その居酒屋は、いつ来ても少し静かだった。
ガヤガヤしたチェーン店とは違って、
話し声もグラスの音も、全部が控えめに響く。
ミカコとソウタが向かい合って座るのは、奥のカウンター席。
ミカコ「ここ、やっぱ落ち着くね。
静かだし、変に気を使わなくていい」
ソウタ「うん。
音が少ないと、考え事もしやすい」
そう言いながら、ソウタはおしぼりを丁寧に畳んだ。
二人で飲むのは、これで二回目。
前回は、仕事の話から始まって、
気づいたら恋愛の話になっていた。
今回も、特別なテーマを決めていたわけじゃない。
ただ、グラスが半分ほど空いた頃、
ミカコがふと、思い出したように口を開いた。
ミカコ「そういえばさ」
ミカコ「この前言ってたよね。
また一目惚れしたかも、って」
ソウタは一瞬だけ間を置いてから、笑った。
ソウタ「……うん。
たぶん」
ミカコ「“たぶん”って便利な言葉だよね」
ソウタ「自分でも、まだ整理できてなくて」
ミカコはグラスを揺らしながら、ソウタを見る。
ミカコ「今日はその話?」
ソウタ「……聞きたいなら」
店内に流れる音楽が、ほんの少しだけ大きくなった。
こうして、
一目惚れについての、結論の出ない雑談が始まった。
ソウタは、どうして一目惚れしてしまうのか
ミカコ「で、一目惚れってさ。
ソウタの場合、何に惚れてるの?」
ソウタ「うーん……難しいな」
ソウタは少し考えてから、グラスに口をつける。
ソウタ「顔、とか雰囲気、とかじゃない気もするんだよね」
ミカコ「じゃあ何」
ソウタ「その場の空気、かな」
ミカコ「……一番ふわっとした答えきた」
ソウタ「でも本当にそうで。
その人が笑った瞬間とか、
話してないのに安心した感じとか」
ミカコ「あー。
“好き”ってより、“引っかかった”に近い?」
ソウタ「そう、それ」
ソウタは少し嬉しそうに頷く。
ソウタ「あと、後から理由つけてる気もする」
ミカコ「最初は理由ない派?」
ソウタ「たぶん。
気づいたら“あ、この人だ”って思ってて、
そのあとで頭が追いついてくる感じ」
ミカコ「それ、恋愛初心者に聞かせたら夢見ちゃうやつ」
ソウタ「夢、見ちゃダメ?」
ミカコ「ダメとは言わないけど、
現実もセットで見ようねって話」
ミカコはそう言って、軽く笑う。
ミカコ「でもさ、一目惚れする人って、
感覚が先に動くタイプなんだと思う」
ソウタ「うん。
考える前に、もう好きになってる」
ミカコ「だから失敗も多そう」
ソウタ「……それは否定できない」
二人の間に、くすっとした笑いが落ちた。
ミカコが、一目惚れをあまり信用しない理由
ミカコ「正直に言うとさ、
わたしは一目惚れって、あんまり信用してない」
ソウタ「うん、知ってる」
即答だったので、ミカコが少しだけ笑う。
ミカコ「だってさ、
その一瞬で、その人の何がわかるの?って思わない?」
ソウタ「……まあ」
ミカコ「声の出し方も、
機嫌悪いときの態度も、
価値観も、全部まだ見てないのに」
ミカコ「そこで“好き”って判断するの、
ちょっと情報足りなすぎない?って」
ソウタ「たしかに、データは少ない」
ミカコ「そう。
だから一目惚れって、
相手そのものより、自分の状態を好きになってることも多いと思う」
ソウタ「自分の状態?」
ミカコ「余裕があるとか、
疲れてるとか、
誰かに優しくされたいとか」
ミカコ「そのときの自分に、
たまたまハマった人を“運命”って呼んでるだけ」
ソウタは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
ソウタ「それ、言われると……
たしかに心当たりはある」
ミカコ「でしょ。
だから否定したいわけじゃなくて」
ミカコ「一目惚れは“答え”じゃなくて、“入口”だと思ってる」
ソウタ「入口……」
ミカコ「そこから先、
ちゃんと知ろうとするかどうかが本番」
ソウタ「うん。
入口で止まっちゃうと、だいたい失敗する」
ミカコ「経験者は語る、だね」
二人はグラスを軽く合わせて、静かに笑った。
一目惚れは、恋なのか。それともきっかけなのか
ソウタ「でもさ」
ソウタ「ミカコさんの話聞いてると、
一目惚れって、恋って言っていいのかなって思ってくる」
ミカコ「そこ、悩むよね」
ミカコは少しだけ考えてから、続ける。
ミカコ「わたしはね、
一目惚れは“恋の完成形”じゃないと思ってる」
ソウタ「完成形じゃない」
ミカコ「うん。
でも、恋が始まる理由としては、全然アリ」
ソウタ「入口、だもんね」
ミカコ「そう。
一目惚れは、“この人をもう少し知ってみたい”っていう
スタートラインに立つ感覚」
ソウタ「じゃあさ」
ソウタ「一目惚れして、
そのあと冷めるのも、普通?」
ミカコ「普通」
即答だった。
ミカコ「むしろ、
知った結果、合わないってわかるのは健全」
ソウタ「それ聞くと、ちょっと楽になる」
ミカコ「一目惚れした自分を否定しなくていいし、
続かなかった恋を失敗扱いしなくていい」
ソウタ「じゃあさ」
ソウタ「一目惚れして、
ちゃんと続いた恋は?」
ミカコ「それは、入口をちゃんと進んだ恋」
ソウタ「……なるほど」
ソウタは少し満足そうに頷いた。
ソウタ「一目惚れって、
魔法じゃないけど、
地図みたいなものかもね」
ミカコ「いい例え。
行くかどうかは、自分次第ってやつ」
グラスの中の氷が、静かに音を立てた。
一目惚れは、答えじゃなくて入口だった
しばらく、二人とも黙ってグラスに口をつけた。
さっきまで言葉にしていた「一目惚れ」というものが、
少しだけ輪郭を持った気がしている。
ソウタ「なんか……
今日の話で、一目惚れが軽くなった気がする」
ミカコ「軽く?」
ソウタ「うん。
重たい“運命”じゃなくて、
ちゃんと扱える感覚になった」
ミカコ「それなら、いいじゃん」
ミカコはそう言って、グラスを置く。
ミカコ「一目惚れしてもいいし、
しなくてもいい。
続いてもいいし、終わってもいい」
ミカコ「それをどう扱うかは、自分で決めればいい」
ソウタ「……うん」
ソウタは短く返事をして、少しだけ笑った。
一目惚れは、答えじゃない。
でも、何かが始まるきっかけにはなる。
そのきっかけを信じるか、
ゆっくり確かめるか、
あるいは何もせず通り過ぎるか。
どれも間違いじゃない。
静かな居酒屋での二回目の飲みは、
そんな当たり前のことを、
少しだけ優しく思い出させてくれた。
次に飲むとき、
この話の続きをするかどうかは、
まだわからない。
でも、それでいい。
今夜は、
ただ飲んで、話して、帰るだけだった。

