境界のある世界
未来世界。
人はすでに、 同じ世界を生きていなかった。
富裕層と、貧困層。
そのあいだには、 努力や運では越えられない境界があった。
上にいる者と、 下にいる者。
それはもう、 階層ではなく“役割”だった。
苦しみを手放す側と、 苦しみを引き受ける側。
その役割を決定づけたのが、 ある技術だった。
記憶移行。
人間の記憶や感情を、 別の人間へ移す技術。
もともとは、 医療のために開発された。
耐えがたいトラウマや、 強いストレスを取り除くためのもの。
だが、 用途はすぐに変わった。
苦しみは、移せる。
ならば、 持つ必要はない。
富裕層は迷わなかった。
不安も、後悔も、痛みも、 すべてを切り離した。
代わりに、それを受け取る人間がいる。
貧困層。
彼らには選択肢がなかった。
飢えと引き換えに、 他人の苦しみを受け入れる。
それが、 この世界で生き延びる方法だった。
こうして世界は、 はっきりとふたつに分かれた。
苦しみを捨てる者と、 苦しみを背負う者に。
眠りながら生きる
貧困層の生活は、 ある時点から大きく変わった。
彼らは、 “起きて生きる”必要がなくなった。
代わりに与えられたのは、 カプセルだった。
人はその中で眠り続ける。
体は維持される。
栄養は自動で供給される。
飢えることはない。
現実で苦しむこともない。
ただし——
夢を見続ける。
他人の記憶が流れ込む。
痛み。
後悔。
恐怖。
取り返せなかった選択。
それらを、 自分のことのように体験し続ける。
目覚めることはできない。
拒むこともできない。
彼らは、 生きながらえながら、 苦しみを受け取り続ける存在になった。
一方で、 富裕層には苦しみや悩みが消える。
それは、 単純に“気持ちがよかった”。
不安はない。
後悔も残らない。
痛みも、すぐに手放せる。
軽くなる。
ただただ快適。
そして人は、 その状態を手放さなくなる。
「このままでいい」
「いや、もっと徹底した方がいい」
その考えは、 子どもにも向けられる。
苦しみのない人生を、 はじめから与える。
悩みも、葛藤も、 最初から排除する。
そのための“受け皿”として選ばれたのが貧困層の子どもたち。
彼らは、 記憶を受け取るための存在として扱われた。
貧困層には、ふたつの選択肢が生まれた。
自分がカプセルに入るか、 それとも。
生まれたばかりの子どもを、 差し出すか。
多くの者は、 後者を選んだ。
「自分は入りたくない」
「この子なら、まだ何も知らない」
それは、 合理的な判断だった。
ひとりの子どもで、 家族はしばらく生き延びられる。
そうして、 取引は成立する。
富裕層は、 苦しみを持たない子どもを育てる。
貧困層は、 苦しみを引き受けるために産まれた子どもを売却する。
同じ“子ども”でも、 与えられる役割は、 最初から決まっていた。
ナツメがぼそっと言う。
「どっちも正しい顔してるのが、いちばん厄介やな」
「……まあ、そのうちバレるで」
「何を捨てたか」
与えられたもの、奪われたもの
富裕層の子どもたちは、 何不自由なく育った。
不安を感じる前に取り除かれる。
悩む前に処理される。
苦しむ前に、存在しなかったことになる。
失敗しても、記憶は消える。
傷ついても、感情は残らない。
彼らは、 何も抱えずに成長した。
一方で、 貧困層の子どもたちは違った。
彼らは、 カプセルの中で生きていた。
目を閉じたまま、 夢を見る。
それは、 誰かの記憶だった。
たとえば——
大切にしていたペットが死ぬ瞬間。
何度やっても、 うまくできない悔しさ。
周りと比べられ、 劣っていると突きつけられる瞬間。
誰かに選ばれなかった、 あのときの沈黙。
取り返せなかった一言。
守れなかった命。
自分の選択で、 誰かを壊してしまった記憶。
それらすべてを、 自分のことのように体験する。
理由はわからない。
それが誰の人生なのかも、 知らない。
ただ、 苦しい。
ただ、 つらい。
終わりもなく、 繰り返される。
目を覚ますことはできない。
逃げることもできない。
彼らは、 何のための苦しみなのかもわからないまま、 それを受け取り続けた。
その間にも、 富裕層の子どもたちは成長する。
苦しみを抱えないまま。
幸福しかない生活の中で。
この世界は、 誰かの快適さのために、 誰かが苦しみ続けることで成り立っていた。
そこに、 例外はなかった。
ナツメが小さく言う。
「ええなあ、軽い人生は」
「……その分、重たいもん誰かが持っとるけどな」
容器の中で考える者たち
富裕層の子どもたちは、 苦しみを知らずに育った。
悩む必要がない。
立ち止まる理由もない。
すべては、 あらかじめ取り除かれている。
だから、 考えることもなかった。
どうすればいいのか。
