午後のカフェテラス。 ミユはアイスラテを両手で抱えながら、ワニオの隣に腰をおろした。 ワニオ専用の「防水ベンチ」は今日も健在だ。 すっかり常連扱いのワニオに、店員さんも「いつもありがとうございます」と微笑んでいる。
そんな穏やかな午後。 しかし今日は、いつもの“ゆるトーク”では終わらなさそうな空気が流れていた。
ミユ:ねぇワニオ、聞いてほしいことがあるの。
ワニオ:はい。お天気の話ではなさそうですね。
ミユ:ちがうの! 恋の話! しかも、ちょっとややこしいやつ!
ワニオ:それは、貴重な観察対象ですね。どうぞ。
ミユ:あのさ、前にミサキさんの企画で紹介した俊くん、いたでしょ?
ワニオ:あぁ。服の色と発言のトーンが、ほぼ同じ方ですね。
ミユ:そうそう! 落ち着いてて、話も合うし、ほんとに“いい人”なの。
ワニオ:よい人が現れるのは、文明として健康な証拠です。
ミユ:文明!? そんなスケールで語らないで!
ミユは笑いながらも、少し照れたようにグラスをいじった。
ミユ:でね、その俊くんに告白されたの。
ワニオ:なるほど。音量はどれくらいでしたか?
ミユ:音量!? そういう問題じゃないの!
ワニオ:そうですか。恋の発声練習ではなかったんですね。
ミユ:……もう。ちゃんと聞いて。
いい人なんだけど、なんか“恋”って感じがしないの。
ドキドキとか、そういうのが全然なくて。
ワニオ:それは、おもしろい現象ですね。
ミユ:現象!? ちょっとは人の気持ちとして受け止めて!
ワニオ:ええ、受け止めていますよ。ただ、感情というのは急に熱くなると焦げますから。
ミユ:焦げる!? なんか今のちょっと名言っぽい。
ワニオ:焦げる恋は香ばしいですが、長持ちはしません。
ミユ:……それ、妙に説得力あるのやめて。
ミユはため息をつきながらも、笑ってしまう。 ワニオの言葉は、どこかずれているのに、不思議と落ち着く。 それが、彼の魅力なのだ。
ミユ:でもさ、“いい人”を好きになれない自分って、
ちょっと悪い人みたいで嫌なんだよね。
ワニオ:いいえ。
“好きになれない”というのも、立派な観察結果です。
恋は義務ではありませんから。
ミユ:……それ聞いて、ちょっと救われた。
ワニオ:よかったです。あと、氷が全部溶けてますよ。
ミユ:そこ!?
「いい人止まり」って、結局なんなの?の巻
ミユ:ねぇワニオ、“いい人止まり”って言葉、けっこう残酷だと思わない?
ワニオ:残酷……そうですね。たぶん、人類が発明したやさしい形の断崖ですね。
ミユ:断崖!? 落とす気満々じゃん!
ワニオ:落とすための優しさもあります。滑らないように手すりを付けてあげるんです。
ミユ:それ、余計に落ちづらくない!?
ワニオはストローをじっと見つめながら、小さくうなずいた。
ワニオ:“いい人”というのは、だいたいの人にとって“安心な風景”なんですよ。
ミユ:風景?
ワニオ:ええ。見ていたら心地いいけど、わざわざ旅先には選ばない。
ミユ:……あー……。ちょっとわかるかも。
ワニオ:きれいな公園よりも、たまには嵐のビーチに行きたくなる。
ミユ:それが恋の嵐ってわけね。
ワニオ:そうです。たいていの恋は、気圧が不安定なときに発生します。
ミユ:あんた天気予報士か!!
ミユのツッコミがカフェに響く。 隣の席のカップルが、くすっと笑ってこちらを見た。
ミユ:でもさ、俊くんってほんとにバランスの取れた人なの。
話してて落ち着くし、価値観も合うのに、
なんか“好き”って気持ちに変わらないの。
ワニオ:それはたぶん、あなたの心が静かな湖なんでしょう。
ミユ:湖?
ワニオ:恋という石を投げても、波が立たない。
でも、映っている景色はきっときれいですよ。
ミユ:……なんか、詩人みたい。
ワニオ:ワニです。
ミユ:わかってるよ!!
でも、なんでだろうね。
“好きじゃない”って思うと、ちょっと罪悪感あるの。
ワニオ:恋は相互契約ではありません。
片方が感じて、もう片方が感じないことも自然なことです。
ミユ:……それって、相手を傷つけることにはならないの?
