いて、もう一通。
『変だよね。あのサイト読んでから、文字が滲んで見える。寝ても夢に記事の見出しが出てくるの。……“絹ヱ”って、あたしの脳に刷り込まれてる気がする』
スマホを持つ手が、じわじわと汗ばんでいく。
そのとき、再び通知が。
『シルクちゃんのデスラブ日和』が更新されました。
記事タイトル:
「恋人の夢の中にだけ、私が生きてるなんてイヤ♡」
目を通した瞬間、ソウタは奥歯を噛みしめた。
記事は、特定の誰かに向けられているわけではない。恋愛、愛情、承認欲求……そんな言葉を日々浴びせられるこの世界そのものに、恨みと歪みをぶつけているようだった。
──読むたびに、「絹ヱ」という単語が、意識の深い場所に染み込んでいく。
それはまるで、言葉というより、「意志」だった。
消せない。逃げられない。忘れられない。
名前のない呪いが、じわじわと彼らを蝕みはじめていた。
━第3話へ続く