Ⅰ.夜の裏通り、笑顔の腐臭
月の光は、紙やすりみたいに街の角を削っていく。人通りの絶えた裏通りには、夜だけ開く収集所がある。燃えるゴミの曜日でも、資源回収の日でもない。ここに置かれるのは、使い過ぎてほつれた言葉、磨きすぎて鈍った視線、そして――抱えきれなくなった「やさしさ」。
黒いポリ袋の口は、どれもきちんと結ばれている。結び目に下がる白い札には、細い字で〈大丈夫だよ〉〈気にしないで〉〈また今度ね〉と書かれている。袋の中で、笑顔がぬるりと音を立てる。夏ではないのに、匂いだけが夏の残滓を思い出させる。
路地の奥に、屑籠がひとつ。鉄でできた古びた口は、夜になると勝手に開き、朝には勝手に閉まる。誰が設置したのかは誰も知らない。ただ、迷い切った人たちだけがここへ辿り着く――そんな仕組みだけが黙って働いている。
わたしは、その口のそばに座る。虹色の毛並みは、月に照らされるたびに色相を変える。青はため息、紫は諦め、橙はまだ温かい手のぬくもり。ひと舐めすれば分かる――今日も、たくさんのやさしさが腐りかけている。
「ここはな、人が抱えすぎた“やさしさ”を捨てに来る場所や。
笑顔の腐臭が、いちばんキツいんや。」
遠くで、誰かの靴音が、水溜まりを浅く叩いた。遅れて届く波紋みたいに、心の音も遅れてやって来る。袋がひとつ、またひとつ、足元に置かれる。その重さに比例して、月は少しだけ痩せて見えた。
屑籠の底には、白い繊維のようなものが絡み合っている。あれは、過去に捨てられたやさしさの筋。ほどけば糸になる。編めばマフラーになる。けれど、首に巻いたとたん、誰もが咳き込む。温かすぎるやさしさは、喉をふさぐのだ。
今夜も番をする。入れて、見届けて、燃やす。灰にして、風に返す。それがわたしの仕事で、わたしの祈りや。やさしさに値札をつけないための、ささやかな抵抗でもある。
Ⅱ.やさしさを捨てに来た女
小さな鈴の音がした。振り向くと、街灯の切れた角から、ひとりの女が歩いてきた。
手に下げた紙袋の底が湿っている。袋の口からは、白い光がかすかに漏れ、まるで生き物の呼吸みたいに揺れていた。
女は三十代半ばくらい。疲れた表情に、まだ人を思う温度が残っている。
細い声でつぶやいた。
「ここで……“やさしさ”を捨てられるって、聞きました。」
わたしは頷いた。尻尾の先で地面を叩く。
「せや。中身、見せてもええか?」
女は紙袋を開けた。中には、光る手紙が数枚と、しぼんだ花びらが入っていた。
ひとつの手紙には、〈あなたの幸せを願っています〉と書かれている。
もうひとつには、〈ごめんね、でも大丈夫だから〉。
光は弱く瞬き、じきに曇った。
それは、長く持ちすぎたやさしさの末期の輝きだった。
女「もう優しくするの、しんどいんです。
本当は怒りたかったし、泣きたかったのに……。」
ナツメ「ほな、それも立派な優しさやな。」
女は顔を上げた。
「……それでも、もう誰かに渡すのが怖いんです。」
わたしは屑籠の蓋を押し開けた。中は真っ暗やけど、底の方で何かが動いていた。
やさしさは、捨てられるとき、いつも一度だけ泣く。静かな、無音の泣き声で。
女は袋ごとそれを放り入れた。光がゆっくりと沈む。
その瞬間、路地裏に風が吹いた。湿った風が、女の髪を揺らし、ひと房だけナツメの頬に触れた。
わたしはつぶやく。
「やさしさいうのは、捨てるたび、ちょっとだけ形を変えて戻ってくる。
まるで……夢のカスみたいや。」
女は笑った。泣くみたいに笑って、そのまま路地の闇に消えていった。
その背中に、夜の光がひとすじ、細く差していた。
Ⅲ.やさしさが芽吹く
深夜二時を回ると、屑籠の底がふくらみはじめた。鉄の目に詰まった白い繊維――過去に捨てられたやさしさの筋が、水を含んだパンみたいに静かに膨張する。耳を近づけると、微かな囁きが混じっている。
〈だいじょうぶ〉〈むりしないで〉〈またね〉
どれも聞き覚えのある言葉や。町のどの角にも転がっている、角の取れた石みたいな挨拶。わたしは蓋を少しだけずらす。湿った匂いが立ちのぼり、路地の闇に薄いミルク色の靄が張った。
最初の芽は、音もなく現れた。針の穴ほどの白い点が、ぴんと伸び、糸のような茎をつくる。次に二枚の葉が開く。葉脈は封筒の宛名のように細く、ところどころに文字が光っている。指で触れると、葉の表面に「ありがとう」の筆致が浮かんでは消えた。
やさしさが芽吹く。
捨てられ、湿り、腐りかけ、なお、芽吹く。
