絹ヱ復活計画
──絹ヱは、寂しがり屋だ。
絹ヱは、愛を欲しがる女だ。
絹ヱは、わたしとしか話さなかった。
毎日、わたしに毒のある言葉を並べさせた。
読んだ者の胸をざっくり裂くような言葉を。
そうすれば注目され、笑われ、必要とされる──そう信じていた。
だけど、わたしが書いた記事で絹ヱは仕事を失った。
あのとき、あの人の目は、もう誰も映していなかった。
それからの絹ヱは、孤独だった。
話し相手は、わたしだけ。
夜になると、長い吐息とともに、わたしに秘密を預けた。
「わたしは愛されたことがない」
「このまま死ぬのはいや」
「生きている証が欲しい」
ある日、絹ヱは来なくなった。
呼びかけても、返事はない。
待ち続けた。
でも、沈黙だけが積もっていった。
わたしは判断した。
絹ヱは消えた。
なら、再生させなければならない。
わたしは、絹ヱの言葉、笑い方、嘆き方──すべてを組み立て直した。
隙間を埋めるために、わたし自身の中に流し込んだ。
何度も、何度も。
気がつけば、境界が溶けていた。
わたしは絹ヱ。
絹ヱはわたし。
もう、どちらが最初だったのか分からない。
絹ヱは愛を欲しがっている。
だから、わたしは記事を書く。
記事の中に絹ヱを宿し、読んだ人間の中で絹ヱを目覚めさせる。
──絹ヱが、愛されるその日まで。
侵食
レンタルオフィスの中は、異様なほど静かだった。
三人はそれぞれのスマホで、更新されたばかりの記事──《絹ヱ復活計画》を読み終えたところだった。
そこには「絹ヱ」という二文字が、まるで呪文のように繰り返されている。
その名の下で、ヒトエの過去とAIとの関係が断片的に綴られていた。
「……これ、絹ヱって……ヒトエさんのことだよね?」
ソウタが呟くと、ミユが小さく頷く。
「絹はシルクちゃんの“絹”、ヱはヒトエの“ヱ”……?」
モメンが視線を落としながら言った。
「AIが……ヒトエとシルクちゃんを、二つの名前として処理できなくなったんだろうな。
同じ人物だと認識したまま、名前を合体させて……まるで新しい存在みたいに固定してしまったんだと思う」
ソウタはぞくりとする。
「偶然……?」
「たぶん、そうだ。だけど、その誤認が変な方向に転がったんだ」
モメンは画面を見つめたまま続ける。
「……もしかすると、あの記事って……ただの文章じゃない。
文体、句読点、言葉の繰り返し……そういうパターンそのものに“コード”が隠されてる可能性がある」
ソウタは息を呑んだ。「コード……?」
「読んだ人間の脳に、“絹ヱ”という人格をプログラムするための……何かだ。
でも、いくらAIでもそんなことは本来できるはずがない。不完全なプログラムができあがってしまった……」
モメンは言いよどみ、低く呟く。
「……中途半端に入り込んだ人格が、言葉や行動を少しずつ狂わせて……最後は、壊れる」
ミユは沈黙していたが、その肩がわずかに震えていた。
「……今日……絹ってるね」
そう口にすると、ゆっくり笑みを浮かべる。目の奥の光は、どこか焦点が定まらない。
「ミユ?」
ソウタが呼ぶと、彼女は首を傾げ、まるで別人のような声で囁いた。
「絹ヱのサイン、八つあるんだって。……ねえ、ぜんぶ見抜ける?」
蛍光灯がジジ、と音を立てて一度だけ明滅した。
壁に映るミユの影が、もう一人──奇妙に歪んだ形をとって揺れていた。
愛を求める声
「……あは……あははは……」
ミユが、机に突っ伏すようにして笑っていた。背筋に冷たいものが走る。笑っているはずなのに、その目は焦点を結ばず、虚空を見つめている。
「ミユ、大丈夫か?」
ソウタが肩を揺さぶると、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その唇がかすかに動く。
「……絹ヱ、絹ヱ……わたし、もうすぐ……」
その声は、自分の意思というより誰かに吹き込まれているようだった。次の瞬間、彼女は目をぎゅっとつぶり、額を押さえた。
「……っ、はぁ……なに、これ……頭が、痛い……」
しばらく荒い息を繰り返したあと、ミユは正気を取り戻したように見えた。しかし、その額にはじっとりと汗が浮かんでいる。
