ナツメ式|欲張り女王と空っぽの王冠 ― “全部欲しがる”の先にあるもの。

目次

Ⅰ.欲望の倉庫

王城のいちばん奥には、誰も入ってはいけない部屋があった。鉄の扉には鍵が三つ。うち二つは飾りで、ほんまの鍵は女王ミサキの胸の奥にぶら下がっている。

扉の向こうは、「欲望の倉庫」と呼ばれていた。呼んでいるのは、わたしだけやけどな。虹色の猫に擬態したナツメは、夜な夜な天井裏のひび割れからその部屋を覗き見る。

そこには、世界からかき集められた「欲しいもの」がぎっしり詰まっていた。

壁一面の棚には、透明な瓶が並んでいる。ラベルには〈褒め言葉〉〈いいね〉〈既読〉〈羨望のまなざし〉と書かれている。瓶の中では、光る言葉や拍手の音がシュワシュワと泡立っていた。

別の棚には、箱が積み上がっている。〈元恋人の未練〉〈部下の忠誠心〉〈ファンの期待〉〈まだ知らない誰かの憧れ〉。箱の隙間から、甘い匂いが漏れ出している。開けるたび、人ひとりくらい簡単に迷子になれそうな匂いや。

部屋の真ん中には、王冠専用のガラスケース。中には黄金の王冠が並んでいる。成功の王冠、勝利の王冠、注目の王冠。どれも大きく、重そうで、よく磨かれていた。

そしてそのどれよりも高い場所に、小さな空っぽの王冠がひとつ、ぽつんと置かれている。石も飾りもない、ただの輪っか。誰もそれに名前をつけていない。

ミサキ女王は、毎晩そこへやってくる。長い髪を揺らしながら、ハイヒールの音を響かせて。彼女のドレスには、世界中の「視線」が刺繍されている。振り返るたび、目がざわ…と揺れる。

