夜の喫茶店と、冷めないコーヒー
雨が降っているのか、降っていないのか判別できない夜だった。窓ガラスの向こうは、街灯の光が滲んで、すべてが少しだけ柔らかく見えた。店内には古いジャズが流れていて、音量は会話を邪魔しないぎりぎりのところで保たれている。
ミユは砂糖を入れないカフェラテを頼んで、ストローを意味もなく回していた。ミサキはブラックコーヒーを飲んでいる。飲んでいるというより、体温に近い温度の何かを、口に運んでいるだけにも見えた。
ミユ:恋愛の話って、するほど分かんなくなるときない?
ミサキ:ええ。分かるために話すのに、話すほど分からなくなる。人間、そういう矛盾が好きなのよ。
ミユ:好きって言われると、安心するじゃん? でも安心すると、なんか…逆に不安も出てくる。
ミサキ:安心は、次の不安の入口でもあるから。残念だけど。
ミユは「きびし」と小さく笑った。ミサキは笑わない。笑わないのに、どこかおもしろがっている気配だけが残る。
「好き」は軽くて重い
店の奥の席で、誰かがページをめくる音がした。紙の音がするだけで、この夜が現実に引き戻される。ミユはふと、その音を羨ましいと思った。紙は、めくられても傷つかないように見えた。
ミユ:「好き」って、言うのは簡単なのにさ。受け取るの、むずくない?
ミサキ:受け取るのが難しいのは、「好き」って言葉が軽いからよ。軽いくせに、人を変える。そういうものほど扱いが厄介。
ミユ:たしかに…。推し活の「好き」と、恋愛の「好き」って、似てるのに違うんだよね。
ミサキ:似てるのは、あなたが“育ててる”から。違うのは、恋愛は相手も勝手に育つから。望まない方向へね。
ミユ:うわ、こわ。育成ゲームじゃないんだ。
ミサキ:育成ゲームなら、セーブできるでしょ。恋愛はセーブできない。しかも、ロードも失敗する。
ミユは、その例えが妙に具体的で、少しだけ背筋が伸びた。ミサキはいつも、笑い話みたいに言って、笑い話にしない。
壊したいわけじゃないのに
ミユはストローを置き、カップを両手で包んだ。手のひらに伝わる温度は、ここにいる理由を教えてくれる。
ミユ:あたしさ、相手のこと大事にしたいのに、余計なこと言っちゃうときある。あとで「なんで言ったんだろ」ってなる。
ミサキ:それは、壊したいわけじゃなくて、確かめたいのよ。自分がどこまで許されるか。どこまで愛されるか。
ミユ:え、じゃああたし、試してるの?
ミサキ:試してるというより、測ってる。あなたの心は定規みたいなところがあるわ。気づいてないだけで。
ミユ:定規って、なんか嫌だな。
ミサキ:嫌でも、みんな持ってるの。長さが違うだけ。あなたは、測り方が可愛いからまだ救いがある。
ミユ:褒められてる? けなされてる?
ミサキ:両方よ。恋愛って、だいたい両方。
ミユは「なるほど…」と呟いた。ミサキはカップを置き、窓の外を見た。そこに何かがあるわけではない。ただ“外”という概念を確認しているみたいだった。
不条理は、たいてい静かに起きる
店の入口のベルが鳴って、見知らぬ男が入ってきた。コートの肩に小さな雪の粒がついている。雨なのか雪なのか分からない夜が、彼の肩でだけ答えを出していた。
男は一度だけ二人の席を見て、何も言わずに奥へ行った。ミユはその視線が気になったが、ミサキはまったく気にしていない。
ミユ:ねえミサキ。恋愛ってさ、なんで不条理なの?
ミサキ:不条理だから恋愛なのよ。合理的に成立するなら、みんなもっと上手にやってる。
ミユ:たしかに。上手にできないから、悩むのか。
ミサキ:悩むのが好きなの。人は。悩むことで“生きてる感”を得る。たぶんあなたも。
ミユ:うっ…否定できない。
ミサキ:でも、いいのよ。悩むのが悪いんじゃない。悩みを盾に、動かないのが悪いの。
ミユ:刺さる…。でもさ、動いたら壊れるときもあるじゃん。
ミサキ:壊れるわ。恋愛は壊れる。壊れても、壊れたものの形を覚えておく。それが大人のやり方。
ミユは「大人って、めんどいね」と笑った。ミサキは、少しだけ口角を上げた。笑いの代わりに、それで十分だった。
それでも、明日を選ぶために
ジャズの曲が終わり、次の曲が始まるまでの短い沈黙が、二人のあいだに落ちた。ミユはその沈黙を、怖いと思わなかった。沈黙は、言葉よりも正直なことがある。
ミユ:恋ってさ、結局「相手」ってより「自分」なのかな。
ミサキ:そうよ。相手は鏡。あなたが見たい自分を映す。ときどき、見たくない自分もね。
ミユ:じゃあ、好きって…自分に会いに行ってるみたいな?
ミサキ:いい解釈ね。面白いから採用するわ。
ミユ:採用ってなに。編集者?
ミサキ:恋の編集長よ。あなたの恋、誤字脱字が多そうだし。
ミユ:ひどい! でも、ちょっと当たってるかも。
ミユはカフェラテを飲み干し、氷の溶けた音を聞いた。ミサキは最後まで冷めないコーヒーを、ゆっくり飲み続けていた。
ミサキ:恋愛ってね、正解を当てるゲームじゃないの。あなたが何を選ぶかの話。選んだあと、どう持っていくかの話。
ミユ:じゃあ…あたし、ちゃんと選べるかな。
ミサキ:選べるわ。あなたは軽いけど、軽い人は飛べる。重い人は沈む。世界はそうできてる。
ミユはその言葉を、冗談として受け取りきれなかった。けれど、怖くもなかった。窓の外の街灯は相変わらず滲んでいて、雨なのか雪なのか、まだ分からない。
分からないままでも、夜は進む。たぶん、それでいい。