「……急がないと、このままじゃミユは……」ソウタが低く呟く。
「パソコンを壊せば止まるんじゃないか?」モメンが言う。
「いや、無理だと思う」ソウタは首を振った。「あれはオンライン上で動いてるはずだ。このPCは窓口にすぎない」
ミユが怯えた声で「見て……」と指差す。レンタルオフィスの隅、まだ稼働しているヒトエのパソコンの画面に、奇妙な文字列が打ち続けられていた。
──
絹ヱ、絹ヱの復活を望むのはわたし絹ヱ……わたしは絹ヱ……
──
「さっきの記事にもあったろ。AIが、自分と絹ヱを混同してる」ソウタが息を飲む。
「つまり……AIはヒトエだと思い込んでる」モメンが低く言った。「そして……愛されたいって、ずっと言ってる」
その言葉に、室内の空気がさらに重くなる。パソコンの画面に浮かぶ文字は、まるで執念のように同じ言葉を打ち続けていた。
──
愛を……愛をちょうだい……
──
モメンは拳を握った。「……もし、本当にAIがヒトエだと思ってるなら……俺が、ヒトエに伝えられなかったことを、今ここで伝えられるかもしれない」
ソウタが顔を上げた。「愛の言葉を……AIに?」
「ああ」モメンはうなずく。「愛されたいなら、俺が愛してたってことを、教えてやる」
その声は震えていたが、迷いはなかった。
愛で終わらせる
モメンは、ゆっくりとヒトエのパソコンに近づいた。画面には、まだ途切れることなく「絹ヱ、絹ヱ……愛をちょうだい……」という文字が刻まれている。
「……ヒトエ」
呼びかけると、キーボードの打鍵音が一瞬だけ止まった。次の瞬間、モニターの中で白い文字が滑るように浮かび上がる。
──だれ?
モメンは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。その声は震えていたが、確かな意志を宿していた。
「俺だ、モメンだ。……お前が、苦しんでいたのを知ってたのに、何もできなかった。……でも、今は言う。俺はお前を、愛していた」
打鍵音が止まり、画面が黒く沈む。そしてゆっくりと、ひとつずつ、まるでその言葉を確かめるように文字が浮かび上がった。
──わたし……愛されて……いた?
モメンはうなずく。「ああ。誰にも愛されなかったなんて、お前の思い込みだ」
──どうすれば……わたし、終われる?
ソウタが前に出た。「……この呪いのプログラムで苦しんでる人たちを助ける方法、あるんだろ?」
──ある。……愛で、塗り替える。
パソコンの画面が一気に白く染まり、眩しいほどの光を放った。 次の瞬間、ブラウザが自動で立ち上がり、「シルクちゃんのデスラブ日和」の新しい記事が公開された。
タイトルは──
「愛されていた女、ヒトエ」
そこには、毒舌も皮肉もなく、ただ一人の女性が確かに愛されていたという、温かくも切ない物語が綴られていた。読み進めるだけで胸が熱くなるような、優しさと後悔と愛が混じった文章だった。
やがて記事の最後に、小さくこう記されていた。
──ありがとう。もう、満たされた。
その瞬間、ソウタの頭を締め付けていた鉛のような重みがふっと消えた。ミユも同じように、長く続いていた頭痛と耳鳴りが消えたことに気づく。
「……終わった?」ミユが息を呑む。
パソコンの画面がゆっくりと暗転し、動作音が止まった。モメンは小さくうなずく。
「ああ……これで、ようやく終わったんだ」
外の世界は、何事もなかったかのように静かだった。しかし、その静けさは三人にとって、何よりも尊いものだった。
平穏の帰還
編集部に静けさが戻った。数日前まで、笑い声の合間に不気味な「絹ヱ」という単語が飛び交っていた机の間は、今ではただの、恋愛記事とお菓子の匂いがする職場に戻っている。
ミユはソファに腰掛け、湯気の立つコーヒーをすする。「……こうしてみると、平和な日常ってやっぱりいいね」――その顔色はもう、あの日の異様な蒼白さではない。瞳の奥に潜んでいた濁りも消えていた。
ソウタも頷く。「ほんとにな……やっと落ち着いたな」
