『雪散る』第2話|少しだけ近い夜

目次

忘れ物を取りに、夜の編集部へ

取材帰りに寄ったレストランを出たとき、ユキノは気づいた。
――編集部の机に、資料を置き忘れてきた。

冬の夜は空気が澄みすぎていて、胸の奥まで冷たさが届くようだった。
帰宅ラッシュも過ぎ、街には人がまばら。ビルの明かりが反射する路面だけが、細く光っている。

こいこと。編集部が入るテナントビルは、夜になると一段と静かだ。
エレベーターの扉が開くと、廊下の灯りがゆっくり広がった。

編集部のドアは、かすかに光が漏れていた。
こんな時間に誰が残っているのだろう――そう思いながら、そっとドアを押す。

キーボードの音が、かすかに響いていた。
暖房の音よりも小さい、淡い音。

ユキノは足を止める。

デスクの島の奥、ひとつだけ灯りが点いていた。
そこに、ケンジがいた。

モニターの光が横顔を照らしている。
いつもの豪快さも、会議での軽口もなく、静かに画面を見つめていた。

「……ケンジさん?」

声をかけると、ケンジは少し驚いたように顔を上げた。
「ああ、ユキノか。忘れ物でもしたか?」

ユキノはうなずきながら、胸の奥がじんわりと温度を変えるのを感じた。
いつもの編集部とは違う。
いつものケンジとも、少し違う。

冬の静けさと、ひとり残る灯り。 その中にいるケンジの姿が、なぜか印象に残った。

ケンジの意外な優しさ

ユキノが資料を探しながらデスクを歩いていると、ケンジの席の前でそっと足が止まった。

モニターには、こいこと。に届いた読者からの長文メールが表示されていた。
恋愛相談というより、ほとんど人生の悩みのような内容。
仕事のこと、家族のこと、失恋の傷のこと――。

ケンジはそれを一行ずつゆっくり読み、何度もスクロールしていた。
眉間に少し皺を寄せて、真剣に。

ユキノは、そこで初めて気づいた。 ケンジの周りには、読者からのメールや、ライター志望者からの文章が山のように積まれている。

「……こんなに読むんですか?」

思わず声が出た。 ケンジは眉を上げて、少し照れたように笑った。

「ん? ああ、まあ。返さねぇと悪いだろ。」

「全部に?」

「全部にだよ。せっかく送ってくれたんだ。  ……どいつもこいつも、不器用でよ。」

豪快な言い方をしているのに、 その目はとても優しかった。

ケンジはメールの最後まで目を通すと、 ゆっくりと返信を書き始めた。

“あなたは自分を責めすぎているように思います” “頑張ってきたことも事実として残ります” “弱さを見せていい相手が、どこかに必ずいる”

短い文章なのに、丁寧だった。 ひとつひとつの言葉を選びながら書いているのがわかる。

ユキノは、その横顔をじっと見てしまった。

――この人、こんなに静かで、こんなに優しいんだ。

編集会議でケンジが放つ豪快な言葉の裏に、 こんな一面があるなんて、思ってもみなかった。

ケンジはメールを書き終えると、深く息を吐いた。 「よし……この人への返信は完了だな。」

指先に少し疲れが滲んでいる。 でも、その疲れ方はどこか温かくて、 “誰かのために時間を使った人間の疲れ方”だった。

ユキノはそっと口を開いた。 「……意外です。」

「何が?」

「ケンジさん、こういうのすごく丁寧なんですね。」

ケンジは肩をすくめる。 「雑に扱ってもバレるだろ。文章ってのはさ。」

それだけの言葉なのに、 ユキノの胸にぽつりと温かいものが落ちた。

ふたりで原稿に目を通す時間

「これ、私も見ていいですか?」

ユキノが自然とケンジの隣へ椅子を引くと、ケンジは少し驚いたように眉を上げた。 「お前、こんな時間まで残るタイプじゃねぇだろ。」

「忘れ物ついでです。……それに、気になるじゃないですか。  どんなメールが来てるのか。」

ユキノ自身、口に出した言葉がいつもより柔らかいことに気づく。 相手がケンジだから、というわけではない。 ただ、“さっきのケンジ”の姿を見た後では、 少し距離を置く必要も感じなかった。