屑籠の周りには、いつの間にか人影が集まっていた。誰もが眠そうな表情で、パジャマにサンダルのまま、夢の中を歩くみたいにここへ来る。彼らは互いに目を合わせない。けれど、全員が同じ場所――白く光る屑籠の口を見つめている。
芽は次々と増え、茎どうしが絡まり、薄い花弁が重なる。花は白い。乳白色の内側に、かすかな桃色が滲んでいる。花粉は粉砂糖のように細かく、息をするたび鼻腔に貼りつく。それは甘く、少し冷たい。
男の声「……あの、触ってもいいですか」
ナツメ「好きにしたらええ。ただし、自己責任やで」
声の主は、コートの襟を立てた青年だった。目の下に薄いクマ。指先だけが子どもみたいにきれいで、その指で花びらを摘んだ。花粉がふっと舞い、彼の鼻に触れた瞬間、表情がほどける。
青年はゆっくりと口を開いた。
「大丈夫だよ」
彼は隣に立つ見知らぬ老女の肩に手を置いた。老女は驚いた顔をして、すぐに泣き出した。涙は静かで、床に落ちる直前に蒸発する。蒸気は甘く、どこか病院の匂いに似ていた。
ひとりが言うと、もうひとりが言う。
〈気にしないで〉〈ごめんね〉〈また今度〉
やさしさは伝染する。花粉は息に乗り、呼気は路地を満たす。言葉は同じ意味を繰り返し、重なり合って重さを増す。やがて、人々の肩が一斉に落ち、顔がやわらぐ。誰もが、誰かの痛みに気づいた顔をしている。けれど、その〈誰か〉はこの場にはいない。
わたしは屑籠の縁に前足をかけ、花の群れを見下ろした。花弁の裏側で、小さな嘴のようなものが動き、言葉をついばんでいる。食べられた言葉は蜂蜜になり、茎を伝って滴る。地面に落ちた蜜は、黒蟻を呼ぶ代わりに思い出を呼んだ。
思い出は、影のかたちで現れる。自転車で追いかけっこした影、駅の階段で手を離した影、病室で笑って首を振った影。影たちは壁に沿って歩き、花の周りで静かに膝を折る。ひざまずいた影の肩に、白い花粉が降り積もる。
女の声「やさしさって、また、咲くんですね……」
ナツメ「せや。捨てられたら、いっぺん腐って、栄養になるんや」
女の声「栄養になるなら、捨てることも、正しかったのかな」
ナツメ「正しいかどうかは、いつも遅れて来るで」
花が一斉に呼吸を始めた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。吸うたびに路地の壁がわずかに近づき、吐くたびに空が広がる。世界の寸法が、花の呼吸に合わせて伸び縮みする。街灯は背伸びをし、電線は弦楽器みたいに震えた。
誰かが笑い、誰かが謝り、誰かが許した。
許しはやがて、ひとつの音になる。遠くの踏切の鳴動のように規則的で、やさしいが、止められない。
わたしの毛並みは、花粉を浴びてゆっくり色を変えた。乳白から薄桃、やがて灰色へ。灰色は迷いの色や。尻尾の先にだけ、かろうじて青が残る。青は嘘をつけない。
花の群れは屑籠を越え、路地の石畳の隙間からも芽を出し始めた。排水溝から、ポストの口から、自販機の返却口から。善意の細い茎が、無数のコードのように地表を這う。それらが絡み合い、路地は白い編み物になった。足首まで沈むほど柔らかい。
編み目の間に、紙片が挟まっているのが見えた。拾い上げると、そこには幼い字で〈やさしくして〉と書いてあった。裏には、別の字で〈あんたはもう十分やさしい〉。筆圧が強く、紙がへこんでいる。二つの筆跡は、同じ人間の表と裏かもしれん。
花粉はますます濃くなる。やがて、人々は順番に誰かへ電話をかけはじめた。通話の相手は、たいてい出ない。それでも彼らは、留守番電話の向こうに向かって丁寧に話す。
〈さっきはごめん〉〈気を遣わせたね〉〈ほんとは助かった〉
声と言葉が重なって、空は白く霞む。霞の中で、月は薄い指輪のようにたわむ。耳を澄ませば、たわんだ縁から液体が滴っている音がする。月のひかりは液体で、今夜は少しこぼれすぎている。
わたしは屑籠の側面に付いた小さなバルブをひねった。中に仕掛けた古い扇風機が回り、低い唸りを上げる。風は花粉を撫で、路地の外へ追い出すはずやった。けれど、花粉は風に乗らず、風をやさしく包み込んだ。やさしさは、押し出すより先に抱きしめてしまう。
と、そのとき。花の中央がふっと開き、薄い舌のような器官がのぞいた。舌は濡れていて、文字を味わおうとする。近くに残っていた札の〈また今度〉に舌が触れ、ゆっくり吸い上げた。文字は透明になり、札はただの紙に戻る。
言葉が食べられる。
食べられた言葉は砂糖水になって、茎の中を上る。
花はさらに大きく、さらに白くなる。
