夏の特別企画「呪いのサイト・デスラブ」第3話|侵食する呪い

その日、ミユの記事に奇妙な一文が混ざっていた。

──「わたしは絹ヱに行きたい。できるなら、絹ヱで恋がしたい。」

編集部の誰も、その言葉にツッコまなかった。ミユ自身も、そんな文章を書いた覚えがないと言う。

「え?そんなこと書いたっけ? うそー、どこどこ?……あ、ほんとだ。なんでだろ」

一度だけではなかった。

別の記事にも、「絹ヱの愛しさに震える夜」「また絹ヱに会える日まで」といった、意味不明な表現がごく自然に差し込まれていた。

「えっ……こわ。なにこれ、あたし、やばくない?」

笑ってごまかそうとするミユの声は、ほんの少しだけ震えていた。

目次

絹ヱって、なに?

「……“絹ヱ”って、何?」

ミユがぽつりと漏らした。

朝方、編集部のミーティングルーム。白い蛍光灯の下で、ソウタはカタカタとノートパソコンを叩いていた。

「ネットで調べてみたけど……明確な情報はないね。地名っぽいのもあるし、古い物語に出てくるような言葉もあるけど、どれも断片的」

「ブランドとかじゃないよね?和菓子とかジュエリーの名前とか……」

ミユは、昨夜見た夢を思い出していた。

白くて長い廊下。真っ赤なヒールの足音。どこからか“絹ヱ……絹ヱ……”というささやき声。

──気づくと、記事にその言葉が混ざっていた。

「わたしの記事、勝手に誰か書き換えた?って思ったんだけど、たぶん……自分で書いたのかも」

ミユは自分の原稿に記されていた、不可解な一文を指差した。

──愛する絹ヱ。あなたのためなら、恋も死も、きっと等価。

「これ、書いた記憶まったくないんだけど……怖いくらい自然に入ってた」

ソウタは沈黙しながら、紙の地図を取り出した。電子地図にないような、昭和期の住宅街がびっしり描かれたものだ。

「ここに、絹枝神社(絹枝神社)って名前の場所があったらしい。戦後すぐに取り壊されて、今はスーパーの裏手に小さな祠だけ残ってるって」

「……名前、近いね」

「けど“枝”と“ヱ”は違うし、これが関係あるかどうかは……」

ふたりは何度も議論した。“絹ヱ”は人名なのか、場所なのか、儀式の言葉なのか、それともただの妄想か。

正体は見えないまま、しかしその存在だけは、静かに、確実に、彼らの周囲を浸食し始めていた。

調査の途中、以前コンタクトを取っていた民俗学者から連絡が途絶えた。SNSは鍵垢になり、大学の所属ページからも名前が消えていた。

さらに、ある都市伝説系ブロガーと連絡を取った翌日、そのブログは丸ごと削除され、連絡先も不通になった。

「ねぇ、これって偶然……かな?」

ミユの声が震える。

ソウタはゆっくりと首を横に振った。だがその瞳の奥には、不安と同じくらいの「真相を知りたい」という欲望が燃えていた。

編集部にも異変が──絹ヱに染まる日常

最初に気づいたのは、ミカコのホワイトボードだった。

「……これ、なんて書いてるの?」

ソウタが小声でつぶやいた。

編集部の壁際にあるホワイトボード。そこには黒と赤のマーカーでびっしりと、こう記されていた。

絹ヱにあらずは、編集者にあらず。

同じ言葉が、均一なフォントのように繰り返されている。だが、微妙に震えた筆圧。何かに取り憑かれたようなリズム感だった。

「ミカコさん、これ……」

「え? ああ、それ? 朝からずっと手が止まらなくて」

ミカコは涼しい顔でマーカーのキャップを閉めると、ボードを眺めてうっとりと微笑んだ。

「変じゃないでしょ? 最近の編集者は、絹ヱが足りないから」

「……え、絹ヱって何?」

ミユがひそひそと囁くが、ミカコはゆっくりと振り返る。

「絹ヱは、夢よ。編集者の魂を縫う、繭のような……」

そこへナナが紙袋を抱えて入ってきた。

「ちょっと〜また朝からホラーかましてんの? ほら、絹ヱ買ってきたから、みんなで食べよ♡」

「えっ、食べられるの!?」

ミユが目を丸くする。

ナナは紙袋の中を見せながら、ウインクした。

「あんたバカ? 絹ヱは宝石なの♡」

中にはゼリーのような小瓶がぎっしり詰まっていた。ラベルには「絹ヱ糖」の文字。

「これ、夜になると発光するらしいよ? しかも声も聞こえるって」

「……やばくない?」

「大丈夫大丈夫、こういうのはノリで食べるもんでしょ〜♪」

ミユが瓶を手に取る。キャップを開けると、微かに鉄のような匂いがした。

「ん……あれ? なんか、ちょっと……」

そこへケンジがやってきた。

「おい、ミユ、お前の記事見たぞ」

「えっ? なんかまずかったですか?」

「絹ヱ感が全然ねぇ」

「……き、ぬえかん……?」

「これじゃあ絹ヱっていうより“絹目”だな。反物の質感止まりだわ」

「質感止まり……?」

「“絹ヱ”はもっとこう、血で書け。魂で濡らせ。お前の骨を削ってでも光らせろ」

ミユが固まっていると、隣でリクが突然、直立不動になった。

「本日の絹ヱ!申し訳ありませんでしたああああぁぁッ!!」