ワニオ:それでも誠実であることはできますよ。
好きじゃないのに“好きなふり”をするほうが、
たぶん、ずっと痛いと思います。
ミユはストローを回しながら、ゆっくりうなずいた。
ミユ:……ねぇ、ワニオ。
あんたたまに、ちゃんと人間より人間らしいこと言うよね。
ワニオ:それは困りました。ぼくはあくまでワニですから。
ミユ:いや、そこは否定しないでほしかった(笑)
カフェのスピーカーから、やさしいピアノの曲が流れ出す。 “いい人止まり”という言葉の棘が、 少しだけ丸くなった気がした。
恋のスイッチは、押すものじゃなくて入るもの
ミユ:でもさ、恋のスイッチってどこにあるんだろうね。
ワニオ:うーん……たぶん、存在しないと思います。
ミユ:え、存在しない!? あんたそれ言い切っちゃう!?
ワニオ:はい。恋のスイッチは“押す”ものではなく、“入ってしまう”ものです。
ミユ:つまり、勝手にオンになるってこと?
ワニオ:そうですね。
気づいたら点いて、しばらくして勝手に消えて、
電池交換のタイミングも不明です。
ミユ:電化製品みたいに言わないで。
ワニオ:ただ、スイッチが入る瞬間には“きっかけ”があると思います。
ミユ:へぇ。どんなきっかけ?
ワニオ:匂いとか、声の音程とか、角度とか。
ミユ:角度!?
ワニオ:たとえば、朝日を反射したまつげの角度。
ミユ:細かすぎるよ!!
ワニオ:でも、恋というのはだいたい“どうでもいい角度”から始まるものですよ。
ミユ:……それは、なんかちょっとわかるかも。
ワニオはストローで氷をつつきながら、ゆっくり言葉を続けた。
ワニオ:ぼくは恋に興味はありませんが、
人が恋をする姿は、見ていて面白いです。
ミユ:観察対象!?
ワニオ:はい。恋をしている人は、少し柔らかくなるんです。
まるで、水に浮かぶパンみたいに。
ミユ:例えのセンスよ。
ワニオ:浮かんで、沈まなくなって、
それでもいつか、また沈む。それを繰り返す。
ミユ:……なんか、妙にロマンチックじゃない?
ワニオ:そうですか? たぶん湿気のせいです。
ミユ:もういい(笑)
ミユは笑いながら、ストローをくるくると回した。 その笑顔を見て、ワニオのまぶたがゆっくりと下がる。
ワニオ:でも、“好きになれない”って、そんなに悪いことではありませんよ。
ミユ:……うん。
ワニオ:無理に恋をしなくても、
その人のやさしさを“好き”だと思えるなら、
それもちゃんとした愛情の形だと思います。
ミユ:……あんた、やっぱり恋愛マスターじゃん。
ワニオ:ぼくは観察マスターです。
ミユ:そういうとこ!!(笑)
好きになれない自分を責めないで、の巻
カフェの窓の外では、夕暮れの光がオレンジから群青へと変わっていく。 ラテの氷はすっかり溶けて、グラスの底に淡い影をつくっていた。
ミユ:なんかさ、今日話してたら、ちょっとスッキリしたかも。
ワニオ:それはよかったです。話すだけでも、心の湿度は下がりますから。
ミユ:湿度って……心もエアコン管理かい。
ワニオ:ええ。湿度が高いと、恋もカビますからね。
ミユ:その比喩やめて!? 台無しになるから!!
ミユは思わず吹き出した。 でもその笑いの中に、少しだけ安堵が混ざっている。
ミユ:……“いい人”を好きになれない自分を、責めなくていいんだね。
ワニオ:もちろんです。
好きになれないのは、あなたの欠点ではありません。
ただ、恋という芽がその季節に咲かなかっただけです。
ミユ:季節かぁ……。
ワニオ:はい。咲くときは、たぶん急に咲きます。
ミユ:そのときは、報告してあげるね。
ワニオ:観察記録として、きちんと残しておきます。
ミユ:そこはメモ取らないで!?
二人の笑い声が、カフェの静かなBGMに溶けていく。 窓の外の街灯が灯り、ガラス越しにぼんやりと光が揺れていた。
ミユ:ねぇ、ワニオ。
あんた、恋愛に興味ないって言うけど、
人の恋にはけっこう優しいよね。
ワニオ:そうでしょうか。
ぼくはただ、人の心が動くのを見るのが好きなんです。
ミユ:……それ、恋に一番近い気がするけどな。
ワニオ:それは困りました。ぼく、ワニですから。
ミユ:だからそのオチもうやめて!!
笑いながらグラスを片づけるミユ。 帰り際、ふと後ろを振り返ると、ワニオはまだカフェの外を眺めていた。 その横顔はどこかやさしく、 まるで人間の恋を、少しだけ羨ましそうに見ているようにも見えた。
──好きになれない自分を責めなくていい。 恋は予定表ではなく、自然現象。 きっと、次の風が吹くとき、心の湖面にまた波が立つ。
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