ケンジは軽く肩をすくめた。 「じゃあ、ほら。こっちの返信、どう思う?」

画面には、仕事の悩みを抱えた読者のメールが表示されていた。

ユキノは読みながら、小さく息を吸う。 「……丁寧ですね。ケンジさんにしては。」

「なんだよ、“しては”って。」

ユキノはくすっと笑った。 「だって普段、会議では雑に見えるんですもん。」

ケンジは苦笑しながら頭をかいた。 「会議と文章は別モンなんだよ。文章は逃げねぇから。」

ユキノはモニターに視線を戻す。 返信文のひとつひとつに、ケンジの温度が確かに残っていた。

「……こういうの、いいと思いますよ。」

「そうか?」

「はい。読んだ人、救われると思います。」

その言葉に、ケンジの手が一瞬だけ止まった。 照れるでもなく、驚くでもなく、ただ静かに受け止めるような間。

「お前、たまに優しいよな。」

「え? 私?」

「いつもは強気で刺々しいじゃねぇか。」

ユキノはむっとしてみせたが、その頬はどこか緩んでいた。 「……それ、今ここで言います?」

「悪い意味じゃねぇよ。  お前みたいなタイプが、そう言ってくれると……なんつーか、効く。」

ケンジの横顔を見たユキノは、 自分の中に小さな波が生まれるのを感じた。

それは多分、恋なんていえる感情ではない。 でも、“苦手”とはもう言えない距離に、ほんの少し近づいた。

冬の夜道、BAR恋古都へ

「……おい、ユキノ。」

返信を終えたケンジが、椅子から立ち上がった。 コートを片手に持ち、いつもの軽い声より少し静かに言う。

「こんな時間に戻ってきたんだ。送ってくぞ。」

「え、別にそこまで――」

「ついでだよ。腹も減ってきたし。」

その“ついで”が、嘘だということくらいはわかる。 でもユキノは何も言わなかった。

編集部を出ると、冬の夜気が一気に頬を冷やした。
ユキノが息を吐くと、白い煙がゆっくりと薄れていく。

ふたりは横に並んで歩き始めた。 肩が触れるような距離ではない。 かといって他人の距離でもない。 “大人同士が夜道を歩くときにだけ生まれる静かな間”だった。

「……さっきの返信、よかったですよ。」

ユキノがつぶやくと、ケンジは少し顔を向けた。

「そうか?」

「はい。ああいうの、救われる人多いと思います。」

「……そうだといいな。」

ケンジは照れ隠しのように、前を向いたまま笑った。 街灯の光がその横顔を切り取って、どこか穏やかに見えた。

数分の沈黙が続く。 でも気まずさはなかった。

ふと、ケンジが呟く。

「……軽く飲むのに、ちょうどいい店があるんだ。ちょっと寄ってくか?」

「店?」

「恋古都(こいこと)。編集部の名前と似てるけど関係ねぇぞ。  静かで、酒もいい。ライター連中の溜まり場になってるんだ。」

その言い方が妙に自然で、ユキノは気づく。 ケンジが“誘うときだけ少し丁寧になる癖”を。

「……じゃあ、少しだけ。」

その返事を聞いて、ケンジはうなずいた。 「よし、行こう。」

ビル街を曲がると、ひっそりとした路地に小さな看板が見えた。 “BAR 恋古都”―― 扉の向こうから、柔らかなジャズと琥珀色の灯りが漏れていた。

ケンジは扉を押しながら言う。

「ここ、静かでいいんだよ。」

ユキノは少し息をのむ。 冬の空気とは違う、別の温度がそこにあった。

ふたりは、静かな扉の奥へと歩みを進めた。

バーで語られる身の上話

恋古都の扉をくぐると、外気とは別の静けさがふたりを包んだ。
琥珀色のライト、ゆるいジャズ、磨かれたカウンター。
ここだけ時間の流れがゆっくりになったようだった。

ケンジは慣れた様子で席につき、バーテンダーに軽く会釈した。
ユキノも隣に座る。ふたりの距離はほどよく近く、ほどよく遠い。

「ここ、落ち着きますね。」

「だろ? 静かな店じゃないと考えがまとまらねぇんだ。」

ケンジはバーボンを、ユキノはカシスソーダを頼んだ。
グラスが置かれる瞬間の澄んだ音が、二人の間に小さく響く。

最初は仕事の話。 編集部の愚痴、記事の裏話、読者メールのこと。 軽く笑いながら飲み進めるうちに、 会話のトーンがいつの間にか変わっていた。

「……実は、わたし、離婚してるんです。」

ユキノが言葉を落とした。 カウンターの木目を指でなぞりながら、少しだけ息を吐く。

ケンジは驚かず、ただ視線だけをユキノに向けた。 促すことも、慰めることもせず、ただ聞く姿勢。

「5年前です。結婚生活は……短かった。でも、全部が悪かったわけじゃなくて。」

