仕事帰り。
夜風が少し冷たい。
マリは今日も、いつもの道を歩いていた。
マリ:……今日は赤ワインでも飲みたい気分ね。
そのときだった。
路地裏に、小さな看板が灯っている。
Wine Bar NATSUME
マリ:……。
マリ:いや。
マリ:帰ろう。
三歩歩く。
止まる。
振り返る。
マリ:……でも、気になるのよね。
看板の下には小さく書かれていた。
「本日のおすすめ 樽熟成した昨日」
マリ:意味が分からない。
意味は分からないのに、なぜか扉だけは高級感がある。
マリはため息をついて、ドアを開けた。
カラン。
ベルが鳴る。
店内には客がいない。
クラシックが流れている。
いや。
よく聞くと、クラシックを誰かが鼻歌で歌っていた。
???:ふんふーん……ドレミファソラシドレ。
マリ:……。
カウンターの奥。
ワイングラスを逆さまに磨いている人物が、ゆっくり振り向いた。
ナツメ:いらっしゃい。
マリ:やっぱりあなただった。
ナツメ:今日は火曜日やから、水曜日を開けといたで。
マリ:何を?
ナツメ:水曜日を。
マリ:帰るわ。
ナツメ:帰る人ほど、椅子がよう似合う。
マリ:日本語として成立してないのよ。
ナツメは静かにワインボトルを一本持ち上げた。
ラベルには大きくこう書かれている。
『2017年産 ため息』
マリ:ワインじゃないじゃない。
ナツメ:ため息も、寝かせたら丸くなる。
マリ:ならないわよ。
ナツメ:なる人もおる。
マリ:誰よ。
ナツメ:わたし。
マリは椅子に腰を下ろした。
負けたわけではない。
座っただけだ。
そう自分に言い聞かせながら。
マリ:それで?
マリ:今日は何のお店なの?
ナツメ:ワインバーや。
マリ:前はラーメン屋じゃなかった?
ナツメ:ラーメンは昨日や。
マリ:昨日だけ?
ナツメ:店は毎日、転職する。
マリ:……。
マリ:今日は長い夜になりそうね。
「熟成したため息」を一杯ください
ナツメは棚を見上げた。
そこにはワインボトルがずらりと並んでいる。
……ように見えた。
よく見ると一本だけ植木鉢だった。
マリ:一本、植物混ざってるけど。
ナツメ:育ててる途中や。
マリ:何を?
ナツメ:ぶどうの気持ちを。
マリ:帰るわ。
ナツメ:今日は三回目や。
マリ:ちゃんと数えてるのね。
ナツメは一冊の分厚いメニューを差し出した。
マリは開く。
一ページ目。
赤。
二ページ目。
もっと赤。
三ページ目。
昨日より赤。
マリ:ワインの説明ゼロじゃない。
ナツメ:説明すると酔いが逃げる。
マリ:そんな仕組みないから。
さらにページをめくる。
「失恋(微発泡)」
「片想い(樽熟成)」
「既読スルー2021」
「実家に帰ります ロゼ」
マリ:誰が考えてるの、このメニュー。
ナツメ:ワインや。
マリ:ワインが?
ナツメ:夜になると会議しよる。
マリ:そう。
もう否定する気力がない。
ナツメは一番奥から一本取り出した。
ラベルには何も書かれていない。
マリ:これは?
ナツメ:名無し。
マリ:銘柄じゃなくて?
ナツメ:名前付けたら、自分をその名前やと思い込むからな。
マリ:ワインも?
ナツメ:人も。
ほんの一瞬だけ。
マリは返す言葉を失った。
……まただ。
この人は九十九回意味不明なことを言って、一回だけ心に入り込んでくる。
マリ:……ずるいわね。
ナツメ:ワインもコルクも、ちょっとずるい方が香る。
マリ:今のは何点?
ナツメ:七ぶどう。
マリ:点数の単位まで意味不明になった。
ナツメは静かにグラスへ赤ワインを注ぐ。
不思議だった。
グラスに注がれているのは赤ワインなのに、音だけは雨だった。
マリ:……ねえ。
マリ:今、雨の音しなかった?
ナツメ:赤は雨音で飲むんや。
マリ:もう聞かないことにする。

恋が渋くなるまで、何年かかりますか
マリはグラスを口元まで運ぶ。
香りは確かにいい。
……普通においしい。
マリ:悔しいけど、おいしいわ。
ナツメ:今日はワインが機嫌ええからな。
マリ:だから、誰と会話してるのよ。
ナツメはカウンターの下から、小さな砂時計を取り出した。
砂ではなく、赤い粒がゆっくり落ちている。
マリ:それ、何?
ナツメ:恋時計や。
マリ:恋時計?
ナツメ:恋すると、一粒ずつ減る。
マリ:じゃあ失恋したら?
ナツメ:横向きになる。
マリ:意味分からない。
ナツメ:意味が分かった恋は、大体終わっとる。
マリ:またそれっぽいこと言う。
ナツメは棚から一本のボトルを取り出した。
ラベルにはこう書かれている。
「恋が渋くなるまで十五年」
マリ:そんなに熟成させるの?
