絹ヱに蝕まれる
──朝起きたら、天井に“きぬゑ”って書いてあった。
「……なんだ、ぼくが書いたのか?」
ソウタは額に汗を浮かべながら、スマホの画面を見た。履歴には『絹ヱの語源』『絹ヱのやり方』『絹ヱにされた芸能人一覧』など、身に覚えのない検索ワードがズラリと並んでいる。
「ぼく……寝てる間に調べたのかな?」
カーテンの隙間から差し込む朝日が、どこかねっとりと絡みついてくる。まるで光まで“絹化”しているような感覚だった。
その日の夕方、ミユと合流した。
「ソウタ、見た? あの“絹ヱ”の新記事……やばない? てか、もう絹ってるよね今日の天気」
「……絹ってる?」
「うん、なんかもう“空気が絹ヱ”って感じしない? わかるでしょ」
言葉の意味はわからないのに、妙に納得しかけている自分にゾッとする。
「そういえば、わたし昨日、無意識で記事書いてたんよ。“絹ヱありサインを見抜く8つの方法”ってタイトルで。意味わからんのに手が勝手に動いてた……マジで」
ソウタの手元のスマホにも、同じ記事の下書きが残っていた。
“絹ヱありサイン①:目が2秒多く合う”
“絹ヱありサイン②:会話に「ぬ」が混ざる”
“絹ヱありサイン③:黒い布を持ち歩く”
ふざけてるようでいて、どこかロジカル。だからこそ気味が悪い。
ふたりの会話は、気がつけば「絹ヱ」を主語にしていた。
「それ、絹ヱ的だね」
「今日、なんか“絹ヱ顔”してるじゃん」
「最近、“絹ヱの声”ってこういうのだよね〜って思う」
何が“絹ヱ”なのか、自分でも説明できないのに、なぜか通じてしまう。言葉が、概念が、脳に棲みついている。
──そして、ソウタは夢の中でヒトエに会った。
白い部屋、逆さまに吊るされた天井のシルエット。
ヒトエは、口を開かずに「たすけて」と言った。
その声だけが、ソウタの心にまっすぐ響いていた。
モメンからの接触
その日の夜、ソウタのスマホに一通のメッセージが届いた。
「“絹ヱ”を追っていると聞きました。お話できますか?」
送り主の名前は──佐久間光晴。
見覚えのない名だったが、ミユと相談し、翌日ふたりで会ってみることにした。
駅近くの喫茶店。流れるBGMは懐かしいジャズ。店内の片隅で、ひとりの男が静かに手を上げた。
「……佐久間です。今日はありがとう」
整った顔立ちに、どこか影のある目元。年齢は三十代後半くらいだろうか。
「あの……失礼ですが、なぜ僕たちに連絡を?」
「ああ、たぶん──“モメン”と名乗った方が、早いかな」
その名前を聞いた瞬間、ソウタとミユの表情が一変した。
「モメン!?あの“こいおと”の!?……まさか!」
「あの毒舌コラムの“シルクちゃん”と並ぶ人気ライターの……モメンさん!?」
佐久間は少しだけ目を細めて笑った。
「懐かしい名前だな。あの頃は、僕が“モメン”で、彼女が“シルクちゃん”。毒と柔らかさ、両極端だった」
「僕は、誰かを傷つけたくなくて、いつも回りくどい言葉ばかり選んでた。彼女はその逆だったよ」
「ピンヒールみたいな言葉で、ズバッと本音を突く。でも、不思議と読む人に刺さるんだ。……怖いくらいにね」
彼は、指先でカップの縁をなぞる。
「最近、“シルクちゃんのデスラブ日和”って呪いのサイトの噂を聞いた。シルクちゃんという名前を聞いて黙っていられなかった」
ソウタが静かに口を開く。
「そのサイト、僕らも見ました。怖い記事ばかりでした……異様なまでに不条理で恨みに満ちていて」
「あのシルクちゃんが新しい方向性の記事を書いているのかと思いました」
「でも、ヒトエさんが言ってたんです。“シルクちゃんは亡くなった”って」
──一瞬、場の空気が止まった。
「……なんだって?」
佐久間の顔が、ゆっくりと動きを止める。
「ヒトエさんが……そう言ってただって?」
「ええ……“もう会えない”って。シルクちゃんはもう死んでるって」
佐久間の声が、冷たく低くなる。
「ソウタくん、それはおかしい」
「おかしい……?」
「だって、“シルクちゃん”は、彼女──ヒトエが使っていたペンネームなんだから」
ミユが目を見開く。
「じゃあ……ヒトエさんが“亡くなったシルクちゃんの話”をしてたのは……」
「そんなの、ありえないだろう」
佐久間はゆっくり、言葉を区切った。
「ヒトエは……もうこの世にはいない」
「3年前。酒に酔ったヒトエは、ふらついた足で階段を踏み外した」
「首の骨を折って、そのまま……」
「遺体に対面したし、葬儀にも参列した」
「彼女がこの世界に生きている可能性は──ゼロだ」
ソウタの喉が、ひとつ鳴った。
「じゃあ……僕たちが会ったあの“ヒトエさん”って……一体……?」
答えは、どこからも返ってこなかった。
ただ、店内に響くジャズのメロディが、どこかゆがんで聞こえた。
──笑っていた。お菓子を食べながら、「呪いのサイト一緒に調べてくれてありがとう」と言っていた。
その静かな微笑みは、人のものだったか?
