感情代行センターのある町
その町には、感情が少なかった。
正確には、感情を「持たない」ことが礼儀になっていた。
駅前の広場には花壇があり、季節の花が咲いている。
けれど誰も立ち止まらない。
スマホで撮って、歩きながら消すだけだ。
コンビニの店員は、丁寧に笑う。
笑っているのに、笑っていない。
レシートの音と同じくらい、均一な表情だった。
通りの真ん中に、白い建物がある。
看板には小さくこう書かれていた。
感情代行センター
入口の自動ドアは静かに開き、静かに閉じる。
中は病院みたいに明るく、ホテルみたいに無臭だった。
壁にはメニュー表が貼られている。
・悲しみ(軽度)30分
・怒り(社会的に無害)15分
・感動(涙なし)10分
・後悔(音を立てない)1時間
・恋しさ(未練を含まない)20分
細かい注意書きもある。
※感情は本人に代わって処理されます。
※処理済みの感情の返品はできません。
※「本音」は取り扱っておりません。
センターのロビーには、順番待ちの椅子が並んでいた。
人々は静かに座り、番号札を握っている。
泣いている人はいない。怒っている人もいない。
その代わり、皆、どこか軽そうだった。
ソウタはその列の最後尾に並んだ。
番号札を取ると、「本日のおすすめ」が表示された。
おすすめ:安堵(根拠なし)
ソウタは思わず笑いそうになったが、笑わなかった。
ここでは笑いも、注文するものだからだ。
受付のカウンターで、ソウタは小さな声で言った。
「……恋しさを、お願いします」
「できれば、未練は抜きで」
受付の女性は、頷いて端末を操作した。
まるで荷物の発送手続きをするみたいに。
「恋しさ(未練抜き)ですね。
本日ですと、仕上がりは二時間後になります」
「受け取り方法は、店頭、郵送、夢の中、どれになさいますか?」
ソウタは迷った。
夢の中という選択肢が、なぜか一番普通に見えた。
そのとき、ロビーの隅で、虹色の猫が伸びをした。
やけに毛並みが鮮やかで、光が当たるたび色が揺れる。
誰も気にしていないのに、そこにいることだけが妙に自然だった。
猫はソウタを見て、首をかしげた。
「恋しさ、外注か。
えらい時代になったなぁ」
ソウタは、今のが猫の鳴き声だったのか、言葉だったのか判断できなかった。
判断できないまま、胸のあたりが少しだけざわついた。
受付の女性が言う。
「夢の中でよろしいですか?」
ソウタは、少し遅れて頷いた。
「はい。……夢の中で」
虹色の猫は、ふっと笑ったように見えた。
感情を引き受ける人たち
感情代行センターの奥には、
利用者が立ち入れない区画があった。
白い廊下の両脇に、
小さな個室が並んでいる。
扉の上には、
感情の種類と時間が表示されていた。
悲しみ(軽度)残り12分
怒り(社会的に無害)残り3分
後悔(音を立てない)残り46分
部屋の中では、
感情代行員たちが仕事をしている。
誰かの代わりに泣き、
誰かの代わりに歯を食いしばり、
誰かの代わりに胸を押さえてうずくまる。
それは演技ではなかった。
代行員たちは、
確かに本気で泣き、怒り、震えていた。
ただし、
それが自分の感情かどうかは、
誰にもわからなかった。
ソウタは、
ガラス越しにその様子を見ていた。
ある部屋では、
若い代行員が、
床に座り込み、
声を殺して泣いている。
表示はこうだ。
恋しさ(未練抜き)
ソウタは、
胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
ああ、今あれをやっているのは、
自分の分なのかもしれない。
そのとき、
廊下の手すりの上に、
あの虹色の猫がいた。
ナツメは、
前足をぶらぶらさせながら、
ガラスの向こうを覗いている。
「忙しそうやな」
「今日、感情の納期ええんか?」
ソウタは、
思わず答えてしまった。
「……みたいですね」
「皆、ちゃんと仕事してる」
ナツメは、
しばらく黙ってから言った。
「ちゃんと、やな」
「感情も、
ちゃんとすると、
だいたい他人事になる」
廊下の先で、
ひとつの部屋の表示が消えた。
処理完了
代行員が部屋から出てくる。
顔は青白く、
目だけが赤い。
係員が近づき、
淡々と声をかけた。
「お疲れさまでした」
「次は、怒り(短時間)が入っています」
代行員は、
小さく頷き、
次の部屋へ入っていく。
ソウタは、
なぜか胸の奥に、
言葉にできない引っかかりを覚えた。
それは、
もう代行できない感情の、
影みたいなものだった。
ナツメは、
その様子を見て、
静かに言った。
「代わりに感じてもろたらな」
「感じたあとの席、
空席になるんやで」
ソウタは、
その意味を、
まだうまく理解できなかった。
自分の感情が見つからない
二時間後、
ソウタは自宅のベッドで目を覚ました。
夢の中で何かを受け取ったはずだった。
胸の奥に、
やわらかい布のようなものが置かれた感覚。
けれど、
目が覚めた瞬間、
それが何だったのか思い出せない。
スマホには、
感情代行センターからの通知が届いていた。
恋しさ(未練抜き)
処理完了しました。
