取材を終えて編集部に戻る途中、ふとスマホを見つめた。
――誰かとご飯行きたいな。
アカリは今日は友だちとライブ。
ミサキは次の企画の打ち合わせ中。
自然と指が開いたのは、ワニオとのトーク画面だった。
「……なんでワニオなんだろ」
自分でもちょっと笑ってしまう。
でも、なんというか――彼と話す時間って、気を張らなくていい。
《今、取材帰りなんですけど。
ご飯どうです?》
数秒後、すぐに返事が届く。
《了解しました。現在、特に予定はありません》
相変わらずの、淡々とした返し。
でも、それが妙に心を落ち着かせる。
約束の店につくと、ワニオはすでに席に座っていた。
いつもの眼鏡に、いつもの落ち着いた表情。けれど、どこかあたたかい。
「こんばんは、ミユさん。お疲れさまです」
「うん、ワニオもおつかれ〜。ごめんね急に誘っちゃって」
「問題ありません。食事は一人より二人のほうが、味覚の揺らぎが分かりやすいです」
……味覚の揺らぎ?
今日もワニオはワニオだ。
こうして“なんでもない夜ご飯”が始まった。
でも、このあと話題は、ふたりらしい方向へ転がっていく。
テーマは――一緒にいて『居心地の良い相手』って何?
居心地の良さって、恋? それとも相性?
料理が運ばれ、ふたりで軽く箸をつけたところで、ミユは前から気になっていたことを切り出した。
「ねぇワニオ。居心地がいい相手ってさ……恋なの? それとも相性なの?」
ワニオは箸を止め、少しだけ首を傾けた。
その仕草が妙に研究者っぽい。
「恋かどうか、ですか。ミユさんはいつも大胆に核心を投げてきますね」
「いやいや、普通の話でしょ!? 今日ワニオのほうが核心っぽいよ?」
「そうでしょうか。では、まず定義を整理しましょう」
出た。ワニオの“定義づけ”。
でも嫌じゃない。むしろ安心する。
「恋は、感情の“高まり”。
相性は、生活の“揃い”。」
「……あ、なんか分かりやすい」
「ミユさんは、感情が動いたときに気づくタイプでしょう。
一方で、相性の良さは“気づかないまま積みあがる”ものです」
「わかる〜!相性いい人ってさ、後から気づくんだよね。
“あれ、なんか楽だったな?”って」
ワニオは頷き、コーヒーを一口。
「恋と相性が重なるとき、それは長期的に良い関係になりやすい。
しかし、どちらか片方だけでも成り立つことはあります。
私は、ミユさんが今日“なんとなく誘った”という時点で、
すでに軽度の相性適合が発生していると思いますよ」
「いや言い方ぁ〜! でも……まぁ、そうかも。
ワニオってさ、無理して話さなくていいし」
「私もミユさんとは話しやすいですよ。
会話の温度が安定していますので」
“会話の温度が安定”――たぶん褒められている。たぶん。
ミユはストローをくるくる回しながら、
ふと気づいたように小さく呟いた。
「……じゃあ、居心地の良さって、恋じゃなくても生まれるんだね」
「はい。それは“好意の芽”とも、“友情の深度”とも呼べます。
どちらにしても大切なサインですよ」
ワニオの声は相変わらず淡々としていたけれど、どこかやさしかった。
「居心地の良さ」はどうやって生まれる?
「さっきさ、“好意の芽”って言ってたじゃん」
グラタンをふーふー冷ましながら、あたしはワニオを見る。
「芽が出る相手と、出ない相手って、何が違うの?」
「シンプルに言えば、三つの要素ですね」
- ①沈黙が怖くない
- ②自分を“盛らなくて”いい
- ③相手のペースが読める
「うわぁ、全部耳が痛いんだけど」
「耳が痛いと感じるのは、ちゃんと向き合っている証拠ですよ」
ワニオは、ナプキンを整えながら淡々と続ける。
「例えば①沈黙。
多くの人は“何か話さなきゃ”と焦って、どうでもいい話題で埋めます。
居心地の良い相手は、沈黙の時間も『今、休憩中だな』くらいに思える」
「あー、それ分かる。
一緒にスマホいじってても気まずくない人って、なんか特別だよね」
「そうです。会話量より、緊張が戻る速度を見たほうがいいですね」
「戻る速度?」
「少し気まずいことが起きたあと、ふたりの空気がどれくらいで元に戻るか、です。
すぐに笑い話にできるなら、相性ポイントは高い」
「それめっちゃ分かりやすいかも」
ワニオは、今度はあたしの表情をじっと観察した。
「②の“盛らなくていい”は、ミユさんが一番感じやすいところでしょう」
「え、なんで?」
「仕事上、明るく盛り上げる役割を担うことが多いですから。
それを自覚している人ほど、ふとした瞬間に『何も考えずにいていい相手』に救われます」
「……あ〜〜〜それは、あるかも」
たしかに、座談会とか記事のネタ出しとか、
つい“オチ”を探しちゃうクセがある。
「ワニオとご飯行くとさ、なんか“オチ”いらないんだよね」
「オチを期待されていないのは光栄ですね」
