涙のリサイクル工場の朝
朝の霧が、灰色の煙突の間をゆっくり流れていく。 街のはずれ、地図にも載らない場所にその工場はあった。 名前は──涙再生第一プラント。
門の前の看板には、青いペンキでこう書かれている。 「悲しみは資源です。分別をお忘れなく。」
中に入ると、白衣を着た作業員たちがせっせと涙を仕分けしていた。 ひとつの涙は“失恋由来”、もうひとつは“ペット喪失型”。 透明な涙は再利用可、濁った涙は要冷蔵。 そしてまれに、“笑いすぎて出た涙”が紛れ込む。 それは、どんな機械も処理できない。
工場の中央では巨大なタンクが唸っていた。 “やさしさ抽出機”。 稼働音はまるで、誰かがすすり泣いているようだった。
タンクの脇には、虹色のバケツを持ったナツメが立っていた。 しっぽがしずくを弾くたびに、空気の色が変わる。 ナツメは腕を組み、煙突を見上げた。
「涙を再利用するんはええけどな、 いずれ“泣く自由”まで規格化されるで。 泣き方マニュアル第3版──“適切な悲しみを推奨します”とか言いそうや。」
作業員のひとりが、機械の横から顔を出した。 「ナツメさん、今日のロット、ちょっと純度が高すぎまして……」 「ほう、純度100%の悲しみか? それはもう芸術やな。」 「違うんです。嫉妬の涙が混ざってまして……」 「なるほど。悲しみの中に、毒やな。 嫉妬は感情界の劇薬。薄め方を間違えると世界がにごる。」
ラインの奥から、異音が響いた。 ガコン、ガコン、ゴポポポ……。 白い蒸気が吹き上がり、天井のパイプが震えた。 タンクの中から泡立つ音。 まるで誰かが中で泣き叫んでいるようだった。
「ナツメさん!抽出ラインが暴走してます!」 「ほう、嫉妬が熟成したか。 “やさしさ抽出機”が逆流すると、“皮肉”になるんや。」
流れ出した透明な液体が、床を伝って広がっていく。 それを踏んだ作業員の足から、急に言葉が漏れた。 「お幸せに」 「いやいや、全然気にしてません」 「あなたが悪いわけじゃないの」 ……どの声も、優しすぎて苦しかった。
ナツメはバケツを持ち上げた。 「集めようか、この毒の涙。」 虹色のバケツがきらめく。 空気が一瞬だけ逆再生し、嗚咽がリズムになった。
「ここは、世界の悲しみをリサイクルする工場やけど、 実際のとこ、人間が捨てたいのは“感情そのもの”や。 便利な時代やな。泣かずに悲しむ方法まで自動化されとる。」
外ではトラックが並び、タンクから新しい製品が積み込まれていた。 ラベルにはこう印字されている。 「やさしさ濃縮エキス──無香料・無責任」
ナツメはため息をついた。 「人の涙を商品にする世界は、 そろそろ“悲しみ税”を導入してもええんちゃうか。」
煙突から立ちのぼる蒸気は、今日も曇り空に溶けていく。 その雲のどこかに、再利用待ちの涙が眠っている。
嫉妬の涙、混入
異音は、やがて言葉を帯び始めた。 タンクの中で泡立つ音が、誰かの囁きに変わっていく。
「どうしてあの子ばかり」 「わたしの方が頑張ってるのに」 「ねぇ、見てよ。ねぇ、わたしを見てよ」
その声が、やさしさ抽出機の金属壁を震わせた。 パイプの継ぎ目からピンク色の蒸気が噴き出し、 床一面が“嫉妬の湿気”に覆われる。
工場全体の空気が粘りはじめた。 人の心みたいに、触るとまとわりつく。 作業員たちの白衣が、ゆっくりと緑色に染まっていく。
ナツメは鼻を鳴らした。 「おっと、これは“優しさ”が発酵してもうたな。 ほっとくと、“見せかけの共感”になるやつや。」
“やさしさ抽出機”のメーターが狂ったように跳ね上がる。 液体の流量計が「∞」を示し、針がぶるぶる震えた。 天井から吊られたホースが外れ、工場の隅々へと“愛想笑い”が散布された。