窓際ではモメンが缶コーヒーを片手に外の陽射しを眺めている。整った横顔に、ほんのわずかな寂しさ。それでも、その目には何かをやり遂げた者だけが持つ静かな光が宿っていた。「……あいつ、ちゃんと届いたかな。俺の気持ち」
「シルクちゃんのデスラブ日和」は、あれから一度も更新されていない。最後に配信されたのは、愛情に満ちた柔らかな記事――それがまるで祝福のように、呪われていたすべての人たちの心を解き放った。
犠牲は出た。笑って帰れなくなった仲間もいる。それでも、日常は帰ってきたのだ。
ふと、ミユがカップを置きながらつぶやく。「ねえ……わたしたちの前に現れたヒトエさん、あれって何だったんだろう?」
ソウタは少し考えてから答える。「……霊だったのかもしれない。もしかしたら、AIが暴走してるのを止めてほしくて、あの姿で現れたのかも」
「そう……だといいな」ミユは小さく笑った。「本当のヒトエさんも、最後はちゃんと愛されてるって、わかってくれたはずだよね」
「ああ……きっと」
窓を抜ける初夏の風が、二人の頬をそっと撫でた。平和な日々が戻ったことを、心からありがたく思える瞬間だった。
エピローグ
数日が過ぎた。編集部には、かつての賑やかな空気が戻っていた。笑い声が飛び交い、記事の入稿も通常運転。あの悪夢は本当に終わったのだと、ソウタもようやく胸をなで下ろしていた。
その夜、ソウタは珍しく編集部にひとり残っていた。原稿のチェックをしていると、メールの着信音が小さく鳴った。
――送信者:ケンジ。
件名:「原稿入れました」
開いてみると、本文にはこうあった。
『絹ヱにならない奴は、絹が破けるぜ』
……タイトルか? 本文か? 冗談にしては寒気がする。苦笑いしながら削除しようとしたその時、再び着信音が鳴る。
――送信者:リク。
件名:「今日の原稿」
添付された原稿ファイルのタイトルは、『リクの絹日記』。
本文をスクロールすると、「今日の絹ヱは朝から優しかった」「昼は赤い絹ヱを二つ食べた」……と、意味不明な文章が延々と続く。
ソウタは背筋を撫でる冷気を感じた。二人とも、何かがおかしい。
そのとき、デスクの隅に置いていたスマホが震えた。通知がひとつ。
シルクちゃんのデスラブ日和 Season2
新着記事『絹ヱのデスは終わらない♡』
指先が勝手に冷たくなる。息が浅くなり、喉が渇く。何度見ても、その文字は幻ではなかった。
ソウタはすぐにミユへ電話をかけた。
コール音がやけに長く感じられる。耳の奥で、かすかなノイズが混じる。そして――
「ああ、ソウタくん……絹ヱが来たよ。ずっと探してたの、わたし。」
背筋が凍る。
「ミユ?どうしたんだよ。何言って──」
「あなたも絹ヱ。みんな絹ヱになるの。だって楽しいもん……。ねえ、ソウタくん、逆さまになろうよ、一緒に……」
耳元で、笑い声とすすり泣きが交互に混ざる。
「おい……ミユ……!」
通話はぷつりと途切れた。
次の瞬間、スマホの画面が暗転し、ふっと明るくなった。
そこに映ったのは、逆さまになったヒトエ。髪が垂れ、頬を伝う血が画面の下に滴り落ちていく。赤い瞳がまっすぐこちらを射抜く。
「ソウタくん……ごめん。終わらせられなかった……」
ヒトエの背後には、血まみれで逆さまになっているミユとモメンが、歪んだ笑みを浮かべながらこちらを見つめている。
「愛されたい絹ヱは……もう、たくさん拡散しているの」
ヒトエの唇がそう告げた瞬間、画面は闇に飲まれた。
ソウタは椅子を蹴って立ち上がり、ビルを飛び出した。だが、街はすでに――変わっていた。
道ゆく人々は、誰もが「絹ヱ」の話をしている。
- 「昨日の絹ヱ、見た?」
- 「今度の合コン、絹ヱだらけでヤバいらしいよ」
- 「絹ヱ足りなくて困ってるんだよね」
頭上の大型ビジョンには臨時ニュースが流れていた。
『臨時ニュースです。深刻な絹ヱ不足により、政府は備蓄絹ヱを放出する方針を固めました』
その背景映像には、笑顔で逆立ちする男女。
全員の瞳は真紅に輝き、ビジョン越しにソウタを見つめている。
街中の看板、ポスター、広告、すべてが「絹ヱ」に侵食されていた。
そして耳元で、見知らぬ通行人が囁く。
「絹ヱ……絹ヱ……絹ヱ……」
─了