「いや、そこはちょっとは期待してるけど?」
ふたりで笑うと、店内のBGMが少しだけ近く感じた。
「③相手のペースが読める、については?」
「これは、とても簡単です。
相手の歩く速さ、食べる速さ、返信の速さ……
どれか一つでも自分と近いと感じたら、無意識に安心します」
「あー、分かる。
返信遅いのに、会ったらめちゃ早口とかだと“え、どっち?”ってなるもんね」
「はい。人は“予測しやすいもの”を心地よいと感じます。
居心地の良さは、ミステリアスさよりも、
『この人ならこうするだろうな』という見通しの積み重ねです」
「じゃあさ、居心地いい人を見つけたい人は、
沈黙の感じとか、盛らなくていいかどうかとか、
歩く速さとかをチェックしたらいいってこと?」
「そうですね。
それに気づくためには、まず自分の“ふだんの速度”を知る必要がありますが」
「自己分析きた〜。でも、嫌いじゃない」
あたしはグラスを持ち上げ、ワニオに小さく掲げてみせた。
なんとなく、今日のこの時間を、ちゃんと味わっておきたかった。
“居心地いい相手”と付き合うべきか問題
「ねぇワニオ、居心地がいい相手ってさ……」
グラスをくるくる回しながら、あたしは少し迷い気味に続ける。
「好きになったほうがいいの? それとも、ただの安心感で終わることもあるの?」
ワニオは、カトラリーをまっすぐ並べ直しながら言った。
「まず前提として、“居心地の良さ”は恋愛感情とは別軸です」
「別軸……?」
「はい。恋愛は感情の波ですが、居心地は生活のリズムです。
波とリズムは、似ているようで性質が違う。ですから——」
「お、おう……なんか急に専門用語みたいな感じになってきた」
「つまりですね、“波”が弱くてもリズムが合えば長続きするし、
波が強くてもリズムが合わなければ疲れてしまうということです」
「それはめっっっちゃ分かる」
ワニオは小さく頷き、コーヒーを一口。
「居心地の良さがある相手は、選択肢として非常に優秀です。
ただし、その関係に“ときめき”が芽生えるかどうかは別問題。
無理に恋愛に変換する必要はありません」
「なるほどねぇ……。
じゃあ、“好きかわからないけど居心地いい相手”をどう扱えばいいの?」
「三つの基準があります」
- ① 一緒にいたあと、自分が“軽くなる”か
- ② 気を使わなくても礼儀は残るか
- ③ 会わなくても相手の生活を応援できるか
「③がちょっと深いんだけど?」
「居心地の良さは、依存ではなく“並走”に近いです。
会っているときだけ楽しい、ではなく、
会っていないときの相手の生活をイメージしても、嫌な感情が湧かない。
それが本来の“心地よさ”です」
「たしかに……会ってないときにモヤモヤする相手は、疲れるよね」
ワニオは、あたしのコップの氷が溶けていくのを見て、ぽつりと言った。
「ミユさんは、普段から周囲の感情を拾いすぎるタイプですから」
「え、急に診断された!」
「いえ、観察です。
ですから“居心地の良さ”を優先する選択は、ミユさんにとってはとても合理的ですよ」
「合理的って……なんか、あんたに言われると説得力あるんだよな」
ワニオは柔らかく微笑んだ。
「誤解しないでくださいね。
恋愛をしろ、という意味ではありません。
ただ、居心地の良い相手を大切にすることは、
感情の消耗を減らすひとつの方法です」
「……なんかさ、今日のワニオ、やけに優しいんだけど?」
「いえ、事実を述べているだけです」
そのズレ具合に、あたしは思わず笑ってしまう。
こういうところ、ほんと癖になる。
「じゃあワニオは誰と居心地いいの?」ミユの逆質問
「ねぇ、ワニオはさ」
気づいたら、あたしのほうが前のめりになっていた。 こういう“核心”みたいな話題は、つい踏み込みたくなる。
「誰と一緒にいると居心地いいって思うの?」
ワニオは少しだけまばたきをして、ナプキンの端を整え直した。 何かを測るみたいな動作。いつものワニオだ。
「……そうですね。あまり考えたことはありませんでしたが」
ゆっくり言葉を選びながら、続ける。
「居心地の良さとは“安定した温度”だと先ほど説明しましたよね」
「うん」
「その意味で言うと、私がミユさんと一緒にいるときは—— 発熱も冷却も、過剰に起きません」
「……え、それ褒めてる?」
「はい。安心していれば温度は乱れませんから」
「なんだその物理の説明みたいな褒め方!」
ワニオは少し首をかしげる。 本当に自然体で言っているからタチが悪い。
「それに、ミユさんは“急に黙っても”気にしませんよね。 あれは私としては非常に助かります」
「あ〜……たしかに気にしないかも。 ワニオって、たまに急に止まるし」
「はい。情報処理が追いつかないとき、停止しますので」
「ロボットみたいな自己申告やめて?」