「まだ足りないわね。」

ミサキは瓶を一本取り上げ、ラベルを読む。

〈あなたがいちばんです〉

瓶の蓋を開けると、褒め言葉が花火みたいに弾けた。彼女の頬に光が降りかかる。そのたびに、王冠の宝石がひとつ、まばゆく光った。

「でも、これももう知っている言葉だわ。もっと違うのが欲しい。」

ミサキは次の瓶へ、次の箱へと手を伸ばす。棚の隙間がどんどん埋まり、床にも箱が積まれていく。倉庫の空気は甘すぎて、息をするたび喉の奥がざらついた。

天井裏からそれを見ていたナツメは、鼻をひくつかせる。

「砂糖まみれの野心やな。ありんこ泣いて喜ぶで。」

ミサキはガラスケースの前に立った。かつて“成功”の王冠を、両手で持ち上げた夜を思い出す。新しい王冠を手に入れるたび、昔の王冠は奥の方へ追いやられていく。

彼女はケースのいちばん上に置かれた、小さな空っぽの輪っかを見上げた。

「あれだけは、まだいらないわ。」

ミサキはそう言って、視線をそらす。空っぽであることが、いちばん怖い。何も入っていない王冠など、女王の頭にはふさわしくない、と彼女は信じている。

そのとき、天井のひび割れから、ぽとりと何かが落ちた。虹色の毛並みをした猫──ナツメである。

彼は音もなく着地し、ミサキの足元でしっぽを揺らした。

「よう集めたなぁ、女王さん。世界の“欲しい”の見本市や。」
「誰?」
「通りすがりの猫や。……せやけど、あんた、まだひとつだけ足りへんもんがあるで。」

ミサキは目を細める。彼女の瞳には、獲物を値踏みするときの輝きが宿る。

「足りない? わたしが欲しいと言ったら、手に入らなかったものなんて今までないのだけど。」

ナツメはにやりと笑い、天井を向いて一度だけ瞬きをした。天井がひらき、夜空の穴が見える。

「ほな、“全部を持つ女王”に、足りへんものを見せたろか。市場に行こか、女王さま。」

ミサキは一瞬だけ迷ったふりをして、すぐに頷いた。
「面白そうね。全部、買ってあげるわ。」

欲望の倉庫の扉が音を立てて閉まる。鍵は三つとも、内側から開いたままやった。

Ⅱ.欲望の市場

ナツメが夜空の穴をぴょんと飛び越えると、そこは大地でも空でもない、
“願いごとが地層みたいに積み重なってできた場所”やった。

ミサキの足元に、ざらりと音がする。
砂のように見えて、砂やない。これは、誰かの願いが砕けた粉や。

「ここは、“欲望の市場”。
あんたみたいな人、だいたい大喜びで散財していくわ。」

ナツメが尻尾で合図すると、闇の中から露店が次々と灯りだす。
屋台はすべて布で覆われ、売っているものは“もの”ではなく、“気配”やった。

一番手前の店には、こんな札が下がっている。

〈認められたい気持ち──1袋:拍手の重さぶん〉

袋の中では、光る拍手がぱちぱちと弾けている。まるで生き物や。

その隣では、ガラス瓶に赤い煙がつまっていた。

〈古い恋の記憶──未練つき:値段交渉可〉

ミサキは目を輝かせた。

「素敵ね。いくらでも買えるわ。」

ミサキが指を鳴らすと、露店の影たちがせかせかと動き、次々と品を差し出す。
〈自信の欠片〉〈愛されていたかもしれない瞬間〉〈注目される予感〉。
手に取るたび、ミサキの髪が金色に光る。

しかし、ナツメは腕を組んだまま冷静や。

「欲しがるんは自由やけどな。
たくさん持ったら、“大事なもんの重さ”がわからんようになるんや。」

ミサキは鼻で笑う。

「重さなんて関係ないわ。わたしは全部欲しいの。」

市場の中央にはひときわ大きな店があった。看板にはこう書かれている。

〈自分を好きになれる権利〉

ミサキの目が止まる。

そこに並べられていたのは、金でも宝石でもなく、“透明な箱”。
持ち上げるとふわりと浮く。重さがない。空っぽにも見える。

「ねぇナツメ。これは何が入ってるの?」

ナツメは首をかしげる。

「もともと重さのあるもんやけどな。
欲ばるほど軽くなる。不思議なもんや。」

ミサキは気に留めず、次々と箱を買う。
手に抱えきれないほどになっても、彼女は満足そうに笑っていた。

けれど、奇妙なことが起こる。
抱えたはずの箱が、ひとつ、またひとつ、透けはじめる。
影が薄くなり、空気に溶けるように消えていく。

「ちょっと! わたしの箱はどこ?」

ミサキが叫ぶと、市場の風がひゅうと鳴いた。
ナツメは尻尾で消えた場所を指す。

「欲望ってのはな、手に入れた瞬間がいちばん軽いんや。
あんたが大事にせんから、持ち主を選び直したんやろ。」

ミサキは悔しそうに唇を噛んだ。

しかし、その表情は怒りでも悲しみでもなく、
“もっと欲しい”という飢えに近かった。

「……じゃあ、もっと買うわ。」

市場の灯が、一斉に揺れた。 欲望が飽和した匂いが、夜の空を重たくする。

ナツメは気づいていた。 ――この市場の夜が、もうすぐ崩れはじめることを。

Ⅲ.失われる“重さ”

欲望の市場の空気が、唐突にぴん、と張りつめた。 まるで弦が切れる前の、最後の緊張みたいや。

ミサキが両腕いっぱいに抱えた〈願望〉〈称賛〉〈愛されたい気持ち〉は、 ぜんぶ光を帯びて宙に浮き始めた。 抱えているはずなのに、腕をすり抜けて勝手に浮く。

「あれ……? なんで勝手に上がるのよ。わたしのものでしょう?」

ミサキが物を掴もうと手を伸ばすたび、 欲望のかけらはひらりと避けるように上昇する。 それはまるで、「あなたの手では持てません」と言っているようや。

市場全体がゆらぎ、露店の屋根が波のように揺れた。 商品だった“誰かの期待”が風船みたいに割れ、 “承認欲求のボトル”が床で砕けて叫び声を上げる。

ミサキの腕は空っぽになる。 けれど彼女の足元には、もっと恐ろしい変化が起きていた。

――影が薄くなっている。

女王ミサキの影は、いつも濃く、強く、存在を主張していた。 それが今、光の中に溶けるように薄れている。 “重さを失った人間”は、影も薄くなるんや。

「影……? ちょっと待って、これもわたしのよ。返しなさい!」

ミサキが影を踏もうとするが、足元の影はするりと横へ逃げた。 影まで反抗するなんて、よほどの事態である。

ナツメは後ろで腕を組み、あきれた顔で首を振る。

「あんた、全部を欲しがりすぎたんや。 持てんほど集めたら、持つ資格そのものが薄くなる。」

ミサキは唇を震わせる。

「資格? わたしに? わたしが誰か知らないの?」

その瞬間、空がぱきんと割れた。

割れ目から、“重たかったはずのもの”が落ちてくる。 信頼の重さ、愛情の重さ、誰かが捧げた時間の重さ。 それらはすべて、ミサキの胸をすり抜け、石畳に落ちて砕け散る。

