夜の編集部、ひとりのミカコ
編集部の照明は半分だけ落としてあった。
明るすぎる光は、思考の輪郭まで暴いてしまう。ミカコはそういうのが好きじゃない。
コーヒーは冷めている。けれど温め直す気にはならなかった。
冷めたものを、冷めたまま飲むほうが性に合っている。
ノートパソコンの画面には、書きかけの原稿が開いたままになっている。
タイトル案は三つ。どれも悪くない。どれも決め手がない。
ミカコはマウスを動かし、カーソルを行ったり来たりさせた。
文章の中に、感情が入る余地がないか探している。探しているのに、入れたくない。
窓の外では、街が静かに呼吸していた。車の音は遠く、信号の変わる音も聞こえない。
冬に入る直前の夜は、なぜか空気が薄い。
ふと、スマホが机の上で震えた。
通知ではない。アラームでもない。
ただのバイブレーションみたいに、一度だけ短く。
ミカコは画面を見ないまま、スマホを裏返した。
見なくてもわかる。大した用事じゃない。きっと。
恋愛って、こういうところが面倒だ。
用事がないのに、心だけが勝手に反応する。
ミカコは息を吐いた。
「……残業、向いてないわ」
声に出してみると、少しだけ現実味が増す。
それは誰に言うでもなく、部屋に置き去りの言葉だった。
そのとき。
廊下の奥、コピー機のあたりから、
かすかな足音がした。
ミカコは顔を上げる。
この時間に残っている編集部員はいないはずだ。鍵も閉めた。はず。
足音は、まっすぐこちらに近づいてくる。
ミカコは立ち上がらない。
怖いからじゃない。
この手の“面倒”に、いちいち反応したくないからだ。
足音が止まる。
次の瞬間、編集部のガラス扉の向こうに、誰かの影が映った。
背格好は自分に似ている。
髪の長さも、シルエットも。
ミカコは、思った。
……いや、違う。似てるんじゃない。
あれは、わたしだ。
扉が、静かに開いた。
扉の向こうのわたし
扉が閉まる音は、やけに軽かった。
まるで空気が一枚増えただけみたいに。
立っていたのは、ミカコだった。
正確には、いまより少し若いミカコ。
髪は今より長く、少しだけ巻いている。
ジャケットではなく、柔らかいニットを着ている。
目元が、いまより素直だ。
「……なにこれ」
現在のミカコは椅子に座ったまま言う。
「コスプレ? 悪趣味ね」
若いミカコは、首を傾げる。
「相変わらずね」
その声は、記憶の中の自分の声と同じだった。
「説明してくれる?」
「説明、いる?」
若いミカコは机の上の冷めたコーヒーを見る。
「昔は、冷める前に飲んでたのに」
現在のミカコは眉をひそめる。
「仕事中よ。感傷に浸ってる暇ないの」
「ほんとに?」
その問いは、やけに静かだった。
若いミカコは編集部を見渡す。
整然と並んだデスク、整理された資料、感情の入り込む余地のない空間。
「ちゃんと成功してるじゃん」
「まあね」
「恋は?」
空気がわずかに止まる。
現在のミカコは、視線を外さない。
「必要ない」
即答だった。
若いミカコは、少し笑う。
「あのときは、違った」
「あのときって?」
「駅のホームで、泣きそうになってた夜」
現在のミカコの指先が、わずかに動く。
「……覚えてないわ」
「覚えてるくせに」
若いミカコは机に近づく。
その足音は軽く、でも確実に存在している。
「好きだったでしょ」
現在のミカコは、しばらく何も言わない。
時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
「合理的じゃなかった」
やっと出た言葉は、それだった。
「仕事も不安定だったし、将来も見えなかったし。あの人は優しかったけど、優しいだけじゃ続かない」
若いミカコは黙る。
それから、静かに言う。
「怖かっただけじゃない?」
その言葉は、責めていない。
ただ事実を置いただけの声だった。
現在のミカコは笑う。
「分析なら、わたしのほうが上よ」