ソウタは、
画面をしばらく見つめた。
たしかに、
胸は軽かった。
息もしやすい。
仕事にも、
集中できそうだった。
でも、
何かが抜け落ちている。
写真フォルダを開く。
昔の写真が並ぶ。
笑っている顔、
曇った空、
何気ない夜道。
以前なら、
その一枚一枚に、
小さな痛みや、
ぬくもりがあった。
今は、
ただ画像としてそこにある。
「……こんな感じだったっけ」
ソウタは、
自分の声が、
どこか他人のものみたいに聞こえた。
翌日、
職場で同僚が言った。
「最近、落ち着いたよね」
「前より、話しやすい」
ソウタは、
笑顔を作った。
たぶん、
ここで笑うのが正解だった。
昼休み、
公園のベンチに座る。
木々が揺れ、
子どもの声が聞こえる。
それを見て、
何も起きない。
嬉しくも、
悲しくも、
ならない。
そのとき、
ベンチの背もたれに、
虹色の猫がいた。
ナツメは、
あくびをしてから、
ソウタを見た。
「軽なった顔しとるな」
「荷物、
ちゃんと下ろせたみたいや」
ソウタは、
少し考えてから言った。
「……楽にはなりました」
「でも、
何が楽なのか、
よくわからない」
ナツメは、
尻尾をゆっくり振る。
「感じてへんからな」
「楽やけど、
わからん」
ソウタは、
胸に手を当てた。
そこには、
何も引っかからなかった。
「……これで、
いいんですかね」
ナツメは、
すぐには答えなかった。
少し間を置いて、
こう言った。
「ええかどうかはな」
「本人が、
感じ取れたときにしか、
決まらへん」
その言葉だけが、
ソウタの中に、
うっすらと残った。
残ったはずなのに、
それが感情なのかどうか、
ソウタには、
まだ判断できなかった。
代行できない感情
数日後、
ソウタは、
感情代行センターからの通知音に、
もう反応しなくなっていた。
便利さは、
習慣になるのが早い。
悲しみは外注し、
怒りは短時間で処理し、
迷いは注文すらしない。
生活は、
静かで、
整っていた。
それなのに、
ある夜、
理由のない違和感が、
突然やってきた。
胸が苦しい。
でも、
何が原因かわからない。
痛みでもなく、
悲しみでもなく、
怒りでもない。
ソウタは、
久しぶりに、
感情代行センターのアプリを開いた。
検索欄に、
言葉を打ち込む。
「……これ、かな」
候補が表示される。
・不安(軽度)
・孤独(時間指定)
・後悔(音を立てない)
・虚無(短時間)
どれも、
違う気がした。
ソウタは、
直接センターに向かった。
受付の女性は、
相変わらず丁寧に笑っている。
「どの感情をご希望でしょうか」
ソウタは、
しばらく黙ってから言った。
「名前が、
わからないんです」
「でも、
確かに、
ここにある」
胸を指す。
受付の女性は、
端末を操作し、
首を横に振った。
「申し訳ありません」
「名称不明の感情は、
取り扱い対象外となっております」
「代行できない?」
ソウタは、
思わず聞き返した。
「はい」
「それは、
本人が感じる必要があります」
その言葉は、
規約文の一部のようで、
やけに冷たかった。
ロビーの隅で、
虹色の猫が、
丸くなっていた。
ナツメは、
顔を上げ、
ソウタを見る。
「出てしもたか」
ソウタは、
うなずいた。
「……たぶん」
「これ、
どうすればいいんですか」
ナツメは、
ゆっくり立ち上がり、
ソウタの足元に来た。
「どうもせんでええ」
「持っとき」
「それ、
本人限定や」
ソウタは、
その場に立ち尽くした。
胸の奥で、
名前のない感情が、
小さく、
確かに、
動いていた。
引き取れないもの
ソウタは、
感情代行センターを出た。
夜の町は、
相変わらず整っていた。
街灯は等間隔に並び、
誰もが静かに歩いている。
胸の奥にあるものは、
まだ名前を持たないままだ。
重くもなく、
軽くもなく、
ただ、
そこに居座っている。
ソウタは、
立ち止まり、
深く息を吸った。
逃がそうとしても、
外に出ていかない。
代行してもらうことも、
返品することも、
誰かに渡すこともできない。
それでも、
不思議と、
息はできた。
路地の角で、
虹色の猫が、
塀の上に座っていた。
ナツメは、
夜風に毛並みを揺らしながら、
言った。
「それな」
「効率、
めっちゃ悪いやろ」
ソウタは、
小さく笑った。
「……そうですね」
「全然、
仕事にならない」
ナツメは、
尻尾で空を指す。
「せやけどな」
「それ、
代行に出したら、
もう戻ってけえへん」
しばらく、
二人は黙っていた。
遠くで、
誰かが笑う声がした。
近くで、
電車が通り過ぎる音がした。
ソウタの胸の奥で、
名前のない感情が、
少しだけ形を変えた。
苦しさでも、
安心でもない。
でも、
確かに、
自分のものだった。
ナツメは、
最後にこう言った。
「感じるんはな」
「外注できひん仕事や」
ソウタは、
うなずかなかった。
ただ、
その感情を、
胸の奥にしまったまま、
ゆっくり歩き出した。
町は今日も、
静かで、
便利だった。
感情代行センターの明かりは、
夜の中で、
変わらず、
白く光っていた。

