わたしにも、そんな時代があったのよ
編集部近くのカフェ。午後の空気が少しゆるんで、窓際の席にやわらかな光が差し込んでいる。
アカリはアイスラテをストローでくるくる回しながら、ため息まじりに言った。
「なんかさ、最近ちょっとしんどくて」
「うん?」
「友達なんだけどさ、なんでも張り合ってくる子がいて。悪い子じゃないし、いつもニコニコしてるのに、ふとした瞬間に刺さること言ってきたりして……」
「それで、こっちもムキになっちゃうって感じ?」
「そう。こっちも我慢しちゃうから、あとでズーンってなるの」
「なるほどね」
マリはそっと微笑む。アイスコーヒーをひと口飲んでから、ふわりと懐かしむような目をした。
「わかるわよ、そういうの。わたしにも、似たようなことがあったもの」
「えっ? マリさんにも? 想像できない〜! めっちゃ穏やかなのに」
「ふふ。今はね。でも若い頃は、ずいぶん気が強かったのよ」
アカリは目を丸くする。
「え〜! 意外すぎる」
「昔、とある職場にいたの。そこの同僚のひとりと、毎日のようにぶつかってたわ」
「うわ……それ、しんどいやつ〜」
「お互い、自分のやり方とか信念が強くてね。ときには理屈じゃない“美学”でぶつかってたのよ」
「それって、仲悪かったの?」
「ううん、たぶん……仲は悪くなかった。むしろ、親友でもあり、ライバルでもあったと思う」
「そっかぁ……それって、ちょっと憧れるかも」
「でも、毎日めちゃくちゃ疲れるわよ。張り合うって、ある意味“相手に認められたい”って気持ちがあるからこそだしね」
間に立ってくれた人の話
「その人とは……今も連絡とってるの?」
ふと、アカリが尋ねた。
マリはすぐには答えず、窓の外に視線を泳がせる。昼下がりの柔らかな陽射しが、カフェの窓辺をゆらゆらと照らしていた。
「……もう、何年も会ってないの」
その口調はどこか遠くを思い出すようで、アカリは自然と姿勢を正した。
「最後に会ったのは、ほんとうに派手にぶつかった日だった。わたしも、あの子も。互いに意地を張って、譲らなくて。…あれが最後だった」
「え……それって、すごく仲悪くなったってこと?」
「そうね。でも、不思議よね。仲が悪いっていうより…わたしにとっては、特別な存在だったのよ」
マリはゆっくりと水の入ったグラスを回す。
「張り合うくらいだから、よく似てたのかも。強くて、まっすぐで、自分の信じるものを曲げないところとか。どっちも、自分の信念を譲れなかった」
「……でもさ、それってちょっと羨ましい」
アカリの目が、どこかキラキラしていた。
「なんか、青春って感じするもん。そういうぶつかり合いって」
マリはふっと笑った。
「そうかもしれないわね。でもそのぶつかり合いで、わたしたちは限界まで削れてしまったの。…だからもう、あの子がどこにいるかも知らないまま」
アカリは少しだけ寂しそうに、「そっかぁ」と呟いた。
「でもね、そんなふたりの間に、いつも立ってくれた人がいたのよ」
「ん? 誰かって、上司とか?」
「ううん、同僚よ。男の人だったんだけど、…一見不器用で無口。でも、そのぶんすごく繊細で、他人の感情に敏感な人だった」
マリはふと懐かしそうに目を細めた。
「わたしたちがぶつかっても、その人が間に入るだけで、場が落ち着くの。不思議とね。言葉が多いわけじゃないのに、…居てくれるだけで安心するというか」
「その人、どんな人だったの?」
「……そうね。熱いのに冷静で、理屈っぽいのに感情がある。…まっすぐで、仕事に対しては絶対にごまかさない人だったわ」
「え、マリさん、めっちゃ語るじゃん」
アカリが少し驚いたように言うと、マリは小さく吹き出した。
「そうかしら。でも、たしかに。わたしにとっては、すごく大きな存在だったのよ」
少し間をおいて、マリはさらりと言った。
「その人、わたしの前の夫なの」
「えっ!? あの“90年代の象徴みたいな人”って言ってた……」
「そう、その人。今も同じ業界にいるわ。あなたも、彼の仕事みたことあるかも。昔からクオリティの高い仕事をする人よ」
「えぇ〜!? マリさんの元旦那って、そんなカッコいい人なの?」
「フフッ。人に歴史あり、よ。…あの頃は、わたしもだいぶ尖ってたから」
人に歴史あり
「でもマリさんって、なんか今はすっごい穏やかじゃん。想像つかないな〜。昔はバチバチだったなんて」
アカリが首をかしげると、マリは微笑みながらテーブルの縁を指でなぞった。
「今こうして落ち着いてるのはね、たぶんあの頃に思いっきり燃え尽きたからなのよ」
「え、燃え尽きたって?」
「若い頃って、なんでもかんでも全力でぶつかってたの。恋も、夢も、自分自身とも。だから、空っぽになるまで走って…ようやく、“落ち着く”ってことができたのかもしれないわね」
「……なんか、それめっちゃ深い」
アカリがつぶやいた。憧れのような、尊敬のような表情。
マリは少しだけ目を伏せて、そっと付け加えた。
「あの頃、いろんなものをなくしたけど…そのぶん、今は大切にしたいものがちゃんと見えてる気がするの」
「……そういうの、カッコいいな。うち、まだ全然そういう境地じゃないけどさ」
「アカリはまだ若いもの。焦る必要なんてまったくないわ。あなたのペースで、ちゃんと経験していけばいい」
「うん、ありがと」
そう言って、アカリはマリに笑いかけた。どこか安心したような、あたたかな笑顔。
ぶつかることも、悪くない
「ねぇマリさん、ライバルってどう付き合ってくもんなのかな」
アカリの問いに、マリは小さく笑った。
「そうね……張り合うって、すごくしんどいことなのよ。でも、そのしんどさから逃げずに向き合えた人とは、いつかちゃんと通じ合える気がする」
アカリは少し驚いた顔でマリを見た。
「マリさんも?」
マリはふと目線を落とした。
「ううん、さっきも言ったけど、彼女とはもう会ってない。でも……あの頃、正面からぶつかってた時間が、私の土台をつくってくれたの」
「ぶつかって、土台ができるんだ」
「そう。だから悩んでるアカリも、無駄な時間を過ごしてるわけじゃないと思う。いつか、今の自分に助けられる日が来るから」
「……そっか」
アカリは頷いたあと、ふっと息を吐いて、カップを両手で包み込む。
「なんかさ、マリさんに話すと、うちまで大人になった気がするんだよね」
「ふふ、それは錯覚よ。でも、ちゃんと進んでる。アカリはアカリのままで、ちゃんとね」
街の喧騒が、カフェのガラス越しに揺れていた。言葉にならない気持ちが、少しずつほどけていく午後だった。

