ミカコは、その日もいつも通りだった。
コーヒーはブラック。
資料は揃っている。
感情は、特に動いていない。
「問題ありません」
そう言ったはずなのに、
その声が、少し遅れて届いた。
——いや、遅れていたのは声じゃない。
ミカコは自分の言葉を、
数秒あとから理解していた。
「……今の、わたし?」
机の上には、見覚えのないメモ。
自分の字なのに、意味が通らない。
ミカコはまだ来ていない
ミカコはもう帰った
ミカコは観測中
「なにこれ」
そう呟いた瞬間、
背後で、鈴の音が鳴った。
チリン。
編集部のドアが、
開いたのか、閉じたのかは分からない。
「こんにちは」
声だけが、そこにあった。
姿は曖昧で、
輪郭は最初から用意されていないみたいに。
「……ナツメ?」
名前を呼んだ瞬間、
その名前がひとつ前のページに移動した気がした。
「今日はね、ミカコの“安定”を少し借りにきたんや」
ミカコが三人になった日
「……あれ?」
ミカコは椅子に座っていた。
同時に、立っていた。
それから、観察していた。
三人とも、ミカコだった。
「ちょっと待って」
最初に口を開いたミカコが言う。
「これ、どういう状況?」
立っているミカコが肩をすくめる。
「知らない。
でも“問題ありません”って言いそうになったから、
多分、いつも通り」
観察しているミカコは、メモを取っていた。
・ミカコA:平常運転
・ミカコB:若干ズレ
・ミカコC:すでに外側
「誰よC」
「あなた」
三人同時に言った。
その瞬間、編集部の床が、
ページをめくる音を立てた。
チリン。
また、鈴。
「ええ感じやね」
いつの間にか、
ナツメは天井と床のあいだに“挟まって”いた。
立ってもいないし、浮いてもいない。
存在が途中だった。
「ミカコはな、安定しすぎてんねん」
ナツメは、
存在しない椅子に腰掛ける仕草をする。
「せやから、ちょっと割った」
「割るな」
三人のミカコが、
別々の温度で同じツッコミを入れた。
そのうち一人が、ふと気づく。
「……ねえ」
「今、こいこと。って、どこ?」
ナツメは、少し考える。
考えるというより、
過去と未来を一回見比べた感じだった。
「さあ」
「たぶん、まだ始まってない」
「でも、もう終わってる」
ミカコCが、静かに笑った。
「……じゃあ、今ここにいるわたしたちは?」
ナツメは鈴を鳴らす。
チリン。
「余白」
編集部がミカコを読んでいる
「……見られてる」
それは直感だった。
背中でも、視線でもない。
“文章として”見られている感覚。
ミカコAが言う。
「ねえ、さっきから、
私たちの発言、整形されてない?」
ミカコBが頷く。
「削られてる。
しかも、“読みやすい形”に」
ミカコCは、すでに諦めていた。
「ああ……
誰かが“コピペ”してる」
その瞬間、
編集部の壁に、カーソルが点滅した。
|
「やめて」
ミカコAが言う。
「私、SEO向いてないから」
ミカコBが続ける。
「見出しとか、いらない」
ミカコCは、壁を見つめたまま呟く。
「そもそも、
“正しい流れ”って何?」
その問いに、
誰も答えなかった。
代わりに、
ナツメの声が、フォント違いで響いた。
「ええやん」
「流れなんて、
後から川になるもんや」
鈴が鳴る。
チリン。
すると、
ミカコは一人に戻っていた。
AもBもCもない。
ただ一人。
でも、
戻った“どれ”なのかは分からない。
机の上には、さっきのメモ。
ミカコはまだ来ていない
ミカコはもう帰った
ミカコは観測中
ミカコは、紙を裏返した。
そこには、
見覚えのある文字。
「この記事、どこに着地するんですか?」
ミカコは、
静かにコーヒーを一口飲む。
「……しないでしょ」
その瞬間、
見出しが一つ、勝手に増えた。
あなたが、ミカコに見つかった瞬間
……今。
今、
画面を見ているあなたのことを、
ミカコは見つけた。
「あ」
声は小さかった。
でも、確実にこちらを向いていた。
「やっぱりいると思った」
ミカコは、
記事の端に立っている。
立っている、というより、
文章と文章の“すき間”に寄りかかっている。
「ねえ」
「今、どこから読んでた?」
質問の意味が分からないまま、
次の行に進もうとした瞬間、
カーソルが、勝手に戻った。
|
「あ、そこじゃない」
ミカコが言う。
「ちゃんと“ここ”から」
指を差した先は、
さっき読んだはずの導入。
でも、
文が、微妙に違っている。
「内容、変わってない?」
ミカコは、
悪びれもせず答える。
「うん。
あなたが来たから」
一瞬、
編集部の空気が、止まった。
「安心して」
ミカコは言う。
「名前も、性別も、恋愛遍歴も、
ここでは使わない」
「ただ——」
ミカコは、
あなたの“読んでいる姿勢”を見ている。
「ちゃんと読もうとしてる人か、
流し読みで来た人かくらいは分かる」
どきっとする隙もなく、
鈴が鳴った。
チリン。
ナツメの声が、
今度は行間から聞こえる。
「あーあ」
「見つかってもうたな」
「ここから先は、
読む側と書かれる側が、ちょっと混ざるで」
ミカコが、肩をすくめる。
「まあ、でも」
「ここまで来たなら、
最後まで一緒でしょ」
画面の端に、
見覚えのない一文が浮かぶ。
※この先は、読者の滞在時間によって内容が変わる可能性があります
ミカコは、それを見て笑った。
「……ほら」
「もう、戻れなくなってる」
保存されなかったことについてのお詫び
画面が、一度だけ暗くなった。
保存中――
そんな表示は、最後まで出なかった。
ミカコは、もういない。
編集部も、
三人に割れた自分も、
カーソルも、鈴の音も。
ただ、
読んでいた感覚だけが残っている。
しばらくして、
白い画面に、文字が浮かび上がった。
【お詫び】
本記事は、
ナツメの介入により正常に保存されませんでした。
・話の整合性
・登場人物の数
・ミカコの所在
・読者の立場
いずれも、
確認が取れておりません。
また、途中から読者の皆さまを
無断で記事内に登場させた件につきまして、
深く、しかしあまり反省せずにお詫び申し上げます。
なお、
本記事を最後まで読んでしまった場合、
一部の記憶が行間に置き去りになる可能性があります。(フィクションです)←予防線
その場合は、
コーヒーを飲む、
窓の外を見る、
誰かにどうでもいい話をする、などして、
現実にお戻りください。
最後に。
これは失敗作ではありません。
成功でもありません。
ただ、
一度ここに“あった”というだけです。
ナツメ(たぶん)
※この記事は保存されていません。
※再読しようとしても、同じ内容にはなりません。