なぜそうなるのか。
何が足りないのか。
そうした問いは、 最初から存在しなかった。
一方で、 カプセルの中の子どもたちは違った。
彼らは、 終わりのない苦しみの中にいた。
理由はわからない。
終わりも見えない。
それでも、 繰り返される。
だから、 考え始める。
どうすれば、 この苦しみは終わるのか。
どうすれば、 この感情から解放されるのか。
どうすれば、 同じ記憶を繰り返さずに済むのか。
答えはすぐには出ない。
何度も失敗する。
それでも、 考えることをやめなかった。
苦しみは、 消えなかった。
だが、 扱い方は少しずつ変わっていった。
ある者は、 感情を分解した。
ある者は、 記憶の流れを観察した。
ある者は、 それを形にした。
言葉にする者。
音にする者。
色にする者。
苦しみを、 別のものに変えようとした。
それが、 はじまりだった。
ナツメが静かに言う。
「人間ってな」
「しんどいときほど、頭使うねん」
「……まあ、使わされとるだけやけどな」
動く必要がなくなる
富裕層の子どもたちは、 そのまま大人になった。
苦しみなく。
楽しいだけの日々。
そして、 何も求めなくなった。
すでに満たされている。
不満もない。
不安もない。
不足もない。
だから、 動く理由もなかった。
考える必要もなかった。
彼らは、 与えられた快適さの中で、 ただ時間を消費していった。
やがて、 その生活はさらに単純になる。
快楽を得る。
それだけでよかった。
刺激は外から与えられる。
選ぶ必要もない。
工夫する必要もない。
ただ受け取る。
その繰り返しだった。
カプセルの管理も、 同じように扱われた。
動いているなら問題ない。
止まっていないなら十分だ。
細かな異常は、 誰も気にしなかった。
やがて、 小さなエラーが積み重なる。
わずかな遅延。
処理のズレ。
記憶の混線。
それは、 ゆっくりと広がっていった。
そしてあるとき、 限界を越えた。
カプセルのひとつが、 停止した。
その中にいた者が、 目を覚ます。
かつて、 売られた子どもだった者。
長い時間を、 夢の中で過ごしてきた。
苦しみしかない場所で。
終わらない後悔と、 終わらない痛みの中で。
それでも、 生きていた。
そして、 目を覚ました。
現実の光は、 まぶしくなかった。
重くもなかった。
ただ、 静かだった。
それだけで、 十分だった。
周囲には、 同じように目を覚ました者たちがいた。
誰も、 何も持っていない。
それでも、 ひとつだけ確かなものがあった。
苦しみを知っていること。
その中で、 考え続けてきたこと。
どうすれば終わるのか。
どうすれば変えられるのか。
その問いだけは、 消えなかった。
彼らは、 外の世界を見て、 考え始める。
どう生きるのか。
どうすれば、 同じことを繰り返さずに済むのか。
どうすれば、 この苦しみを終わらせられるのか。
答えは、 まだなかった。
それでも、 彼らには動く理由があった。
止まっていると、放っておくと苦しいだけだと知っているからだ。
止まったままの世界の中で、 彼らだけが動き始める。
ナツメが小さく笑う。
「ほらな」
「しんどい方が、動く理由になるんや」
眠るもの起きるもの
カプセルの停止は、 一部だけでは終わらなかった。
管理されていたはずの仕組みは、 想定よりも脆かった。
エラーは広がり、 次々と機能が失われていく。
富裕層の生活にも、 変化が現れた。
これまで当たり前だった快適さが、 維持できなくなる。
わずかな不快。
消えない違和感。
取り除かれない感情。
彼らはそれに、 耐えられなかった。
だから、 眠ることを選んだ。
眠っているあいだは、 感じなくて済む。
考えなくて済む。
現実を、 受け取らなくて済む。
かつて、 自分たちが作り上げた仕組みに似た形で。
動かないまま、 静かに横たわる。
一方で、 カプセルから目を覚ました者たちは、 動き続けていた。
何もない場所で、 何もない状態から。
それでも、 考えることはできた。
どうすれば、 苦しくないのか。
どうすれば、 同じことを繰り返さずに済むのか。
彼らは、 仕組みを作ろうとした。
苦しみをなくすのではなく、 扱える形にするための仕組みを。
ある者は、ルールを作った。
ある者は、 それを言葉にした。
ある者は、 音に変えた。
ある者は、 絵で表現した。
夢の中で抱え続けたものを、 外に出す方法を見つけていった。
苦しみは、 消えなかった。
だが、 変わっていった。
意味のないものではなくなった。
彼らは、 それを使いながら生きていく。
ゆっくりと、 確実に。
かつての世界とは、 違う形で。
ナツメが最後に言う。
「結局な」
「重たいもんが、残るねん」
「……で、どないしよかって考えて生きてくしかない」

