「こいこと。ライターになる」という野望は、ちゃんと叶った。文章を書く楽しさ、記事が公開される快感、読者の反応──すべてがわたしを満たすはずだった。けれど、その舞台に立つ代わりに、ひとりの男を失った。リク。強欲と書いてミサキと読む、なんて冗談を言っていたけれど、結局は勝ちと引き換えに愛を手放したわけだ。ふふ、皮肉なものね。
「おやおや、灰色の心臓が夜に光っとるやないか」
不意に耳に届いた声。振り向けば、カウンター席に腰を下ろしている黒い影──いや、影というよりも、輪郭の定まらない存在。ナツメ。不条理な詩人を気取るこの人物は、いつの間にか現れては人の心をひっかき回す。
さらにもう一匹──いや、一人? ワニの姿をした奇妙な来訪者が、無言で水の入ったグラスを口に運んでいた。ワニオ。恋愛を冷静にコスト計算するこの“恋に興味のない”ゲストは、相変わらずの無表情だ。
ライターにはなったけど、恋は失った。そんな微妙な心境のわたしの前に、ナツメとワニオ。……ねえ、誰がこのカオスを予想できた?
傷心モードのミサキ
「わたし、勝ったはずなんだよね?」──そう口にすると、自分でもちょっと笑えてきた。ライターになりたくて、こいこと。に入るために動いて、狙い通り夢は叶った。でもね、同時にリクとの関係は終わった。正確に言うと、わたしが選ばなかったんじゃなく、彼に“選ばれなかった”のかもしれない。ああ、ムカつく。
記事を書いているときはいいの。夢中になれるし、文字で自分を飾れる。でも夜になると、グラスを傾ける自分がいる。ふとよぎるのはリクの声とか、さりげない笑顔とか。……別に忘れたいわけじゃない。ただ、思い出すたびに「野望は叶えたけど、何かを失った」って事実を突きつけられるのよ。
「欲張りすぎた女の末路? それとも、戦略が成功した副作用?」──心の中で問いかけながらも、答えは出ない。周囲から見れば、勝ち取った女。けれど内心は、勝利の余韻よりも敗北感の方が大きい。矛盾してるでしょ? でもそれが、いまのわたし。
ナツメは無言でこちらを見つめ、ワニオはグラスの水をのんびりと飲んでいる。この二人の前で“傷心モードのミサキ”なんて見せるのも癪だけど……今夜くらいは、弱さを晒してもいいかもしれない。
ナツメより──詩人の不条理コメント
「愛は火や。燃え尽きたあとは灰になるんか、まだ燻る煙になるんか。お前の胸の奥で、どっちが残っとるんやろな」
唐突にナツメが口を開いた。輪郭の曖昧なシルエットのまま、彼は(彼女は?)グラスを逆さまに立て、なぜか三点倒立を始める。カウンターの上で。ねえ、マスター、なんで止めないの?
「恋は演算ミスの方程式や。答えが出えへんから、人はもがく。正解がないからこそ、未練は詩になるんや」
詩的なのか、ただの酔っぱらいの妄言なのか判断に困る。でも不思議と、その言葉は胸の奥をざわつかせる。灰になったのか、煙なのか──わたし自身も答えられない問いを、ナツメは平然と突きつけてくる。
「勝ったけど、負けた女。それもまた、美しい舞台や」
倒立をやめたナツメは、今度は椅子に体育座りして宙にふわっと浮かびはじめた。シルエットのくせに存在感はやたら濃い。ほんと、意味がわからない。でも心をえぐってくるのはズルい。
「やめてよ、そういうの」思わず口に出してしまう。ふふ、わたしが動揺するなんて、ほんと嫌な相手。
ワニオの冷徹分析
「……恋愛は、費用対効果が悪い」
静かに口を開いたワニオは、グラスを置き、尻尾で床を軽くたたいた。無駄な感情を排除した声音は、妙に現実的で耳に残る。
「リクとの関係、得られたリターンは? 自己実現とライターの肩書き。失ったものは? 時間と心の安定。数字で計算すれば、赤字だ」
「……ちょっと。恋を数字にしないでくれる?」
「できる。恋は投資です。投資対象を誤れば、破綻するだけ。恋愛市場においては、勝ち筋を読む者が残る」
ワニオの言葉は冷たいけど、妙に説得力がある。婚活を「戦場」と呼んだわたしの持論と、どこか響き合う部分もあって、悔しいけど否定しきれない。
「感情は誤差。未練はコスト増。冷静に切り捨てることが、合理的選択」
相変わらず表情は読めない。けれど、この冷徹さが逆に安心感を生むのかもしれない。ナツメが煙のように心を揺らすなら、ワニオは石のように現実を突きつけてくる。
「……あんたたち、ほんと正反対ね」ため息交じりにそう呟くと、ナツメはまたも空中で逆立ちし、ワニオは無表情でグラスを磨いていた。カオスってこういうことを言うんだろう。
カオストーク──恋は割に合わないのか?
「割に合わへんもんほど、人は追いかけるんや」ナツメが宙に浮いたまま、まるで風鈴みたいな声で笑う。詩なのか屁理屈なのか、判別不能。
「割に合わないならやめればいい」ワニオは即答。感情の揺れ幅ゼロの声は、逆に不気味なほど冷静。
「ふふ……あんたたち、よくもまあ真逆の意見を並べられるわね」わたしはグラスを指でなぞりながら呟く。正直、この空間の温度差で頭がおかしくなりそう。
「恋は炎や、燃え残った灰に顔を突っ込んでむせるのも、楽しみのうちや」ナツメは意味不明な比喩を繰り出しつつ、なぜか椅子ごとでんぐり返しを始めた。店内にいた他の客が一斉にこちらを振り返る。恥ずかしいからやめて。
「……冷静に考えれば、失恋は学習コスト。経験値として積み上がるなら、完全に無駄とは言えない」ワニオの分析はいつも通りドライで的確。だけど“恋はコスト”って言われると、身も蓋もないのよ。
「結局、割に合わないってわかっても、人はまた恋に落ちるのよね。合理的じゃないけど……止められない。それが人間の可笑しさであり、残酷さ」
わたしがそう締めると、ナツメは「せやから詩になる」と小声で呟き、ワニオは「……非効率」とだけ言い残した。三人の声が重なって、変なハーモニーになった。
まとめ──傷心もネタになる夜
こいこと。ライターになる夢は叶った。けれどリクとの別れが残した空洞は、思った以上に大きかった。勝ったのか、負けたのか。答えの出ない問いを抱えて、わたしは今ここにいる。
そんな夜に現れたのが、不条理詩人ナツメと、冷徹ワニのワニオ。意味不明な詩と合理的すぎる計算に挟まれて、心は揺さぶられ、笑えて、少し救われた気がする。まとまりのないカオスな会話だったけど、ひとつだけ確かに思えたことがある。
傷心も、ちゃんとネタになる。失恋の痛みも未練も、書けば物語になるし、語れば笑いに変わる。割に合わない恋だって、経験値として自分の中に残っていく。
ナツメは「灰の匂いも詩になる」と言い残して消え、ワニオは「次はもっと効率よくやれ」と呟いて去っていった。結局ふたりとも自由すぎ。でも悪くない。だってこうして、わたしの夜はまた一歩、前に進めたのだから。