ふたりして笑って、グラス同士の氷が小さく当たった。
ワニオは言葉を足す。
「ミユさんといると、無理に何かを演じる必要がありません。 それは、居心地が良いと感じる理由のひとつでしょうね」
「それって……さ」
あたしは照れ隠しみたいにストローを噛んでしまう。
「じゃあ、ワニオにとって“気が合う相手”のひとりに入ってるってこと?」
ワニオは、ほんの一拍だけ考えたあと、ゆるく微笑んだ。
「はい。私の周囲では、かなり上位に位置しますよ」
「……っっなにその言い方……! いや嬉しいけど! 数値化しないでほしいっ!」
「可視化は大切ですから」
「ほんっとズレてるのに……なんでちょっと嬉しいんだろ」
自分でも分からない感情を抱えたまま、 あたしはスプーンをいじりながら、小さく息を吐いた。
居心地の良さの正体は“安心感”でもあり“自由”でもある
「ねぇワニオ、居心地いいって結局なんなの?」
気づいたら、あたしはさっきより真剣な顔をしていた。 だって“居心地の良さ”って、恋においても友情においても、 けっこう大事なやつだから。
ワニオは、テーブルの上の水滴を指で集めながら言った。
「安心感と自由、でしょうね」
「両方?」
「はい。どちらか一方だけでは成り立ちません。 安心しすぎれば依存になり、自由すぎれば孤立になります」
「……あ、なんか今の美味しい。名言っぽい」
「名言かどうかは分かりませんが、 心理的な観点から見れば一般的な話です」
「一般的って言わないでよ、今めっちゃ納得したんだから」
ワニオは首を傾け、少しだけ思案顔を見せる。
「たとえばミユさん。 誰かといるとき、“気をつかってないようで、実はずっと誰かを見ている” そんなところがあります」
「……ちょっと言い方が恥ずかしいんだけど?」
「観察なので」
「観察って便利な言い逃れだよね!?」
「でも、そういう性質の人ほど、安心できて自由でいられる時間は貴重です。 居心地の良さには“役割から解放される感覚”が必要なので」
「あ〜〜〜それ、めっちゃ分かる……。 仕事でも家でも友達でも、ちょっと“役割”ってあるじゃん? でもワニオといると、なんか自分のままでいられる気がするんだよね」
「それは、私が役割をあまり持っていないからだと思います」
「自分で言う?」
「はい。私は恋愛的役割にも、友人としての役割にも、 あまり自覚がありませんので」
ワニオは淡々と、でもどこか楽しげに言う。
「ただ、“自由であれる空気”を渡すのは得意だと思っています」
「……え、なんかそれ優しいね?」
「そうでしょうか? 自然なことですが」
この“自覚のない優しさ”。 それがあたしがワニオといると楽なの、たぶんこれだ。
「じゃあさ、居心地いい人を見つけるコツって何?」
「自分が“無理なくいられる瞬間”を観察することです。 会話が続かなくてもいい。沈黙でも落ち着ける。 『いまの自分で大丈夫だ』と思えるとき、その相手は良い相性です」
「じゃあさ……」
あたしはちょっとだけ頬をかきながら、笑った。
「今日も、居心地よかったわけだ。ワニオとご飯して」
「それは良かったです」
ワニオは本当に嬉しそうに、けど静かに言った。 その“静か”が、あたしはなんか嬉しい。
まとめ:やっぱワニオと一緒が楽なんだよなぁ
会計を済ませて外に出ると、夜風がふわっと頬に当たった。
「今日はありがとうねワニオ。 気づいたら、なんかいろいろ話してたわ」
「いえ。私は聞いていただけですが」
「その“聞いてただけ”が助かるんだってば」
ワニオは首を少しだけ傾ける。
「ミユさんは、話しながら自分の気持ちを整えるタイプですから。 私の役目は、空気を乱さないことくらいですね」
「空気を乱さないって……なにその高度なスキル」
「意識していませんが、結果的にそうなっているようです」
また出た、ワニオの“自然と合理的”シリーズ。 このズレがクセになるんだよな。
しばらく歩いてから、あたしはぽそっと呟いた。
「……やっぱ、ワニオと一緒が楽なんだよなぁ」
「それは嬉しい評価です。 私も、ミユさんとは歩きやすいですよ」
「歩きやすい……?」
「はい。会話の速度も、沈黙の温度も、ちょうど良いので」
またその温度の話。 だけど今日は、それが妙にしっくりきた。
「へへ……そっか。じゃあまた一緒にご飯行こ」
「もちろんです。 ただし、今日のように“急に誘われても問題ありませんよ”という意味で」
「うん、分かった。……でもそれ、ちょっと言い方かわいくない?」
「調整しておきます」
夜の街灯に照らされたワニオの横顔を見ながら、 あたしはなんだか不思議とあったかい気持ちになった。
恋じゃなくてもいい。 でも“安心して笑える相手”がいるって、それだけでだいぶ救われる。
——やっぱ、ワニオと一緒は楽なんだよなぁ。