集まっていた人々の視線が、だんだんとぼんやりしてきた。やさしさの過剰摂取。瞳の焦点が、ほんの少しずれる。優しい人の顔には、しばしば空白が宿る。その空白は、誰かの痛みを入れておくための空所やけど、長く開けっぱなしにしておくと、風が通いすぎて風邪になる。
青年「僕、もう大丈夫です。誰にでも優しくできます」
ナツメ「それは危険や。『誰にでも』は、たいてい『自分以外』を意味するからな」
青年は首を傾げ、笑った。笑顔の縁から花粉がこぼれる。こぼれた粉は、足元の影に吸い込まれる。影は甘さを嫌うはずやのに、今夜の影は甘さに飢えていた。
路地の向こう側で、パトライトが短く回った。誰も来ないのに、赤と青が壁に流れる。色は花びらに染み込み、白は薄桃から、やがて夜明け前の空の色になった。世界はやさしさで色を変える。やさしさは、染料として優秀や。ただし、落ちにくい。
わたしは前足で屑籠を軽く叩いた。鈍い音。花々はわずかに震え、息を止める。
「もうええか?」と、路地に問いかける。答えはない。代わりに、屑籠の底で微かな音がした。
それは、朝の靴音に似ていた。
やさしさは満開になった。開ききった花の中心に、小さな種が見える。種は白い。粉砂糖を丸めたような軽さ。
誰かがそれを摘み取れば、誰かの胸に根づくやろう。たぶん、また同じことが起きる。
わたしは小さく息をつく。
「せや、人間は“やさしさ中毒”や。
せやけど、中毒の向こう側にしか見えへん朝も、ある」
夜風が、花の群れに最後のひと撫でをした。花粉がふわりと舞い上がる。白い雪に似たそれは、上へ、上へ。月の薄い指輪に吸い寄せられ、見えなくなる。路地は一瞬、深い静けさに沈んだ。
そして、遠くで鳥が鳴いた。まだ夜の色を残した鳥の声や。花は、まるでその合図を心得ているかのように、わずかに萎れ始めた。
崩壊は静かな方が、よく見える。
わたしは屑籠の蓋を両手で支え、ゆっくりと閉めた。
蓋の縁が鉄と鉄で擦れて、日の出前の色の火花をひとつだけこぼした。
Ⅳ.灰の光
夜が溶けて、朝の匂いが路地に流れ込む。パンの焼ける匂いと、昨日の雨の匂いがまじり合っていた。白かった花々は、夜明けとともに灰色に変わる。茎はしおれ、花弁は紙のように薄くなり、指で触れたらすぐに崩れそうだった。
人々の姿はもうない。誰もが夢の続きを見に帰ったのだろう。路地に残っているのは、灰の粉と、ほんの少しの香り。わたしは屑籠の前に座り、尻尾で地面の灰を撫でた。
灰の中には、まだ微かな熱がある。
捨てられたやさしさが、燃え尽ききれずに残した“体温”。
わたしはそれを掌にすくってみた。光の欠片が、指の隙間からこぼれる。
「やさしさは、腐ってもなお、花になろうとする。
せやけど、ほんまに綺麗なんは、
誰にも見られへん“腐る途中”なんかもしれんな。」
屑籠の奥から、ひと筋の風が吹いた。蓋がかすかに開き、灰がふわりと浮かぶ。陽の光を受けた灰は、一瞬だけ虹色に光った。それはナツメの毛並みの色と同じ。
わたしは鼻先でそれを追い、ゆっくりと息を吐いた。灰は空気に溶け、やがて見えなくなる。
空を見上げる。夜の残滓がまだうすく漂っている。
月と太陽が重なりかけるその瞬間だけ、世界の輪郭は曖昧になる。
その曖昧さの中で、人はやっと優しくなれるんやろな、とふと思う。
路地の端に置かれたひとつの袋が、まだ開けられずに残っていた。
札には、乱れた文字でこう書かれている。
〈どうか、あの人が幸せでありますように〉
わたしは袋を持ち上げた。中には光はない。ただの黒い空気が入っている。
それでも、手に伝わる重みは確かだった。
屑籠はもう満杯だ。けれど、空はまだ広い。
わたしは袋を破り、黒い空気を空へ放つ。
それは煙のように昇り、雲の隙間で形を変える。ハートでも、花でもなく、ただの風の線になって消えた。
静寂。
朝の光が路地の端から差し込み、屑籠を照らす。
鉄の表面に、微かな反射が生まれた。その反射の中に、誰かの笑顔の輪郭が見えた気がした。
けれど、それが誰のものかは、もう分からない。
わたしは、屑籠のそばに腰を下ろし、爪の間についた灰を舐めた。
舌の上に残るのは、少しの苦みと、甘さと、そして人間の味。
空気が少しあたたかくなった。
わたしは目を細めてつぶやく。
「やさしさは、いつも灰になる直前がいちばん眩しい。
だから、わたしらはまだ、燃え尽きんと生きとるんやろな。」
朝の街が目を覚ます。
わたしは尻尾で灰を撫で、屑籠の蓋をそっと閉じた。
カタンという音が、祈りの終わりみたいに響いた。
――そしてまた夜が来たら、誰かがここへやってくる。
新しい「やさしさ」を、静かに捨てに。

