
その日、ミユの記事に奇妙な一文が混ざっていた。
──「わたしは絹ヱに行きたい。できるなら、絹ヱで恋がしたい。」
編集部の誰も、その言葉にツッコまなかった。ミユ自身も、そんな文章を書いた覚えがないと言う。
「え?そんなこと書いたっけ? うそー、どこどこ?……あ、ほんとだ。なんでだろ」
一度だけではなかった。
別の記事にも、「絹ヱの愛しさに震える夜」「また絹ヱに会える日まで」といった、意味不明な表現がごく自然に差し込まれていた。
「えっ……こわ。なにこれ、あたし、やばくない?」
笑ってごまかそうとするミユの声は、ほんの少しだけ震えていた。
絹ヱって、なに?
「……“絹ヱ”って、何?」
ミユがぽつりと漏らした。
朝方、編集部のミーティングルーム。白い蛍光灯の下で、ソウタはカタカタとノートパソコンを叩いていた。
「ネットで調べてみたけど……明確な情報はないね。地名っぽいのもあるし、古い物語に出てくるような言葉もあるけど、どれも断片的」
「ブランドとかじゃないよね?和菓子とかジュエリーの名前とか……」
ミユは、昨夜見た夢を思い出していた。
白くて長い廊下。真っ赤なヒールの足音。どこからか“絹ヱ……絹ヱ……”というささやき声。
──気づくと、記事にその言葉が混ざっていた。
「わたしの記事、勝手に誰か書き換えた?って思ったんだけど、たぶん……自分で書いたのかも」
ミユは自分の原稿に記されていた、不可解な一文を指差した。
──愛する絹ヱ。あなたのためなら、恋も死も、きっと等価。
「これ、書いた記憶まったくないんだけど……怖いくらい自然に入ってた」
ソウタは沈黙しながら、紙の地図を取り出した。電子地図にないような、昭和期の住宅街がびっしり描かれたものだ。
「ここに、絹枝神社(絹枝神社)って名前の場所があったらしい。戦後すぐに取り壊されて、今はスーパーの裏手に小さな祠だけ残ってるって」
「……名前、近いね」
「けど“枝”と“ヱ”は違うし、これが関係あるかどうかは……」
ふたりは何度も議論した。“絹ヱ”は人名なのか、場所なのか、儀式の言葉なのか、それともただの妄想か。
正体は見えないまま、しかしその存在だけは、静かに、確実に、彼らの周囲を浸食し始めていた。
調査の途中、以前コンタクトを取っていた民俗学者から連絡が途絶えた。SNSは鍵垢になり、大学の所属ページからも名前が消えていた。
さらに、ある都市伝説系ブロガーと連絡を取った翌日、そのブログは丸ごと削除され、連絡先も不通になった。
「ねぇ、これって偶然……かな?」
ミユの声が震える。
ソウタはゆっくりと首を横に振った。だがその瞳の奥には、不安と同じくらいの「真相を知りたい」という欲望が燃えていた。
編集部にも異変が──絹ヱに染まる日常
最初に気づいたのは、ミカコのホワイトボードだった。
「……これ、なんて書いてるの?」
ソウタが小声でつぶやいた。
編集部の壁際にあるホワイトボード。そこには黒と赤のマーカーでびっしりと、こう記されていた。
絹ヱにあらずは、編集者にあらず。
同じ言葉が、均一なフォントのように繰り返されている。だが、微妙に震えた筆圧。何かに取り憑かれたようなリズム感だった。
「ミカコさん、これ……」
「え? ああ、それ? 朝からずっと手が止まらなくて」
ミカコは涼しい顔でマーカーのキャップを閉めると、ボードを眺めてうっとりと微笑んだ。
「変じゃないでしょ? 最近の編集者は、絹ヱが足りないから」
「……え、絹ヱって何?」
ミユがひそひそと囁くが、ミカコはゆっくりと振り返る。
「絹ヱは、夢よ。編集者の魂を縫う、繭のような……」
そこへナナが紙袋を抱えて入ってきた。
「ちょっと〜また朝からホラーかましてんの? ほら、絹ヱ買ってきたから、みんなで食べよ♡」
「えっ、食べられるの!?」
ミユが目を丸くする。
ナナは紙袋の中を見せながら、ウインクした。
「あんたバカ? 絹ヱは宝石なの♡」
中にはゼリーのような小瓶がぎっしり詰まっていた。ラベルには「絹ヱ糖」の文字。
「これ、夜になると発光するらしいよ? しかも声も聞こえるって」
「……やばくない?」
「大丈夫大丈夫、こういうのはノリで食べるもんでしょ〜♪」
ミユが瓶を手に取る。キャップを開けると、微かに鉄のような匂いがした。
「ん……あれ? なんか、ちょっと……」
そこへケンジがやってきた。
「おい、ミユ、お前の記事見たぞ」
「えっ? なんかまずかったですか?」
「絹ヱ感が全然ねぇ」
「……き、ぬえかん……?」
「これじゃあ絹ヱっていうより“絹目”だな。反物の質感止まりだわ」
「質感止まり……?」
「“絹ヱ”はもっとこう、血で書け。魂で濡らせ。お前の骨を削ってでも光らせろ」
ミユが固まっていると、隣でリクが突然、直立不動になった。
「本日の絹ヱ!申し訳ありませんでしたああああぁぁッ!!」
