恋を手放しても、言葉は残る──リクの夜

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BAR恋古都にて

 仕事帰り、なんとなく足が向いた。
 夜風の冷たさに背中を押されるように、久しぶりに「BAR恋古都」の扉を開けた。
 ウイスキーの香り、静かなジャズ。編集部とは違う空気に、少しだけ肩の力が抜ける。

 カウンターに腰を下ろし、グラスを傾けていると──
 「……あら、チョロ助。仕事終わりに飲むなんて珍しいじゃない」
 その声に、思わず振り返った。

ミサキがいた。
こいこと。編集部では何度も顔を合わせているけれど、
こうして“ふたりきり”で会うのは、久々かもしれない。
髪をかきあげながら微笑むその仕草は、やっぱり絵になる。

 「……ここ、ミサキも来るんだ」
 「もちろん。編集部のネタ元よ。ほら、恋古都って名前がもうロマンチックでしょ?」
 そう言って、彼女は隣の席に腰を下ろした。

 「こいこと。の新企画、読んだよ。“ミサキ様が通る!”だっけ」
 「そう。どう、目立ってたでしょ?」
 「うん。派手だった。……でも、ちゃんと中身もあった」
 「まぁ、当然でしょ。あたし、天才だもの♡」

 ふたりで笑った。
 編集部では冗談も交わすけど、
 こうして向かい合うと、どこか距離感が違う。
 恋人ではない、けれど完全に他人でもない──そんな空気。

 「最初に会ったとき、こんな人だと思わなかったよ」
 「ふぅん、どんな?」
 「もっと落ち着いてて、控えめで……。でも実際は、欲張りで負けず嫌いで。
  ……そういうとこ、けっこう好きだった」

ミサキはグラスを口元に運びながら、ちらりと笑う。
「“だった”って過去形にしとくあたりが、チョロ助らしいわね」
「チョロ助って呼ぶの、ふたりだけの時にしてくれよ」
「フフフ。いいじゃない、チョロ助くん、新企画“チョロ助くんが悩む!”でもやれば? バズるわよ」
「……タイトルセンス負けた」

ミサキが笑う。
それは編集部で見るより、ずっと自然で、少しやわらかかった。
ふたりの間に、懐かしいような、落ち着く沈黙が流れた。

仕事と嫉妬と、ほんの少しの未練

 「そういえば最近、編集部でのミサキ、なんか変わったよな」
 「変わった? どこが?」
 「うーん……いい意味で“素”が出てきたっていうか」
 「ネコかぶってたのがバレただけよ」
 「いや、それがさ。前より面白い」

 ミサキは「何それ」と言いながらも、どこか満更でもない顔をした。
 たぶんこの感じ、昔から変わらない。
 彼女は褒め言葉を素直に受け取らないくせに、
 心のどこかでは誰よりもそれを求めている。

 「最初、君の記事が読まれるたびに焦ってたんだ」
 「へぇ? チョロ助くんでも、焦ることあるのね」
 「あるよ。読者コメントで“ミサキさんの文が刺さる”とか、“リクさんのは優しすぎる”とかさ。
  ……正直、嫉妬してた」

 ミサキはグラスをくるくる回しながら、小さく笑った。
 「嫉妬なんて、可愛いじゃない。……でも、それがあったから、今のリクがいるんじゃない?」
 「そうかもな。負けたくなかったんだ、たぶん」
 「ふふ。わたしもよ」

 リクは思わず目を上げた。
 「え?」
 「最初はね、“チョロ助を利用してやる”って思ってたけど、
  気づいたら、負けたくない相手になってた。……だから、たぶんおあいこ」

 その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 彼女はあの頃よりずっと強くなった。
 だけど、たまに見せる“優しさの抜け道”が、今も変わらずずるい。

 「……ほんと、敵わないな」
 「知ってる。だからちゃんと頑張りなさい、チョロ助くん」

からかうように言って笑うミサキ。
けれどその笑顔には、どこか懐かしい温度があった。
リクはふと、あの日別れを告げた夜のことを思い出した。
“ミサキはもう、遠くへ行ってしまうんじゃないか”──そんな不安を、まだほんの少しだけ抱えたまま。

“チョロ助”を超えて──ふたりの新しい距離

「そういえば、あの記事……“優しさがつらい夜に”、読んだわ」
「え、マジで? あれ、けっこう昔のだろ」
「再掲されてたのよ。読み返してびっくりした。
昔より深く響いたわ。いまだから気づく繊細な表現が素敵だった」

ミサキがそう言うと、リクは少し照れくさそうに笑った。
「昔はその言葉で、俺も自分をごまかしてたのかもしれないな」
「ふぅん。でも、あなたの文章ってずるいのよ」
「ずるい?」
「読んでる人の“弱いとこ”に、ちゃんと触れてくる。
わたしみたいな強欲女でも、ちょっと救われた気になるの。……それがずるい」

 リクは驚いたように目を見開いた。
 「そんなふうに言われたの、初めてかも」
 「当たり前よ。こいこと。のライターで、あなたに嫉妬してたのわたしだけだもの」
 「それ、褒めてる?」
 「たぶん。……いや、間違いなく褒めてるわ」

 ふたりの間に、また静かな笑いがこぼれた。
 恋人時代よりも穏やかで、少し切ない空気。
 でも、どちらもその沈黙を嫌がらなかった。

 「ミサキ」
 「なに?」
 「ありがとう。たぶん俺、君に出会ってなかったら、
  “書くこと”をちゃんと好きになれなかったと思う」

 ミサキは返事をしなかった。
 ただグラスを持ち上げて、小さく微笑んだ。
 「……あら、それならよかったじゃない。チョロ助を育てた女として、誇りに思うわ」

 「“育てた”は違うだろ」
 「そう? まぁいいわ。あなたはあなたの言葉で、私は私の毒で世界を動かすの。
  お互い、やること山ほどあるでしょ?」

ミサキが立ち上がり、コートを羽織る。
「じゃあね。これからも仕事で勝負しましょ」
「うん。……手加減なしでいくよ」
「上等」

ドアの向こう、夜の街に消えていく彼女の後ろ姿を見送りながら、
リクはふと笑った。
“やっぱり、強欲と書いてミサキ、か。”

グラスの氷が静かに鳴る。
恋は終わっても、火はまだ消えていない。
――言葉の世界で、ふたりの物語は続いていく。

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