わたし、よく言われるの。 「ミサキさんって、恋愛の話になると急に目が静かになるよね」って。 あれ、たぶん当たってる。 だって、恋って静かに見つめてる方が面白いんだもの。
街を歩いているとき、彼の腕にぴったりくっついて歩く女の子と、 ほんの少し離れて並ぶ女の子がいる。 どっちが愛されてるか、って聞かれたら、 わたしはたぶん、後者だと思う。 距離を怖がらない人のほうが、恋を長く続けられるから。
くっついていないのに、ちゃんと隣にいる。 その自信が、恋を強くする。 でも、そんな自信を持てる人って、そう多くない。
恋をしてると、誰かの“好き”の量が気になって仕方ない。 彼はわたしを本当に想ってる? 他の子と比べてくれてる? 言葉にしない愛は、まるで幽霊みたい。 存在してるのか確かめようとすればするほど、どこかへ消えていく。
だからね、わたしはもう“確かめる恋”をやめた。 確かめるって、裏を返せば疑うこと。 信じるフリをするより、疑わない努力をする方が疲れる。 愛って、疑った瞬間に音を立てて崩れるのよ。
……なんてことを平気で言うから、 「ミサキさんって冷たいですね」って笑われる。 でも、違うの。冷たいんじゃなくて、わかってるだけ。 恋は、持ちすぎると壊れるって。
好きな人を大事に思うほど、 つい“自分の中に閉じ込めたくなる”でしょ? 「他の人に見せたくない」って。 あれは独占欲なんかじゃない。 愛が自分の一部になりすぎるのよ。 わたしの中の“わたし”と“あなた”が溶けていく。 それを止めたくて、つい、鍵をかけちゃう。
昔のわたしは、それを「愛情の深さ」だと思ってた。 相手のSNSをチェックして、 返信が遅いだけで世界の終わりみたいに落ち込んで。 愛ってもっと自由で、軽やかなものだと頭ではわかってたけど、 感情はそんな理屈を聞いてくれなかった。
……でもね、人って面白いもので。 一度“愛で疲れた”経験をすると、 次の恋では不思議と少し冷静になる。 まるで熱を出したあとの体が、 次の風邪をちゃんと覚えているみたいに。
それ以来、わたしは「自分の中の温度計」を信じるようになった。 相手の温度じゃなくて、自分の温度。 誰かを思うとき、 その気持ちが優しく穏やかなら、たぶん正しい。 焦りや不安ばかりが先に立つなら、 それはもう“愛”じゃなくて“支配”だ。
支配。 わたし、この言葉がずっと苦手だった。 だって、響きが悪いでしょう? でもね、最近思うの。 愛って、少しだけ支配を含んでるほうが、 人間らしくて綺麗なんじゃないかって。
だって、完全な自由の中で愛し合うなんて、 結局“他人同士のまま”ってこと。 どこかで少しだけ、相手の人生に触れてしまう。 その“触れてしまった跡”が、恋の証だと思う。
そういう意味では、 「愛される女」って、自分の心の触れ方を知ってる人。 踏み込みすぎず、離れすぎず、 ちょうどいい“呼吸の距離”を保てる人。 そして何より──相手の沈黙を怖がらない人。
昔ね、ある人に言われたの。 「ミサキって、何を考えてるかわからない」って。 それ、褒め言葉だと思ってる。 わたしは“全部わかる恋”に興味がない。 わからない部分があるから、続けられるのよ。 全部説明して、全部見せ合って、全部共有して、 残るのは“安心”じゃなくて“退屈”なの。 恋って、いつだって“余白”が美しい。
もちろん、そんなふうに割り切れる日ばかりじゃない。 誰かに惹かれて、理性なんて役に立たない夜もある。 「いまどこ?」「誰といるの?」って、 心の中で100回も問いかける。 でも、そのたびに思うの。 この痛みすらも、恋の一部なんだって。
だからわたし、もう恋を怖がらない。 愛されることも、愛することも、 結局は“自分をどう扱うか”の話だから。 相手がどう変わっても、 自分がちゃんと自分のままでいられるなら、 それだけで恋は成功だと思ってる。
それにね、 愛される女って、じつはみんな「自分を愛する才能」がある。 他人に投げる優しさを、自分にも向けられる人。 わたしはまだその途中。 でも少なくとも今は、 誰かの愛で形を決められる女ではいたくない。
恋って、不思議。 人を狂わせるくせに、人を賢くもする。 痛みをくれるくせに、同時に救いにもなる。 たぶんそれが、恋という魔法の二面性。
だから今日も、 街のどこかで腕を組む誰かを見て、 わたしは心の中でそっと思うの。 「どうかその恋が、ちゃんと育ちますように」って。
――そして、できるなら。 わたしの心のどこかで、 もう一度だけ、誰かを本気で愛せますように。

