共感が通貨になった世界
朝、街がやさしすぎる音で目を覚ます。 アラームの代わりに流れるのは、人々の「わかる〜」という囁き声だ。 その声が風に乗って屋根を撫で、電線を震わせ、電力に変換されていく。
ここは「共感が通貨」の国。 いいね数やコメントではなく、“共感度(エモーション・レート)”が生活の基準になっている。 共感すれば電気がつき、共感されればお金が入る。 人は眠る前に一日分の「共感ポイント」を確認して安心する。
しかしこの街には、奇妙な病が流行していた。 「共感過多症候群」――他人の気持ちを吸いすぎて、自分がどこにあるのかわからなくなる症状だ。
ある者は他人の悲しみを抱きすぎて重く沈み、 ある者は喜びを受信しすぎて、笑いながら倒れる。 医者はこう言う。「やさしさの過剰摂取です」と。
わたし、ナツメはその街の電柱の上から、それを見下ろしていた。 虹色の毛並みは、今は少し灰色がかっている。 「共感」という光を浴びすぎて、光が飽和してしまったのだ。
下の広場では、今日も共感の取引が行われている。 机の上に置かれた端末には、『本日の感情レート:共感1単位=1.08愛貨』と表示されていた。 人々は他人の涙に値札をつけ、同情の度数を競い合う。
「昨日より上がってるじゃない。最近、失恋系の投稿が流行ってるのね。」 「うん、“痛み”は高値で売れるから。」
ふたりの会話が、静かに空へ溶けていく。 その“共感の余熱”を拾う装置が屋根の上で青白く光る。 それがこの国の発電システム──「エモーション・グリッド」だ。
ワニオはその装置の整備士として働いていた。 いつも無表情で、少し油臭いツナギ姿。 でも彼の目の奥には、微かなあたたかさが残っている。
ある朝、わたしはワニオに言った。 「なぁ、ワニオ。この国の電気、優しさで動いてるんやろ? なら、世界でいちばん優しい夜が見られるはずやのにな。」
ワニオは工具を止め、しばらく空を見上げた。 「……夜、光りすぎるんですよ。 みんなが共感しすぎて、星が見えなくなった。」
その言葉に、ナツメは何も返せなかった。 風の中に混じる“わかる〜”という声が、 どこか、すすり泣きに似ていた。
ワニオ、共感泥棒に遭う
昼下がり。 街の共感メーターがいっせいに鳴り出した。 まるで同時に誰かの心が盗まれたような、不気味な音だった。
「共感泥棒だ!」と誰かが叫ぶ。 群衆が一斉にスマホを掲げて、共感残高を確認する。 “共感泥棒”とは、他人の「感じる力」を吸い取る存在のこと。 被害に遭うと、しばらくの間、何を見ても何も感じなくなる。
その日の被害者リストのトップに、ワニオの名前があった。
わたしは慌てて市場の裏通りへ向かった。 錆びついた配電盤の前で、ワニオが項垂れている。 いつもと同じツナギ姿。だけど、その目はどこか空洞だった。
「ワニオ、大丈夫か?」 「……ああ、ナツメさん。なんも感じません。風も、音も、温度も。」 「共感、全部抜かれたんか。」 「ええ。どうやら、“いいね”を押しすぎたみたいで。 あっちから、逆流してきたんです。」
ワニオの胸元には、黒いケーブルのような跡が残っていた。 まるで心臓から何かを引き抜かれたみたいに。
「おまけに、盗んだヤツ、姿がないんですよ。 監視カメラにも映らない。“共感泥棒”は光の反射だけを歩く存在らしい。」 「光の反射?」 「そう。共感されすぎて光りすぎた場所に、そいつは現れるんです。 そして、みんなの“感じる気持ち”をまとめて回収していく。」
わたしは空を見上げた。 ネオン広告が“いいね!”の形をしたまま、まぶしく点滅している。 通りを歩く人々の顔が、まるでライトに照らされたマネキンのように硬い。
「……なぁ、ワニオ。あんたの“やさしさ”も盗まれたんか?」 「ええ、残念ながら。いま、人の話を聞いても、まるで壁を見てるみたいです。」 「それ、めっちゃ不便やろ。」 「そうでもないですよ。静かで……痛くない。」
ナツメは少し目を細めた。 「あかんな。静かすぎる世界は、退屈の音しかせえへん。」
そのとき、ビルの屋上から白い影が飛び降りた。 ガラスのように透けた体、顔の代わりに“いいねボタン”が浮かんでいる。 共感泥棒だった。
人の表情をスキャンし、反応の大きいものだけを吸い取っていく。 「かわいそう」「感動した」「泣ける」――その言葉を拾って、 光の袋に詰め込む。まるで人のやさしさをゴミとして回収するように。
ナツメはしっぽをふるわせた。 「おい、ワニオ。おまえの“無感情”、いまだけ役立つかもしれん。」 「どういうことです?」 「感じん者は、盗まれん。共感泥棒は“反応”のある心しか食べへんからな。」