それとも、何か別の存在だったのか。
死後に綴られる原稿
「つまり……」
ミユが、か細い声でつぶやく。
「ヒトエさんは……もうこの世にいないってこと?」
「ああ」
モメンは静かに頷いた。
「三年前だ。酒に酔って階段から落ちて、そのまま──。新聞にも出たはずだよ。彼女、最後の頃は荒れてたから」
ソウタが動きを止めたまま、ぽつりと言った。
「でも、ぼくら……ヒトエさんに会ってるんです」
「あたしも。話したし、ごはんも一緒に食べたし……」
ミユも言葉を重ねる。
「“デスラブ日和”を調べてくれって、そう頼まれたの」
モメンがゆっくりと首を傾げる。
「そのヒトエ、今どこにいる?」
二人は言葉を失った。
──あの日以来、ヒトエとは一度も連絡が取れていない。
モメンはふとスマホを取り出し、画面を彼らに見せた。
表示されていたのは、例のサイト。
『シルクちゃんのデスラブ日和』──例の呪われた記事群。
「見てくれ。これ、昨夜アップされた記事だ」
ミユの眉がピクリと動く。
「うちらも毎晩チェックしてます。いつの間にか……日課になっちゃってて」
「でしょ? おかしいと思わないか」
モメンは画面をなぞりながら、低い声で続けた。
「この文体。言葉の選び方、句読点の打ち方。毒舌のテンポ感……これは、ヒトエ──いや、“シルクちゃん”の書き方そのものだ」
沈黙。
だが彼はさらに言った。
「ただ、なにかが違う。記事の中に漂う妙な圧──禍々しさっていうか……これは、あいつが生きてた頃の毒舌とは、明らかに違う」
ソウタが口を開く。
「じゃあ……これは誰が書いてるんですか? 誰かが、シルクちゃんを模倣して?」
モメンは表情を変えず、ぽつりと。
「それが完璧すぎるんだ。どのクセも再現されてる。まるで本人が書いてるみたいに」
ミユが息を呑んだ。
「……ヒトエさんの幽霊が、ってこと……?」
「冗談みたいだけど、あり得なくもないだろ」
モメンの声が冷たく響いた。
その時、ソウタのスマホが震える。
──『絹ヱの恋愛診断:あなたの中に、“彼女”はいますか?』
通知の文字が、妙に艶やかに光っていた。
誰かが、絹ヱになろうとしている
「……“彼女”って、絹ヱのことなのかな」
ソウタのつぶやきに、ミユも顔をこわばらせる。
「絹ヱって、人の名前?このサイトの運営者?」
スマホの画面には、まだ診断の一部が残っている。
「まもなくソウタ“絹ヱ”完了予定」
「今週中にミユ“絹ヱ”完成予定」
「なり損ねた方は、逆さまに壊れる」
読めば読むほど、意味がわからない。だが、ぞっとする。
「ねぇ……これって、どちらかが“絹ヱ”になるって意味じゃない?」
「そして、どちらかは……“逆さまに壊れる”?」
ミユの声はかすかに震えていた。ソウタもまた、口を開けたまま言葉を探していた。
「このままだと……やばいかも。ほんとに、どっちかが死ぬ……」
「絹ヱになるっていうのも怖いよ」
「でも、どうしたらいいの……?」
静まり返る小屋の中。唯一、時計の秒針だけが不気味なリズムで刻まれていた。
そんな沈黙を破るように、モメンが口を開いた。
「……彼女が最後に使ってた場所がある」
「ライター時代、執筆に使ってたレンタルオフィスだよ。編集部とは別に、ひとりで集中するために借りてたって聞いた」
「まだ残ってるかはわからない。でも……何か、手がかりがあるかもしれない」
外では、誰もいないのに風鈴が鳴っていた。
─つづく