夜は、続きを選ばせようとする

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再会は、予定の中に紛れ込んでくる

その日、あたしは仕事である店に来ていた。

いわゆる取材ってやつ。新しくできたバーで、軽く話を聞いて、記事にする予定だった。

カウンターに座って、メモを取りながら店内を見渡す。

照明は少し暗めで、音楽は控えめ。悪くない空気だった。

「ナナさん、こっち」

店の人に呼ばれて、あたしは顔を上げた。

そのときだった。

視界の端に、見覚えのある輪郭が入ってきた。

気のせいだと思った。

でも、人は本当に見たくないものほど、はっきり見えてしまう。

あたしは、そっちを見た。

そして、彼もこっちを見ていた。

一瞬、時間が止まるみたいな感覚があったけど。

実際には、何も止まっていなかった。

グラスの氷は溶けていたし、音楽もそのまま流れていた。

「……ナナ?」

名前を呼ばれるまでに、少し間があった。

あたしはペンを置いて、小さく息を吐いた。

「久しぶり」

その言葉は、思っていたよりも軽く出た。

もっと重くなると思ってたのに。

そういうところが、ちょっとだけ悔しかった。

過去は、名前を呼ばれるだけで形を取り戻す

彼は少し気まずそうに笑って、カウンターの端に立った。

あたしと同じ空間にいることに、まだ体が慣れていないみたいだった。

それはたぶん、あたしも同じだ。

「仕事?」

「そう。取材」

「そっか」

それ以上は続かなかった。

会話は、まるでどこかに置き忘れたみたいに途切れる。

でも、不思議と焦りはなかった。

あたしたちは、昔あれだけ言葉を使い切った関係だから。

今さら何かを埋める必要もなかった。

「終わったらさ」

彼が、グラスに視線を落としたまま言った。

「もう一軒、どう?」

あたしは少しだけ考えるふりをした。

実際には、考えるまでもなかった。

断る理由も、受ける理由も、どちらも同じくらい曖昧だったから。

「いいよ」

そう言った瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。

懐かしさでも後悔でもない。

まだ名前のついていない感情が、ゆっくりと形を取り戻すみたいな感覚だった。

夜は、過去と現在の境目をあいまいにする

店を出ると、空気が冷えていた。

さっきまでの店の温度が、体の内側に残っているのがわかる。

彼は歩幅を合わせるでもなく、かといって離れるでもなく、同じ方向に歩いた。

昔は、こんな距離じゃなかった。

もっと近くて、もっと雑だった。

でも今は、その曖昧な距離が心地よかった。

案内されたバーは、さっきの店よりもさらに暗かった。

音楽はほとんど聞こえない。代わりに、グラスと氷の音がやけに響く。

カウンターに並んで座る。

それだけで、過去の時間がふと浮かび上がる。

「何飲む?」

「同じのでいい」

昔と同じやり取りだった。

違うのは、それに意味を求めなくなったことくらいだ。

グラスが置かれて、あたしたちは同時に手を伸ばした。

指先が触れそうで、触れない。

それを避けたのがどちらだったのか、よくわからなかった。

「あの頃さ」

彼が、言葉を探すみたいに口を開いた。

「……いろいろあったよな」

あたしは笑った。

軽くじゃなくて、しっかりと笑った。

「あったね」

それ以上は言わなかった。

説明すると、形が崩れる気がしたから。

言葉にしないほうが、正確に残るものもある。

グラスの中で、氷がゆっくり回る。

その音だけが、時間の流れを教えていた。

何かが始まりそうな夜ほど、言葉は少なくなる

二杯目に入ったあたりで、会話はゆっくりほどけていった。

仕事のこと。住んでいる場所。最近よく行く店。

どれも特別じゃない話なのに、なぜか手触りだけが残る。

彼の声は、記憶の中より低くなっていた。

年を重ねたせいか、それとも――あたしの聞き方が変わったのか。

「ナナってさ」

グラスを傾けたまま、彼が言う。

「あの頃と、あんまり変わってないよな」

あたしは肩をすくめた。

「そう見えるだけでしょ」

ほんとは、変わったものの方が多い。

ただ、それをわざわざ並べるほどの関係でもないだけだ。

沈黙が落ちる。

気まずさはなかった。

むしろ、その沈黙が、ちょうどいい厚みを持っていた。

彼が、グラスを置いた。

その動きに合わせるみたいに、視線が重なる。

ほんの一瞬。

でも、その一瞬で、いくつかの可能性が静かに立ち上がる。

もしここで、どちらかが手を伸ばせば。

たぶん、何かは始まる。

そういう種類の夜だった。

あたしは、そのことを理解していた。

この選択は、過去を裏切らないため

夜道を1人で歩き帰宅するナナ。

あたしはグラスを持ち上げて、残りをゆっくり飲み干した。

氷はほとんど溶けていて、味はすっかり薄くなっていた。

それでも、嫌じゃなかった。

むしろ、そのくらいがちょうどよかった。

「そろそろ行くわ」

あたしが言うと、彼は少しだけ間を置いてからうなずいた。

「……そっか」

引き止めるでもなく、送り出すでもない声だった。

あたしたちの関係は、そういうところまで来ている。

立ち上がって、コートを羽織る。

動作のひとつひとつが、妙に静かだった。

「また飲もうぜ」

彼が言った。

あたしは一瞬だけ考えて、軽く笑った。

「機会があればね」

それは約束じゃない。

でも、拒絶でもない。

ただ、その場にちょうどいい形の言葉だった。

あたしたちは、かつてちゃんと恋をした。

ぶつかって、すり減って、それでも最後までやりきった。

だから今さら、続きを書く必要はない。

あの恋は、あの場所で完成している。

外に出ると、夜の空気がすっと体に入ってきた。

さっきまでの温度が、静かに抜けていく。

あたしは振り返らなかった。

振り返れば、きっと何かを確かめてしまうから。

確かめる必要のないものは、見ないほうがいい。

歩き出すと、足音がやけにクリアに響いた。

ひとり分のリズム。

それが、いまのあたしにはいちばんしっくりきた。

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