ナツメは地面を蹴った。 空気がひずみ、虹色の光が広がる。 共感泥棒の輪郭がゆらぎ、周囲の“わかる〜”という声が途切れた。
「……さて、共感を盗むヤツに、共感は通じるんやろか。」 ナツメは呟いた。 光の中で、共感泥棒が一瞬だけ笑った気がした。
ブザーが鳴るたび、やさしさが減っていく
数日後、政府は緊急声明を発表した。 「共感泥棒の蔓延により、国民感情が不安定化。 本日より、全市民に『心の防犯ブザー』を配布します。」
そのブザーは、胸に装着する小さな装置だった。 誰かの感情に共鳴しすぎると、甲高い音を鳴らして警告する。 “やさしさの暴走”を防ぐための対策だという。
人々は列をなしてブザーを受け取り、慎重に胸につけた。 それはまるで、心に南京錠をつける儀式のようだった。
その日から、街の音は少しずつ変わった。 悲しいニュースを見ても、ブザーが鳴る前に画面を閉じる。 誰かが泣いていても、「大丈夫?」の言葉を飲み込む。 優しさが“危険物”として扱われ始めた。
ナツメは歩道橋の上で、人々のブザーが微かに鳴る音を聞いていた。 ピピピピ……ピピ……。 まるで街全体が、同じ心拍数で震えているみたいだった。
「ワニオ、おまえのブザーは鳴ったか?」 「いいえ。鳴りません。そもそも、共感を感じないので。」 「便利な身体になってしもうたな。」 「ですが、たまに思うんです。……もし鳴ったら、少しうれしいかもしれない。」
ナツメはしっぽでワニオの背中を軽く叩いた。 「ほんなら、代わりに鳴らしたるわ。」 そう言って、ナツメは彼の手をぎゅっと握った。 ピピピピピッ! ワニオの胸のブザーが、悲鳴のように鳴り響いた。
通りすがりの人々が振り向く。 「あ、共感しすぎブザー鳴った」「危ないわよ」「距離取らなきゃ」 ナツメは笑った。「どいつもこいつも、“感じる”ことに防犯かけとる。」
ワニオはブザーを外して、静かに地面に置いた。 「ナツメさん。もしこのまま誰も共感しなくなったら、世界はどうなります?」 「簡単や。痛みが“データ”になる。 そしてやさしさが、“誤作動”として削除される。」
その夜、ニュースキャスターが淡々と読み上げる。 『共感泥棒の件数は減少傾向。人々の感情が安定し始めています。』 スタジオの照明は完璧に整っており、キャスターの表情は幸福そのものだった。 だが、画面の下では無数の防犯ブザーが赤く点滅していた。
翌朝、ナツメはその光景を見て言った。 「……ようやく、誰も傷つかん世界になった。 せやけど、それって、生きてるって言えるんか?」
ナツメの選択と、盗まれても残るやさしさ
夜。街の灯りは静かに瞬いていた。 だがそれは星の光ではなく、胸のブザーの微かな赤い点滅だった。 一晩中、誰かの「感じすぎ注意」が光っては消えていく。
ナツメは川沿いのベンチに座り、足元の小石を撫でていた。 その石もどこか温かく、かすかに共感の残り香がした。 「なぁワニオ。共感て、盗まれたら終わりなんやろか。」
ワニオはブザーを外したまま、静かに首を振った。 「終わりじゃありません。盗まれたものは、誰かの中でまだ動いている。 それが共感の厄介で、美しいところです。」
ナツメはしっぽを一度ふるわせ、胸のブザーを外した。 小さな銀の機械を、そっと川に投げ入れる。 水面に波紋が広がり、ブザーが鳴り出した。 ピピピピピピッ──と、まるで遠くの星が笑っているような音で。
「ほらな、共感泥棒より先に、ブザーが空に鳴ってもうた。」 ナツメは微笑んだ。 「盗まれてもええんや。感じるってことは、 自分の中の“すき間”を誰かに貸してるようなもんやから。」
川面に浮かぶブザーが光を失い、静かに沈んでいく。 そのあとに、かすかな風が吹いた。 遠くで誰かが泣いているような、それでいて笑っているような音。
ワニオがぽつりと言った。 「ナツメさん、あなた……いま誰かの心を拾いましたね。」 「知らん間に拾うんや、共感てやつは。だから面白い。」 「……盗まれても残る、ってことですか。」 「せや。愛もな、半分盗まれたくらいが、ちょうどええのかもしれん。」
ふたりは立ち上がった。 夜風が、透明な声を運んできた。
──“わかるよ”。
その声は、ブザーの残響に混ざって消えた。 ナツメは虹色の毛を少し揺らして笑った。
「世界がやさしすぎる朝が来るまでに、 ほんまの“わかる”が、もう一回咲くとええな。」
夜明け前。街のブザーは静まり返り、 共感泥棒の影も消えた。 だが、その夜から不思議な噂が流れたという。
──川辺で誰かとすれ違うと、自分の心が少し軽くなる。
その誰かが誰なのかは、誰も見たことがない。 けれど、通りの風が虹色に光るとき、 人々は小さく笑ってこう言うのだ。
「あ、ナツメが通ったんだな。」