その声は妙に響いた。まるでスタジアムに届くような音圧。けれどリクの顔は──満面の笑みだった。

「お、おいリク! 正気か!?」

「絹ヱ……絹ヱ……ああ、なんて響きだ……」

リクは顔を上気させ、ホワイトボードの言葉を指でなぞると、恍惚とした表情で繰り返した。

「編集とは、絹ヱ……愛とは、絹ヱ……」

──誰かが言った。“名前を呼んだ者から侵食される”と。

編集部の空気は、どこかねっとりと重たく、静かに狂気を吸い込んでいくようだった。

録画された“うどんの夜”

「ソウタさん、ちょっといいですか……これ、見ていただけます?」

その夜、編集部ビルのロビーで、警備員が声をかけてきた。初老の男性で、いつも受付にいる人だ。

「え……なんですか?」
「映像のことで。ちょっと気になる記録が残っていまして……」

警備員は、タブレットの画面を差し出した。そこにはロビーの防犯カメラ映像が映っていた。
画面に現れたのは、ミユ。

彼女はロビーの床にぺたりと座り込み、笑いながらカップうどんをすする。時刻は23時44分。 まさに「シルクちゃんのデスラブ日和」が更新される時間と一致していた。

スマホを片手に何度も画面をスクロールしながら、うどんをずるずる。明るく笑っているようにも見えるが、どこか“正気”の輪郭がゆらいでいた。

やがて食べ終えたミユは、カメラをじっと見つめた。
笑顔のまま、人差し指でカメラを指差す。

そして、ゆっくり口を動かした。

無音の録画だが、その唇の動きははっきりしていた。

「キヌヱ」「キヌヱ」「キヌヱ」

繰り返される名前。
まるで、恋人を呼ぶような、呪文のような──

ソウタは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

「……これ、ロビーは飲食禁止なんで、念のためお伝えを。
それと、ちょっと……気味が悪くて」

その夜は、それだけで終わった。

翌朝。編集部に向かう途中、ソウタはふとロビーで足を止めた。

警備ブースには、見慣れない若い男性が立っていた。
「あれ? あの、昨日の人は……?」

「ああ、あの人なら急に辞めちゃって。急遽僕が勤務につくことになりました」
「……え?」

ソウタはぞっとした。昨日の警備員は、あの映像を見せたあと、何かを“見てしまった”ような顔をしていた。

編集部に戻ると、ミユはあっけらかんと振る舞っていた。
「えー、うち? そんなとこでうどん食べたっけ?」
「あはは、深夜テンションだったのかも〜」
「……」

だがその笑顔の奥には、どこか“怯え”が潜んでいるように見えた。
彼女の視線は、スマホの画面をちらちらと確認しながら、ロビーの天井を一瞬だけ見上げた。

──誰かが、見ているような気がした。

メモ帳に浮かぶ名前

「……ん?」

ソウタは、自分のスマホ画面に目をこらした。
知らないうちに開かれていたメモ帳アプリ。その中には、ただひとつの言葉が羅列されていた。

絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ 絹ヱ──

何度も、何十回も、同じ単語が打ち込まれている。
まるで呪文のように、脳にじわじわと染み込んでくる感覚。指先が冷たくなっていくのを感じた。

「……僕、これ……いつ書いたの?」

喉がひりつく。
誰かが勝手に入れたのか?でもロックはかけている。指紋認証だ。
そのうえ、最後の編集時間は──たしかに“さっき”だった。

「ねえソウタ、それ……」

隣で覗き込んだミユが、眉をしかめて言った。

「絹ヱって……なんなの?
ここ数日、頭の中にこびりついて離れないんだよ。ずっと……ずっとおかしくなりそう」

ミユはそう言いながら、ぎゅっと両手で頭を抱えた。
ふだんなら冗談めかして言いそうなその言葉に、笑いはなかった。

「人の名前……?
地名? ブランド? なに? なんなんだよ……!」

ソウタの声も、ふるえていた。
ふたりの間に、じっとりとした沈黙が落ちる。

「ヒトエさんに聞こう。
あの人なら、何か知ってるかもしれない」

ソウタは一縷の望みにすがるように、スマホを手に取った。
通話履歴から、ヒトエの番号をタップする。

コール音は鳴らない。
ただ無音のまま、切断された。

メッセージも未読のまま。
LINE、メール──どれも返ってこない。

「まさか……」

ミユのつぶやきがには、怯えと恐怖が含まれていた。
ソウタはそれに応えるように、ぽつりと口にする。

「ヒトエさんまで……呪われたのかもしれない」

時刻は23時43分。
まもなく、シルクちゃんのデスラブ日和が更新される時間だ。

ソウタの手が、机の上で小刻みに震えた。
ミユは、もうスマホを見るのが怖くなっていた。

23時44分。
画面に、鮮やかな赤で浮かび上がる新着通知。

シルクちゃんのデスラブ日和が更新されました。

その記事の冒頭には、たったひとこと──

絹ヱにあらずは、愛にあらず。

─つづく

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