人違いの会話に合わせてしまった日|リクの誠実めし

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昼休みの帰り道、知らない人に話しかけられた

昼休み。

定食屋で軽くランチを済ませて、編集部へ戻る途中だった。

午後の仕事前の、なんとなくぼんやりした時間。

歩きながら、午後の原稿のことを考えていると——

突然、後ろから声をかけられた。

「あ、ちょっと!」

振り返る。

知らない人だった。

年齢は三十代くらいだろうか。

スーツ姿の男性。

でも、向こうはかなり嬉しそうな顔をしている。

……。

えっと。

誰だろう。

僕が考えている間に、その人は話し始めた。

男性
「この前は本当にありがとうございました!」

……。

僕の頭の中で、必死に記憶が検索される。

この前。

この人。

どこで会っただろう。

会社?

取材?

仕事関係?

思い出せない。

でも、ここで「誰ですか?」と聞くのも失礼な気がする。

僕はとりあえず、なんとなくそれっぽく答えた。

リク
「いえいえ……」

男性はさらに続ける。

男性
「例の件、無事通りました!」

例の件。

……例の件。

僕の知らない例の件だ。

リク
「あ、それはよかったですね」

僕は完全に、雰囲気で会話していた。

男性は嬉しそうにうなずく。

男性
「いや、本当に助かりました」

男性
「アドバイスのおかげです」

アドバイス。

……。

僕、何かアドバイスしましたっけ。

でも、今さら聞くのもおかしい。

会話はそのまま続く。

そして——

男性は、深く頭を下げて言った。

男性
「本当にありがとうございました」

男性
「田中さん!」

……。

……。

僕は一瞬、固まった。

リク
「僕、田中さんじゃありませんよ……。」

立ち去る背中を見ながら、僕は少し反省していた 

人まちがいをして話しかける男性と、困るリク。

僕が「田中さんじゃありません」と言うと、男性は一瞬固まった。

そして次の瞬間。

顔が、みるみる赤くなった。

男性
「えっ……!」

男性
「す、すみません!!」

びっくりするくらい深く頭を下げる。

通りすがりの人が、少しだけこちらを見る。

男性
「完全に人違いでした!」

男性
「本当に申し訳ありません!!」

いやいや。

そんなに謝らなくても。

僕は慌てて手を振った。

リク
「いえ、大丈夫ですよ」

リク
「よくあることですし」

……。

よくあることなのかは、正直わからないけど。

男性は何度も頭を下げながら、少しずつ後ろに下がった。

男性
「失礼しました……!」

そう言って、そのまま早足で去っていく。

僕はその背中を見送った。

……。

……なんだろう。

すごく気まずい。

いや。

人違いされたことが気まずいんじゃない。

むしろ問題は——

僕のほうだ。

「例の件、無事通りました!」

と言われて、

僕はこう答えた。

「それはよかったですね」

……。

いやいやいや。

知らないんですよ。

例の件。

まったく知らない。

なのに僕は、

雰囲気だけで会話を成立させてしまった。

さらに言えば——

「アドバイスのおかげです」と言われて、

僕は。

「いえいえ」

と返した。

いや。

アドバイスしてない。

一ミリもしてない。

なんなら、

その人が誰なのかすら知らない。

……。

僕は立ち止まった。

これは、なんというか。

誠実ではない。

もちろん、悪意はない。

相手を困らせないためだった。

でも。

僕の中に、ほんの少しだけ残るモヤモヤ。

こういうとき、僕はだいたい同じことをする。

深呼吸して、空を見上げる。

そして、静かに決める。

……よし。

今夜は誠実めしが必要だ。

今日の誠実めしは、だし香る卵とじうどん

夜。

僕はキッチンに立っていた。

冷蔵庫を開ける。

……。

卵。

ネギ。

うどん。

よし。

今日はもう、これでいい。

いや。

これがいい。

うどんはいい。

うどんは、優しい。

人違いされても優しいし、

話を合わせてしまった自分にも優しい。

僕は鍋に水を入れて火にかけた。

ぐつぐつと沸いてきたら、だしを入れる。

ふわっと香りが広がる。

この瞬間が、好きだ。

なんというか。

世界がちょっとだけ整う感じがする。

ネギを刻む。

包丁の音が、トントントンと響く。

昼間の出来事を思い出す。

「例の件、通りました!」

……。

例の件。

いまだに、なんだったのか気になる。

もしかしたら。

本当に大事な件だったのかもしれない。

それを僕は。

雰囲気で「よかったですね」と言った。

いや。

よくない。

よくないですよ、それは。

僕は卵をボウルに割り入れた。

カシャッ。

そして箸で軽く溶く。

ぐるぐる。

……。

でも。

もし、あの場で最初に

「すみません、どなたでしたっけ?」

と聞いていたら。

それはそれで、かなり気まずかった気もする。

人は難しい。

会話も難しい。

でも、料理はわりと正直だ。

だしが沸いたところに、うどんを入れる。

麺がゆらゆらと泳ぐ。

少しだけ火を弱めて、溶き卵を流し入れる。

ふわっと広がる黄色。

その上に、刻んだネギ。

……。

うん。

これは完全に、誠実めしだ。

僕は鍋の前で小さくうなずいた。

人違いは、仕方ない。

話を合わせてしまったのも、まあ仕方ない。

でも。

こうやって、ちゃんとご飯を作る。

それくらいは、誠実でいたい。

湯気の立つうどんをどんぶりに盛る。

そして、静かに言った。

リク
「いただきます」

誠実めしは、心の整理整頓

だしの香りが、ゆっくりと湯気になって立ち上る。

僕は箸でうどんを持ち上げた。

ふわふわの卵。

優しい出汁。

ネギの香り。

……うん。

これは完全に、誠実めしだ。

一口食べる。

体の奥が、じんわり温まる。

さっきまで少しだけ残っていたモヤモヤが、

だしと一緒にゆっくり溶けていく。

人違い。

雰囲気で返事。

ちょっとした気まずさ。

人と話していると、こういうことはよくある。

誠実に生きたいと思っていても、

完璧にはできない。

でも。

だからこそ、こういう時間が必要なんだと思う。

ちゃんとご飯を作って、

ちゃんと食べて、

ちょっと反省して、

少しだけ笑う。

それくらいで、だいたいのことは整う。

僕はもう一口うどんをすすった。

……。

そういえば。

「例の件」って、結局なんだったんだろう。

あの人、本当にうまくいったのかな。

もし次にどこかで会ったら、

今度はちゃんと聞いてみよう。

「例の件、どうでしたか?」って。

……。

いや。

それはそれで、またややこしくなるよな。

僕は小さく笑った。

そして、どんぶりを見つめながら思う。

誠実めしは、心の整理整頓だ。

人間関係は、ちょっと難しい。

でも、出汁とうどんは裏切らない。

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