ズレる未来
その日は、特別な出来事があったわけじゃなかった。
取材帰りに少し遠回りをして、駅まで歩いただけの夜。
冬の空気は冷えていたけれど、どこかやわらかかった。
道の向こうから、笑い声が聞こえた。
若い夫婦と、小さな子ども。
父親が子どもを肩車して、母親がその手を支えている。
ありふれた光景だった。
ユキノは、立ち止まるほどでもなく、
でも視線を少しだけ、その親子に残した。
「……ああいう家族って、ほっこりしますよね」
独り言みたいな声だった。
ケンジは、うなずいただけで何も言わない。
少し歩いてから、ユキノが続けた。
「わたし、やっぱり家庭を持ちたいなって思うんです」
言い切るようでも、決意表明でもなかった。
ただ、そう思ったことを、そのまま口にしただけ。
ケンジは、少し考えてから笑った。
「そうか。俺はもう……そういうのは、いいかな」
声は軽かった。
冗談めいた調子さえあった。
「もう本気の恋愛はしないんですか?」
ユキノが聞くと、ケンジは肩をすくめた。
「しないんじゃない。たぶん、向いてないんだよ」
「ダメ男だからな」
笑いながら言った、その目は、なぜか笑っていなかった。
ユキノは、言葉を失った。
その瞳の奥に、深い空洞のようなものを見てしまった気がした。
優しさの奥にある、自己否定。
冗談で包んで、触れさせない場所。
近づいたら、きっと飲み込まれる。
そう、直感的にわかってしまった。
この人とは、恋仲にはなれない。
誰も拒絶していない。
誰も傷つけていない。
ただ、向いている未来が違うだけだった。
ケンジの夜
部屋に戻ると、ケンジはコートを脱ぎ、無言のままソファに腰を下ろした。
テーブルの上には、飲みかけのグラスと、読みかけの原稿。
どれも途中で、どれも最後まで辿り着いていない。
しばらくして、立ち上がる。
迷うような間があってから、部屋の隅に立てかけてあったギターに手を伸ばした。
ケースを開ける。
木の匂いと、懐かしい重み。
抱えるように膝に乗せ、軽く弦に触れる。
音を確かめる、というほどの強さではない。
ただ、鳴ってしまった音を、そのまま受け取るような弾き方だった。
どこかで聞いた旋律が、指の動きに混じる。
はっきりとした形にはならないまま、リズムだけが流れていく。
——誰かと一緒に演奏したい。
ふいに、そんな言葉が脳裏をよぎる。
ケンジは小さく息を吐き、弦から指を離した。
そのままギターを抱えたまま、グラスに手を伸ばす。
「……ひとり酒が、俺の生き方だ」
冗談めいた声だった。
誰に向けた言葉でもない。
もう一度、音を鳴らす。
今度は少しだけ強く。
けれど旋律は、どこかで必ず途切れる。
「ダメ男を貫くだけさ」
そう呟いて、笑った。
笑ったはずなのに、音だけが、妙に正直だった。
巧みな指運びの隙間から、
埋めきれない孤独が立ち上がる。
ケンジはそれを否定せず、
ただ、最後まで弾ききることもなく、
ギターをそっと膝から下ろした。
ユキノの夜
駅前は思ったより静かだった。
帰宅ラッシュの波が引いたあとで、
人の気配がまばらに残っているだけだった。
ユキノは足を止め、広場の端に置かれたピアノを見つける。
鍵盤の蓋は開いたまま。
誰も近くにはいない。
「……誰もいないし、弾いちゃおうかな」
独り言のように呟いて、腰を下ろす。
深呼吸をひとつしてから、鍵盤に指を置いた。
最初の音は、慎重だった。
けれど二音、三音と続くうちに、指は自然と動き出す。
いつか作った旋律。
何度もひとりで弾いてきた曲。
今日は、不思議と音が軽かった。
鍵盤の上で、指が跳ねるように進んでいく。
悲しさが混じらないわけじゃない。
でも、その先に空があるような音だった。
「……誰が一緒に演奏してくれるんだろうな」
小さく笑って、また鍵盤に向き直る。
答えを求めるような言葉ではなかった。
今はただ、この曲を弾けていることが大切だった。
音は途切れず、最後まで流れていく。
終わりの和音は、静かで、澄んでいた。
ユキノは鍵盤から手を離し、
少しだけ前を向いて立ち上がる。
夜風が、冷たく頬をなでた。
それでも足取りは、さっきより軽かった。
戻る場所
編集部の午後は、穏やかだった。
キーボードの音と、誰かが淹れたコーヒーの香り。
特別なことは何も起きていない。
「最近、トモキさんとよく会ってるんです」
ユキノは、何気ない調子でそう言った。
報告というより、ただの雑談のようだった。
ケンジは一瞬だけ間を置いてから、頷く。
「あいつはいいぞ。人もいいし、将来も有望だ」
「……どうなるかは、まだわからないですけど」
ユキノは少し考えてから、柔らかく笑った。
「うまくいけば、いいなって思ってます」
ケンジも、いつもの調子で口角を上げる。
「付き合うことになったら、教えろよ」
「はい」
それだけだった。
それ以上、言葉は続かなかった。
ユキノは自席に戻り、モニターに向かう。
もう一度こちらを振り返ることはなかった。
休憩室で、ケンジは椅子に深く腰を下ろしていた。
特に考えごとをするでもなく、天井を見上げている。
「ケンジ」
声をかけたのはマリだった。
マグカップを片手に、何気ない顔で立っている。
「今夜、飲みに行かない? なんだか疲れちゃって」
ケンジは一瞬だけ目を閉じ、それから息を吐いた。
「おう。行くか」
それ以上の言葉は、必要なかった。
編集部の窓の外は、冬の出口が見えかけていた。
長かった寒さが、少しだけ緩みはじめている。
雪は、もう降らない。
それぞれが、それぞれの場所へ戻っていく。
何も起きなかったようで、確かに何かが終わった午後だった。