作業員のひとりが声を上げた。 「ナツメさん、やさしさが……攻撃的です!」 彼の手に触れた液体が、“お大事にね”という文字に変わり、 そのまま皮膚に焼きついた。 火傷のように赤く、優しい言葉ほど痛そうだった。
ナツメはバケツを手に、天井を見上げた。 「見ろ、嫉妬は空気より軽い。 だからこうして、いつも上に溜まるんや。」
天井のすみには、浮遊する涙の泡があった。 中には人の顔が映り、笑っていたり、睨んでいたり。 ひとつが弾けるたびに、“いいね”の音が響く。
ナツメは苦笑した。 「SNSの雲、ここまで来とったか。 フォロワーの影が工場を侵食してる。」
やさしさ抽出機の警報が鳴った。 スピーカーからは、無数の声が重なって聞こえる。
「あなたのためを思って」「大丈夫、私は平気」「気にしてないよ」 それらはみな、“やさしさ”の皮をかぶった“嫉妬”だった。
工場の床に、虹色の水たまりが広がっていく。 鏡のように反射して、ナツメ自身の顔が映る。 その顔の中にも、誰かの影があった。 「お前も嫉妬するんか?」と声がした。 ナツメは笑った。 「詩人やって生きもんや。 書けん夜が続けば、他人の感情だって羨ましくなる。」
そう言ってナツメは、虹色のバケツを持ち上げた。 「さて、“感情の下水処理”は詩人の仕事や。 流した涙、ちゃんと掬(すく)ってお返ししよか。」
バケツを傾けると、光が歪んだ。 液体の中に、無数の“嫉妬の顔”が映り込む。 それはもう、人の涙ではなかった。 独り言と独り勝ちの境界線が、泡のように弾けていく。
「嫉妬の再利用は難しい。 なぜなら、誰かを羨む気持ちは“自分を忘れたい願い”そのものやからな。」
ナツメの言葉に、工場の照明が一斉に明滅した。 蛍光灯がまぶしすぎて、影さえも泣いているようだった。
そして次の瞬間、やさしさ抽出機が大きく息をした。 「フゥウウウウウウウウウウウ……」 その音はため息でも、風でもなく、 ──笑い声だった。
「笑うなよ、機械のくせに」 ナツメはバケツを構えた。 「よっしゃ、次は“やさしさの死骸”を掬い上げる番や。」
ナツメ、暴走ラインへ突入
工場の警報がけたたましく鳴り響いた。 赤いランプが回転し、床下から泡立つ音がする。 涙の配管が破裂し、天井から“感情の雨”が降り始めた。
やさしさ、後悔、羨望、偽善、共感、孤独。 それらが色も香りもない液体になって、床を覆い尽くす。 どこからか小さな声が聞こえた。 「すべての感情には有効期限があります」
ナツメは虹色のバケツを抱え、 まるで消防士のような顔で、暴走ラインへ走った。 「“心の火災”はだいたい“共感”から出火するんや」
タンクの内部では、巨大な“やさしさの心臓”が脈打っていた。 人間たちの涙を圧縮してできた擬似臓器。 鼓動のたびに、誰かの声が漏れる。 「ありがとう」「気にしてないよ」「あなたの幸せを願ってる」 ──それらは、やさしさの仮面をかぶった悲鳴だった。
ナツメは走りながら叫んだ。 「おーい!やさしさは再利用すると“同情”になるぞー!」 だが誰も聞いていない。 工場員たちは、泣きながら機械を抱きしめていた。 機械の方が静かに見えた。
床下の排水溝から、透明な魚が飛び出した。 目の代わりにハートマークが描かれている。 「感情魚」──泣きすぎた人間の涙から生まれる生き物だ。 群れになって泳ぎ、機械の間をくぐり抜ける。 一匹がナツメの肩にとまった。 「泣くのも、仕事なんです」 ナツメは微笑んだ。 「せやけど、涙に残業代は出んで?」