「うん。でも、本音は?」
編集部の空気が、少しだけ薄くなる。
若いミカコはまっすぐ見つめる。
逃げられない視線だった。

選ばなかった未来
若いミカコが、窓のほうへ歩いていく。
「見てみる?」
「なにを」
「選ばなかったほう」
現在のミカコは答えない。
でも否定もしない。
窓の外の夜景が、ゆっくりと滲む。
光が歪み、重なり、形を変える。
次の瞬間、そこには別の部屋が映っていた。
小さなリビング。
観葉植物が窓際に置いてある。
ソファは少しくたびれている。
キッチンから、湯気が立ちのぼる。
そこにいるのは、少しだけ柔らかい顔をしたミカコだった。
いまよりも表情が丸い。
疲れているけれど、どこか安心している顔。
背後から、男の声がする。
「もうすぐできるよ」
その声を、現在のミカコは知っている。
駅のホームで、背中を向けた声だ。
映像の中のミカコが、笑う。
その笑いは、いまより少し遅い。少しだけ余白がある。
テーブルの上には、二人分の皿。
派手じゃない。裕福でもない。
でも、静かな温度がある。
若いミカコが言う。
「悪くないでしょ」
現在のミカコは、じっと見つめる。
胸が痛むわけじゃない。
後悔で崩れるわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ、呼吸が浅くなる。
「……幸せかどうかは、わからないわね」
「うん」
若いミカコはうなずく。
「でも、不幸でもない」
映像が揺れる。
別の場面が重なる。
雨の日のベランダ。
洗濯物を取り込むふたり。
小さな口論。
仲直りの、短い沈黙。
完璧じゃない未来。
でも、続いている未来。
現在のミカコは目を閉じる。
「それでも」
ゆっくりと言う。
「わたしは、こっちを選んだ」
窓の映像が静かに消える。
夜の街が戻る。
若いミカコが振り向く。
「後悔してる?」
現在のミカコは、少しだけ間を置いて答える。
「……してない」
そして、ほんのわずかに付け足す。
「でも、忘れてもいない」
それでも、わたしはわたしを選ぶ
若いミカコは、少しだけ微笑んだ。
「ちゃんと覚えてるなら、それでいいと思う」
現在のミカコは何も言わない。
感情を整理する必要はない。
正解を出す場面でもない。
若いミカコは、デスクの端に置かれたスマホを指さす。
「まだ、残ってるよ」
現在のミカコは視線を落とす。
メッセージアプリの下書きフォルダ。
何年も前の日付。
あのとき、ちゃんと好きだったよ。
送信されなかった一文。
消すことも、送ることもできなかった言葉。
若いミカコが言う。
「あの夜、怖かったんだよね」
現在のミカコは、少しだけ笑う。
「怖いものは、いまでも嫌いよ」
「でも逃げないようになった」
若いミカコはうなずく。
「それでいいんじゃない?」
その声は、もう責めていなかった。
確認でも、問いでもない。
ただ、同じ人間としての納得だった。
部屋の空気が、ほんの少し軽くなる。
若いミカコの輪郭が、ゆっくりと薄れていく。
「ねえ」
現在のミカコが呼ぶ。
「なに」
「ちゃんと、幸せになってた?」
若いミカコは、少し考える。
それから、肩をすくめる。
「それなりに」
その答えは、完璧じゃない。
でも十分だった。
次の瞬間、編集部にはひとりのミカコだけが残っていた。
時計はいつも通りに進んでいる。
冷めたコーヒーも、原稿も、そのままだ。
ミカコはスマホを手に取る。
下書きのメッセージを、もう一度読む。
そして、そっと削除する。
送らないことも、選択だ。
消えた文字の代わりに、胸の奥に小さな余白が残る。
それは後悔ではない。
忘却でもない。
ただ、自分の歴史の一部だ。
ミカコは深く息を吸う。
「……さて」
パソコンに向き直る。
カーソルが、静かに点滅している。
恋を選ばなかった夜も、
仕事を選び続けた夜も、
どちらも間違いではない。
わたしは、わたしを選んだ。
それでいい。