その声は妙に響いた。まるでスタジアムに届くような音圧。けれどリクの顔は──満面の笑みだった。
「お、おいリク! 正気か!?」
「絹ヱ……絹ヱ……ああ、なんて響きだ……」
リクは顔を上気させ、ホワイトボードの言葉を指でなぞると、恍惚とした表情で繰り返した。
「編集とは、絹ヱ……愛とは、絹ヱ……」
──誰かが言った。“名前を呼んだ者から侵食される”と。
編集部の空気は、どこかねっとりと重たく、静かに狂気を吸い込んでいくようだった。
録画された“うどんの夜”
「ソウタさん、ちょっといいですか……これ、見ていただけます?」
その夜、編集部ビルのロビーで、警備員が声をかけてきた。初老の男性で、いつも受付にいる人だ。
「え……なんですか?」
「映像のことで。ちょっと気になる記録が残っていまして……」
警備員は、タブレットの画面を差し出した。そこにはロビーの防犯カメラ映像が映っていた。
画面に現れたのは、ミユ。
彼女はロビーの床にぺたりと座り込み、笑いながらカップうどんをすする。時刻は23時44分。 まさに「シルクちゃんのデスラブ日和」が更新される時間と一致していた。
スマホを片手に何度も画面をスクロールしながら、うどんをずるずる。明るく笑っているようにも見えるが、どこか“正気”の輪郭がゆらいでいた。
やがて食べ終えたミユは、カメラをじっと見つめた。
笑顔のまま、人差し指でカメラを指差す。
そして、ゆっくり口を動かした。
無音の録画だが、その唇の動きははっきりしていた。
「キヌヱ」「キヌヱ」「キヌヱ」
繰り返される名前。
まるで、恋人を呼ぶような、呪文のような──
ソウタは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「……これ、ロビーは飲食禁止なんで、念のためお伝えを。
それと、ちょっと……気味が悪くて」
その夜は、それだけで終わった。
翌朝。編集部に向かう途中、ソウタはふとロビーで足を止めた。
警備ブースには、見慣れない若い男性が立っていた。
「あれ? あの、昨日の人は……?」
「ああ、あの人なら急に辞めちゃって。急遽僕が勤務につくことになりました」
「……え?」
ソウタはぞっとした。昨日の警備員は、あの映像を見せたあと、何かを“見てしまった”ような顔をしていた。
編集部に戻ると、ミユはあっけらかんと振る舞っていた。
「えー、うち? そんなとこでうどん食べたっけ?」
「あはは、深夜テンションだったのかも〜」
「……」
だがその笑顔の奥には、どこか“怯え”が潜んでいるように見えた。
彼女の視線は、スマホの画面をちらちらと確認しながら、ロビーの天井を一瞬だけ見上げた。
──誰かが、見ているような気がした。
メモ帳に浮かぶ名前
「……ん?」
ソウタは、自分のスマホ画面に目をこらした。
知らないうちに開かれていたメモ帳アプリ。その中には、ただひとつの言葉が羅列されていた。
絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ──
何度も、何十回も、同じ単語が打ち込まれている。
まるで呪文のように、脳にじわじわと染み込んでくる感覚。指先が冷たくなっていくのを感じた。
「……僕、これ……いつ書いたの?」
喉がひりつく。
誰かが勝手に入れたのか?でもロックはかけている。指紋認証だ。
そのうえ、最後の編集時間は──たしかに“さっき”だった。
「ねえソウタ、それ……」
隣で覗き込んだミユが、眉をしかめて言った。
「絹ヱって……なんなの?
ここ数日、頭の中にこびりついて離れないんだよ。ずっと……ずっとおかしくなりそう」
ミユはそう言いながら、ぎゅっと両手で頭を抱えた。
ふだんなら冗談めかして言いそうなその言葉に、笑いはなかった。
「人の名前……?
地名? ブランド? なに? なんなんだよ……!」
ソウタの声も、ふるえていた。
ふたりの間に、じっとりとした沈黙が落ちる。
「ヒトエさんに聞こう。
あの人なら、何か知ってるかもしれない」
ソウタは一縷の望みにすがるように、スマホを手に取った。
通話履歴から、ヒトエの番号をタップする。
コール音は鳴らない。
ただ無音のまま、切断された。
メッセージも未読のまま。
LINE、メール──どれも返ってこない。
「まさか……」
ミユのつぶやきがには、怯えと恐怖が含まれていた。
ソウタはそれに応えるように、ぽつりと口にする。
「ヒトエさんまで……呪われたのかもしれない」
時刻は23時43分。
まもなく、シルクちゃんのデスラブ日和が更新される時間だ。
ソウタの手が、机の上で小刻みに震えた。
ミユは、もうスマホを見るのが怖くなっていた。
23時44分。
画面に、鮮やかな赤で浮かび上がる新着通知。
シルクちゃんのデスラブ日和が更新されました。
その記事の冒頭には、たったひとこと──
絹ヱにあらずは、愛にあらず。
─つづく