ナツメ:早い人は三日や。
マリ:ずいぶん幅があるわね。
ナツメ:恋は賞味期限やなくて、気温で決まる。
マリ:恋に気温なんてあるの?
ナツメ:夏の恋は三十八度。
マリ:熱中症じゃない。
ナツメ:秋は二十二度。
マリ:ちょっと快適ね。
ナツメ:冬は冷蔵庫。
マリ:恋、死ぬじゃない。
ナツメは真剣な顔で首を横に振った。
ナツメ:恋は凍るだけや。
マリ:……。
マリ:それ、少しだけ分かるのが腹立つ。
店内に静かなジャズが流れる。
……と思ったら、スピーカーではなく、壁に掛かった鹿の置物がサックスを吹いていた。
マリ:ねぇ。
マリ:鹿が演奏してるんだけど。
ナツメ:バイトや。
マリ:鹿が?
ナツメ:本業は火曜日。
マリ:火曜日って職業だったのね。
ナツメ:今日は休みや。
マリ:……もう何も聞かない。
そう言いながら、マリはグラスをもう一口飲んだ。
意味は分からない。
でも、この店では意味を探した方が負けなのだと、少しだけ分かってきていた。
閉店時間は、お客さんが忘れた頃です
マリは空になったグラスをカウンターへ置いた。
マリ:ごちそうさま。
マリ:そろそろ帰るわ。
ナツメ:まだ閉店してへん。
マリ:帰るのは私。
ナツメ:お客さんは帰れても、気持ちは忘れ物する。
マリ:今日は詩人なのね。
ナツメ:今日は木曜日や。
マリ:今日は金曜日だけど。
ナツメ:店の中は一日ずれとる。
マリ:そういう営業形態なのね。
マリが立ち上がる。
入口へ向かう。
しかし。
さっき入ってきた扉がない。
マリ:……。
マリ:入口どこ?
ナツメ:帰る人には見えへん。
マリ:じゃあどうやって帰るのよ。
ナツメ:帰るのやめたら帰れる。
マリ:哲学なのか妨害なのか分からないわ。
ナツメは静かにカウンターを指差した。
いつの間にか、小さな鍵が置いてある。
マリ:これ何?
ナツメ:出口の鍵。
マリ:どこの?
ナツメ:出口の。
マリ:だから、出口がないじゃない。
ナツメ:鍵あるやろ。
マリ:鍵だけあっても意味ないのよ。
仕方なく鍵を握る。
カチッ。
どこからともなく鍵の開く音がした。
振り返る。
そこにはちゃんと扉があった。
マリ:……あった。
ナツメ:出口は見つけるもんやない。
ナツメ:向こうから来る。
マリ:今日は少しだけ分かりそうで嫌。
ナツメ:分かったら忘れ。
マリ:忘れたら?
ナツメ:また来る。
マリ:それがお店の作戦ね。
ナツメ:商売やから。
マリ:そこだけ現実なのね。
マリは笑いながら扉を開けた。
カラン。
ベルが鳴る。
外は、さっきまでの夜道だった。
振り返る。
店はない。
看板もない。
路地だけが静かに続いている。
マリ:……夢?
ポケットに手を入れる。
店を出る時にもらったレシートが入っていた。
そこには金額の代わりに、一行だけ印字されている。
『恋は飲み干すより、少し残した方が香る。』
マリは思わず笑った。
マリ:最後だけ、ずるいのよ。
あとがき|次はパン屋らしい

その夜。
マリは自宅に帰り、コートを椅子へ掛けた。
マリ:……疲れた。
冷蔵庫を開ける。
白ワインが一本入っていた。
マリ:今日はもう飲まない。
マリ:さっき飲んだから。
そう言ってから、少し首をかしげる。
マリ:……あれ?
マリ:本当に飲んだんだっけ。
夢だったような。
でも、ちゃんと酔っているような。
ポケットに手を入れる。
一枚のレシート。
金額は書かれていない。
裏返す。
そこには、見覚えのある丸い文字。
『次はパン屋や。』
マリ:……絶対行かない。
その瞬間。
どこからともなく声がした。
ナツメ:クロワッサンは木曜日しか笑わへん。
マリ:いるの!?
慌てて窓を開ける。
夜風だけが吹いていた。
誰もいない。
でも、向かいの電柱には帽子だけが引っ掛かっている。
マリ:……見なかったことにしよう。
窓を閉める。
レシートをもう一度見る。
さっきまであった文字は消えていた。
代わりに、小さく一行だけ。
『人生は、寄り道した店ほど覚えとる。』
マリは静かに笑った。
マリ:……意味は分からない。
マリ:でも、ちょっとだけ好き。
翌朝、その路地を探してみた。
ワインバーはなかった。
パン屋もなかった。
ただ、風がほんのりワインの香りを運んできた。
たぶん、ナツメは今日もどこかで店を開いている。
普通の人は、たぶん見つけられない。
でも、人生に少し疲れた日の帰り道だけは。
意味の分からない看板が、あなたを待っているのかもしれない。