突然、タンクの中心部から光が放たれた。 それは、嫉妬とやさしさが化学反応を起こした結果だった。 光は白く、眩しく、どこか懐かしい。 まるで“初恋”を煮詰めた匂いがした。
ナツメは立ち止まった。 「なるほど。 やさしさと嫉妬を混ぜると、“想い出”が生成されるんやな。」
工場全体が震えた。 壁に貼られた標語がバタバタと落ちていく。 「泣いたらスッキリ!」 「感情のSDGs!」 「涙を無駄にしない社会を!」 その下から、古びたポスターが出てきた。 そこにはこう書かれていた。 「悲しむこと、それ自体が美しい。」
ナツメは少し笑った。 「やっと原点が顔出したな。」
暴走した配管から“共感スライム”があふれ出し、 床を覆い尽くしていく。 触れると安心するが、離れると強烈な虚しさが残る。 作業員たちはそれにすがり、溶けながら泣いていた。
ナツメは虹色のバケツを掲げた。 「共感の沼にハマった人類を救う方法はひとつ。 “あえて無関心”になることや。」
そう言って、バケツの中に一滴の自分の涙を垂らした。 その瞬間、工場の照明が一斉に消えた。
真っ暗な中で、ナツメの声だけが響いた。 「なぁ、“やさしさ”ってな、 人を傷つけんために使うもんちゃうねん。 ほんまは、自分がまだ人間であることを確かめるための、 ほんの小さな証拠や。」
その言葉が、まるで合図のように、 バケツの中で小さな光が生まれた。 光は虹色の魚の形をとり、空に向かって泳ぎ始めた。
「……お前、“涙魚”の進化形か。」 ナツメは笑った。 「ええやん、“希望”の骨格持っとる。」
魚が天井を突き抜けると、外の空が青く染まった。 それは、夜明けよりも早い朝だった。
第四場面:終幕──虹のしずく
機械の唸りが止み、工場は奇妙な静けさに包まれた。 しばらくして、パイプの奥から「ポトン」と小さな音がした。 ひと粒の涙が、虹色のバケツの中に落ちたのだ。
その一滴は、まるで世界のすべての感情を凝縮したような色をしていた。 悲しみの青、嫉妬の緑、優しさの金、そして後悔の灰。 それらが渦を巻きながら混ざり、虹色の泡を立てている。
ナツメはその光景をじっと見つめた。 「感情の終わりって、こんなに静かなもんなんやな。 泣き疲れた世界のまばたき、みたいな音や。」
足元には、壊れた“やさしさ抽出機”の残骸が転がっていた。 側面には小さく「再利用不可」と刻印されている。 ナツメは指でなぞりながら言った。
「悲しみは捨てられへん。 でも使いまわしたら、腐るんや。 それでも人は、“もう一度、優しくなれるかもしれへん”って信じて、 今日も泣くんやろな。」
バケツの中の涙がゆっくりと固まり、ひとつの小さな“結晶”になった。 光を受けて、まるで心臓のように脈を打っている。 ナツメはそれを手に取り、煙突の方へ歩いた。
「お前は“希望の原石”や。 でもな、希望ってのは誰かに見せびらかした瞬間に粉々になる。 せやから、空に放っとこ。」
ナツメが結晶を投げ上げると、空気が弾けた。 虹が逆さに広がり、空の裂け目から雨が一筋落ちてくる。 その雨は甘い匂いがした──たぶん、懐かしさの味だ。
工場の煙突がゆっくりと傾き、やがて地面に沈んだ。 あとには、何も残らなかった。 看板も、作業員の姿も、消えていた。 ただ、地面にひとつだけ文字が刻まれていた。
「涙は、捨てられない記憶のしずく。」
ナツメは立ち止まり、風に向かって帽子を脱いだ。 「まぁ、リサイクルできん記憶も、たまには残しとこか。 世界が完全循環したら、詩の居場所がなくなるしな。」
虹色のネコは、バケツを肩にかけ、空に向かって歩き出した。 足跡のあとには小さな花が咲いている。 その花びらは、どれも涙の味がした。
──ナツメ式「バケツと涙のリサイクル工場」 了。

