恋は、理屈じゃなく温度で覚える──ミカコとソウタの居酒屋夜話

仕事帰りの夜。 静かな路地裏にある小さな居酒屋の暖簾をくぐると、 カウンター席の奥で手を振るソウタがいた。

「たまには飲みましょうよ」──そのひとことに、ミカコは少しだけ驚いた。 こいこと。のライター同士とはいえ、ソウタと二人きりで飲むのは初めてだ。

店内は落ち着いた雰囲気で、焼き魚の香ばしい匂いと、 小さく流れる昭和歌謡が心地よく混ざっている。

目次

たまには飲みながら、恋の話でも。

ミカコ:珍しいね、あんたのほうから誘うなんて。
ソウタ:なんか、空気が“飲め”って言ってたんですよね。
ミカコ:空気のせいにすんな(笑)。

ミカコは日本酒をひと口。 ソウタはグレープフルーツサワーを両手で持ち、ふわっと笑う。

ソウタ:ミカコさんって、飲むと変わります?
ミカコ:変わんないよ。仕事の話しない限りは。
ソウタ:じゃあ今日は仕事抜きで。恋の話、しません?
ミカコ:……は? 何そのテーマ。
ソウタ:なんか、恋って理屈で説明できないものばっかりだから。
 “論理派”のミカコさんがどう考えるのか気になって。
ミカコ:論理派って……。
 あんたみたいな感覚人間に言われると、すごい皮肉に聞こえるわ。

ソウタはそれでもにこにこしている。 人を責めるでもなく、ただ“そういう世界もあるんだな”という顔をしている。

ミカコ:恋なんて、考える前に始まって、気づいたら終わってるもんでしょ。
ソウタ:あ、それ、詩みたい。
ミカコ:いや、現実の話。

グラスの中の氷がカランと鳴った。 小さな音が、夜の静けさをやわらかく揺らす。

恋を考える人、感じる人

ミカコ:あたしはね、恋って基本的に“めんどくさい”と思ってるタイプ。
ソウタ:あぁ、わかる気がします。
ミカコ:え、意外。あんたそういうの好きそうじゃん。
ソウタ:好きですよ。でも、めんどくさいのも好きなんです。
ミカコ:めんどくさいのが好き? 理解不能だわ。

ミカコは箸で焼き魚を軽くほぐしながら、呆れたように笑う。 ソウタは相変わらず穏やかな笑みを崩さない。

ソウタ:なんて言うか……。
 人の心が動く瞬間って、めんどくさいくらいがちょうどいいんですよね。
ミカコ:名言っぽく聞こえるけど、酔ってる?
ソウタ:ちょっとだけ。あと、たぶん恋って、考えてもうまくいかないです。
ミカコ:それは同意。考えても無駄。
ソウタ:でも、考えたくなるじゃないですか。
ミカコ:……それも、同意。

二人のグラスが、ゆっくりとぶつかる。 軽い音が夜の空気に吸い込まれていく。

ミカコ:あたし、昔から“この人いいな”って思っても、
 次の瞬間に“いや、ないな”って冷静になるんだよね。
ソウタ:スイッチが速い。
ミカコ:そう、瞬間冷凍。
ソウタ:それでも“いいな”って感じること自体は、大事だと思います。
ミカコ:どういう意味?
ソウタ:“感じる”っていうのは、もうそれだけで恋の原型です。
ミカコ:……原型?
ソウタ:完成しないまま終わる恋も、ちゃんと恋なんですよ。
ミカコ:ふーん。感覚派らしい理屈だね。
ソウタ:理屈ですか?
ミカコ:うん。あんた、意外と理屈っぽいよ。
ソウタ:それは、恋を説明できない人が、恋を説明しようとしてるだけです。

ミカコは思わず吹き出した。 その笑顔を見て、ソウタもつられて笑う。

ミカコ:あんたさ、ほんと“考えてないようで考えてる”よね。
ソウタ:えぇ。恋も仕事も、結局は“感じてから考える”タイプです。
ミカコ:あたしは“考えてから感じる”タイプ。
ソウタ:どっちも正しいですよ。
ミカコ:まぁね。でもさ、考えてるうちに終わる恋のほうが、あたしには合ってる気がする。
ソウタ:それでも、考えたってことは、ちゃんと恋してたってことですよ。
ミカコ:……あんた、酔ってるね。
ソウタ:はい。でも正直な酔いです。

二人の笑い声が、湯気と一緒にふわりと立ちのぼった。 店の奥で店主が焼き鳥を返す音が、 どこかリズムのように、夜をやさしく刻んでいた。

恋を“語る”夜の静けさ

店の時計が22時を指していた。 混み合っていたカウンターも、いつのまにか静かになっている。 炭のはぜる音と、遠くから聞こえる笑い声。 その隙間に、ふたりの声がやわらかく溶けていった。

