夜の編集部。
記事も一段落して、誰かが帰り、誰かがまだ残っている。
静かだけど、完全な無音じゃない。
キーボードの音と、カップの中のコーヒーの匂い。
ソウタが、机に頬杖をついたままぽつりと言った。
「ねえ……人生って、なんなんだろう」
独り言みたいな声だったけど、ちゃんと空気に残った。
マリは少し驚いた顔をしてから、やわらかく笑う。
「いきなり大きいわね。でも……たまに考えるわよね、そういうこと」
リクはすぐに答えを出そうとせず、少し考えてから口を開く。
「正解がある質問じゃない気はするけど。だからこそ、みんな違う答えを持ってそうですね」
そのやりとりを聞いていたワニオは、コーヒーを一口飲んでから、いつもの調子で言った。
「人間はよく“意味”を探しますね。観察していると、それ自体が生きる行為みたいです」
誰も笑わなかった。
でも、重くもならなかった。
こうして、特に結論を出すつもりもないまま、
編集部の夜は、人生の話へと流れていった。
人生って、ちゃんと考えるものなの?
ソウタは、さっきより少し真剣な顔になっていた。
「なんかさ……みんな普通に生きてるじゃん。学校行って、仕事して、恋したりして。
でも、たまに思うんだよね。これで合ってるのかなって」
マリは、ソウタの言葉を否定しなかった。
「“合ってるかどうか”を考え始めた時点で、ちゃんと生きてると思うわ。
考えない人のほうが、むしろ少ないんじゃないかしら」
リクがうなずく。
「人生って、最初から完成形があるものじゃない気がします。
だから“正解かどうか”で判断しようとすると、ずっと不安が残るのかもしれません」
ソウタは少し安心したように笑った。
「そっか……じゃあ、迷ってるのも普通?」
「普通どころか、かなり健全ですね」
そう言ったリクの声は、理屈っぽいけどやさしかった。
そこで、ワニオが静かに口を挟む。
「観察していると、“人生を考えすぎて疲れる人”と、“考えなさすぎて迷う人”がいます。
どちらも、人間らしい行動です」
マリがくすっと笑う。
「ワニに言われると、不思議と納得しちゃうわね」
深刻になりすぎず、軽く流しすぎず。
人生の話は、ちょうどいいところで続いていった。
人生に「意味」は必要なのか
しばらく沈黙が流れたあと、ソウタがぽつっと言った。
「人生ってさ、意味とか目的とか…持ってたほうがいいのかな。
ないとダメなのかなって、たまに思う」
リクは少し考えてから答える。
「意味は“あったほうが安心する人”と、“なくても進める人”がいると思います。
どちらが正しい、という話ではなくて」
マリがゆっくり頷いた。
「意味を探す時間も人生だし、意味なんて考えずに笑ってる時間も人生よ。
後から振り返って、“あれが意味だったのかも”って思うこともあるわ」
ソウタは少し目を丸くする。
「後から決まるって、ズルくない?」
「ズルいけど、それが人間の特権ですね」
そう言って、リクは少しだけ笑った。
ワニオは相変わらず落ち着いた声で続ける。
「意味を先に決めたがる人ほど、途中で苦しくなる傾向があります。
観察上、“意味は結果として発生するもの”に近いですね」
「また観察データ出てきた」
マリが冗談っぽく言うと、場の空気が少し和らいだ。
「じゃあさ」
ソウタはコップを指で回しながら言う。
「意味なく過ごしてる時間も、無駄じゃないってこと?」
「ええ」
マリは迷わず答えた。
「むしろ、そういう時間がないと、人生は持たないと思うわ」
「進んでない気がする時間」がいちばん不安になる
「意味が後から決まるのはわかったけどさ」
ソウタは少し困ったように笑った。
「何も起きてない時って、
人生が止まってる気がして不安にならない?」
リクはその言葉に、ゆっくりと頷く。
「多くの人がそこに一番不安を感じます。
成果も変化も見えない時間は、“遅れている”と錯覚しやすい」
ワニオが静かに補足する。
「人は“比較できない時間”を怖がります。
周囲と比べられない状態=評価不能、だからですね」
「評価不能って、言い方ひどくない?」
ソウタが笑うと、マリも少し微笑んだ。
「でもね」
マリはグラスを置いて、穏やかに言う。
「何も起きてない時間って、
心が次の形になる準備をしてる時でもあるのよ」
「準備?」
「ええ。
動いてないように見えても、人は内側でちゃんと変わってる」
リクもそれに続く。
「行動が止まっている時期と、成長が止まっている時期は一致しません。
むしろ、考えている時間の方が後に効くことも多いです」
ソウタは少し黙ってから、ぽつりと言った。
「じゃあさ……
進んでる感じがしない時も、人生はちゃんと進んでる?」
「進んでいます」
ワニオが即答する。
「ただし、歩数計には表示されない進み方です」
「また妙にうまいこと言う」
そう言いながら、ソウタは少しだけ肩の力を抜いた。
人生に答えがなくても、生きていていい
しばらく沈黙が流れたあと、ソウタがゆっくり口を開いた。
「なんかさ……
人生って何かを分かろうとしすぎてたかも」
「分からなきゃダメだと思ってた?」
マリがやさしく聞く。
「うん。
意味とか、正解とか、方向とか。
ちゃんと説明できないと、ダメな気がしてた」
リクは首を横に振る。
「人生に“説明義務”はありません。
生きているだけで成立しているものです」
ワニオも淡々と続ける。
「定義しようとするから苦しくなるのです。
人生は概念ではなく、現象に近い」
「現象って……雨とか?」
ソウタが聞くと、ワニオは少し考えてから答えた。
「はい。
降っている時に意味を考えなくても、雨は雨です」
マリがくすっと笑う。
「つまりね、
わからないまま過ごしてもいいってこと」
「決めなくてもいいし、急がなくてもいい。
今日がなんとなく終わって、また明日が来れば、それでいいのよ」
ソウタは少し照れたように笑った。
「そっか……
人生って、考えすぎなくても続いてくんだ」
「続きます」
リクが静かに言う。
「そして、続いているうちに、
後から意味がついてくることもある」
ワニオが最後にまとめる。
「意味は探すものではなく、
振り返った時に見えるものです」
ソウタは深く息を吸って、少しだけ軽くなった声で言った。
「じゃあ今日は、考えすぎたってことで終わりでいいや」
その言葉に、編集部の空気がふっと緩んだ。
人生の答えは出なかった。
けれど、この夜は確かに、前に進んでいた。