「うん。」

「わたし、もう一度……ちゃんと誰かと向き合えたらって、思ってます。」

その声は強がりでも弱音でもなかった。 ただ、未来を信じたい人間の静かな言葉だった。

ケンジはグラスを指で回しながら、ぽつりと答えた。

「……いいじゃねぇか。やり直すのは全然悪いことじゃねぇよ。」

それだけの言葉なのに、なぜか胸の奥に落ちる重さが違った。

ユキノは、ひと呼吸置いてから聞いた。

「ケンジさんは……ギター、弾くんですよね?」

ケンジの手がわずかに止まる。 ほんの一瞬の沈黙。だが、その沈黙には深い影があった。

「……昔な。」

「どうして今は弾かないんですか?」

ケンジは笑うでもなく、苦笑でもなく、 どこか遠いものを見るようにつぶやいた。

「本気の恋は……ギターで始まって、ギターで終わった。  もう、あいつとは向き合えねぇ。」

ユキノは静かにグラスを傾ける。 言葉にはしないが、胸の奥で何かがそっと動いた。

その空気を切るように、ケンジが話題を変えた。

「そうだ、ユキノ。お前、誰かに紹介してやろうか。」

「……え?」

「俺の知り合いでな、トモキって奴がいる。商社マンで堅いやつだ。  ユキノと同じ32歳。人当たりいいし、仕事もちゃんとしてる。お前みたいなのは、ああいう男と相性いいかもしれねぇ。」

一瞬、言葉が届くのに時間がかかった。

ユキノは小さく笑ってごまかす。 「……ケンジさん、そういうこと平気で言うんですね。」

「なんだよ?」

「いえ。なんでも。」

本当は“なんでも”ではなかった。 胸の奥がひどく冷えるような、寂しいような感覚があった。

ケンジは気づかない。 いつもの癖で、自分より他人を優先してしまうだけだ。

でもその癖こそが、ユキノの心をわずかに乱した。

トモキの名と、小さな違和感

「トモキさんって、どんな人なんですか?」

ようやく出てきたユキノの言葉は、 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。

ケンジは迷いなく答えた。

「いいやつだよ。俺が会社員だったころの取引先のやつでな。
真面目で、責任感あって、なぜか俺を慕ってくれててな。いまでも時々会ってるんだ。

後輩っていうか、信頼できる年下の友達だと思ってる。」

その“褒め方”の丁寧さに、ユキノは何かが小さくひっかかる。
ケンジは自分の話になると適当なのに、 他人の話になると途端に真面目になる。

「へぇ……信頼してるんですね。」

「ああ。アイツなら、誰かを幸せにできる。」

その言葉が、まるでユキノに向けられたものではないように感じた。
ケンジはユキノの未来を見ているようで、 同時に、自分の未来からそっと距離を置いているようにも見えた。

ユキノはグラスを指で回しながら、 静かに問いを投げる。

「……ケンジさんは?」

「ん?」

「誰かを幸せにできると思います?」

ケンジは一瞬だけ目を伏せた。
その短い沈黙に、感情の名前にならない影が落ちる。

「俺は……そういうタイプじゃねぇよ。」

言い切る声は静かで、どこか諦めに似ていた。
まるで、長い間かけて自分に言い聞かせてきた答えのようだった。

ユキノは何も言えなかった。
慰めの言葉も、励ましも、思いつかなかった。

ただ、胸の奥がきゅっと痛む。
それが何の痛みなのか、まだ自分でもうまく説明できない。

ケンジは話題を切るように立ち上がった。

「そろそろ帰るか。遅くなったな。」

店を出ると、夜風が一段と冷たくなっていた。
冬の匂いが濃くなるほど、ふたりの距離はなぜか遠く感じる。

駅までの帰り道、会話はほとんどなかった。
でも沈黙は重くない。 ただ、言葉が追いついていないだけだった。

改札の前でケンジが言う。

「……トモキに連絡しとく。会ってみろよ。」

ユキノは小さくうなずく。 「考えておきます。」

本当は、答えなんてまだ出ていない。 ただ、この夜をどう扱えばいいのか分からないだけだった。

「じゃあ、気をつけて帰れよ。」

「ケンジさんも。」

別れ際、ふたりは短く会釈を交わす。
それだけで、余韻が静かに積もっていく。

ユキノは改札をくぐりながら思う。

――どうして、こんなに胸がざわつくんだろう。

恋でもない。 でも何かが確かに始まってしまった気がして、 その“何か”をまだ名前にできなかった。

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