ミカコ:……なんかさ、恋してない今がいちばん落ち着くかも。
ソウタ:それは、平和な証拠ですよ。
ミカコ:うん。トラブルがないって、正義。
ソウタ:でも、静かすぎるのも退屈じゃないですか?
ミカコ:まぁ、刺激は足りないかもね。
ソウタ:たとえば、夜の街で風が吹いたときに、
 “誰かとこの風を共有したい”って思う瞬間、ありません?
ミカコ:……あー、あるかも。
ソウタ:それ、たぶん恋の入り口です。
ミカコ:風から始まる恋って、あんたらしいね(笑)。
ソウタ:風は平等ですから。誰の頬にも、同じように吹くんです。
ミカコ:詩人か。

ミカコは呆れたように笑うが、その表情はやわらかかった。 グラスの縁をなぞりながら、ぽつりとこぼす。

ミカコ:あたし、昔は“恋してる自分”に酔ってた気がする。
ソウタ:うん。恋って、相手よりも“自分”を見てる時間かもしれませんね。
ミカコ:今はそういうの、もう疲れちゃってさ。
ソウタ:でも、“恋しない自分”を楽しめるって、すごいことですよ。
ミカコ:それ、褒めてる?
ソウタ:はい。ぼくなんて、恋を観測する専門ですから。
ミカコ:観測って(笑)。
ソウタ:はい。みんなの心の揺れを、星みたいに眺めてる感じです。
ミカコ:……星ね。いいじゃん、それ。
ソウタ:でも、たまに流れ星が落ちてくるんですよ。
ミカコ:恋に落ちる、ってやつ?
ソウタ:はい。見てるだけでも、けっこう眩しいです。

ふたりのあいだに、短い沈黙が落ちる。 それは気まずさではなく、ただ穏やかな“間”。 グラスの中の氷が、また小さく鳴った。

ミカコ:……ソウタってさ、
あんたも恋してないのに、なんでそんなに人の恋わかるの?
ソウタ:わかりませんよ。
ただ、恋してる人を見てると、
世界がちょっと優しく見えるんです。
ミカコ:……なんか、それ、いい言葉だね。
ソウタ:メモします?
ミカコ:いや、しない(笑)。

ふと、店主が小声で「そろそろ閉めますね」と告げた。 夜の終わりとともに、会話もゆっくりと静まっていく。

恋は、理屈じゃなく温度で覚える

暖簾をくぐると、夜風がふたりの髪をやさしく揺らした。 秋の空気はひんやりしているのに、不思議と肌寒くはなかった。 さっきまでいた居酒屋の灯りが、背中で小さく遠ざかっていく。

ミカコ:……思ったより、いい夜だったかも。
ソウタ:よかった。お酒の温度もちょうどよかったです。
ミカコ:そこ?
ソウタ:はい。恋もお酒も、熱すぎると冷めますから。
ミカコ:……あんた、そういうセリフだけは一丁前だね。

ソウタは少し照れたように笑う。 その笑顔が、街灯に照らされて、ほんのり柔らかく見えた。

ミカコ:ねぇ、ソウタ。
あんたが“恋は感じるもの”って言ってたでしょ。
それ、あながち間違ってないかもね。
ソウタ:お、珍しく同意ですね。
ミカコ:むかつく(笑)。でもまぁ、恋って、理屈じゃないのはわかるよ。
ソウタ:ですよね。温度で覚えるものですから。
ミカコ:温度で覚える?
ソウタ:はい。あのときの空気とか、声のトーンとか。
手のひらの温かさとか。
ミカコ:……それ、けっこうロマンチックじゃん。
ソウタ:そうですか? たぶん、居酒屋の湯気のせいです。
ミカコ:ワニオっぽい(笑)

ミカコは肩をすくめながらも、どこか楽しそうに笑った。 その笑い声が夜風に溶けていく。 二人の歩幅は、いつのまにか同じリズムになっていた。

ソウタ:たまには、こういう夜もいいですね。
ミカコ:そうね。
プライベートで恋の話なんて、しばらくしてなかったけど……
悪くないかも。
ソウタ:じゃあ、次は恋してから飲みましょう。
ミカコ:それ、どっちが先になると思う?
ソウタ:うーん……風次第ですかね。
ミカコ:あんた、最後まで詩人だな(笑)。

小さな笑いとともに、街角で分かれる二人。 遠ざかる足音の向こうで、夜風がまた静かに吹いた。

──恋は、理屈じゃなく温度で覚える。  その夜の空気ごと、きっとどこかに残っていく。

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