彼女は震える指でその欠片を拾い上げようとする。 しかし欠片はすぐに砂になり、手からこぼれてしまう。

「なんで……持てないの? これだけは欲しかったのに……!」

ナツメは静かに、しかし残酷な真実を告げる。

「ほんまに“大切なもの”はな。 欲しがった瞬間、逃げるように作られてるんや。 持とうとしたらあかん。預かるだけで十分なんや。」

ミサキの王冠も揺れていた。 金の宝石がひとつ、またひとつ、音を立てて落ちていく。 そしてとうとう、王冠全体が透明になり、 まるで“存在しなかった王冠”のように消えてしまった。

市場に、静寂が降りた。 欲望だけが空中で光り、ミサキの影はほとんど見えなくなっている。

「……こんなはずじゃないの。わたしは全部手に入れるはずだったのよ。」

ナツメはゆっくりと近づき、ミサキの足元に目を落とす。 そこに、わずかに残った“重さ”が落ちていた。

それは、小さな光の粒――
ミサキが今まで気づきもしなかった、誰かのささやかな愛情の欠片や。

ナツメがそれを拾い上げると、粒はかすかに温かかった。

Ⅳ.空っぽの女王と、ひとつの重さ

ナツメは拾い上げた小さな光の粒を、そっとミサキの掌に乗せた。 粒は、まるで心臓の鼓動を忘れた子どものように、かすかに震えている。

「……なに、これ。」

ミサキの声は、今まで聞いたどんな言葉よりも細かった。 それは強欲の女王の声やなく、“何かをなくした普通の人間”の声や。

「おまえが気づかんかった“愛情”の欠片や。」

ナツメは靴の裏で砕けた欲望の粉を払いながら続ける。

「他のもんは全部逃げたけどな。 これは、おまえが欲しがる前から、ずっとそこにあった。」

ミサキは震える手で光の粒を包み込む。 すると粒は少しだけ暖かくなり、まるで応えるように指先に馴染んだ。

それは“重み”だった。 欲しがっても手に入らなかった重さ。 ミサキが今まで買い漁ったどれとも違う、静かな重量や。

市場の空気がゆっくり変わる。 欲望の屋台は跡形もなく消え、闇の地面に散らばっていた粉も風に流されていく。

ミサキは肩を落としたまま、ぽつりとつぶやく。

「……全部欲しがったのに。 ぜんぶ取る気でいたのに。 わたし、何ひとつ持てなかったのね。」

ナツメは尻尾で地面を軽く叩き、静かに笑う。

「強欲そのものが悪いんやない。 ただ、心の容量には上限があるんや。 いっぱいにしたら、いちばん大事なもんの居場所がなくなる。」

ミサキは掌の光をじっと見つめる。 大きな王冠を失った代わりに、手の中に残ったのは指先ほどの光だけ。 けれどその光は、彼女の影をゆっくり濃くしていった。

影が戻る―― 人が「自分」を取り戻すときの、最初の合図や。

「……これ、どうしたらいいの?」

ミサキの問いは、女王の命令でも、欲張りの要求でもなかった。 小さな子どもみたいな、真っ直ぐな質問やった。

ナツメは、ふわりと肩をすくめる。

「大事にせえ、とも言わん。 捨てるな、とも言わん。 ただの“預かりもん”やからな。」

ミサキは光を胸に抱きしめた。 そのときだけは、王冠を失った女王やなく、 “誰かに愛されたことのある人間”そのものの顔をしていた。

市場に朝日が差し込む。 欲望の屋台があった場所には、もう何もない。 ただ、その真ん中に、ひとつだけ影が落ちていた。

「欲ばりは悪くない。 ただな、欲しいもん全部持てる生き物なんか、この世にひとつもおらへん。」

ナツメは向こうの空を見上げながら続ける。

「せやけど……“ほんまに残るもん”は、だいたいちっちゃい。 せやからこそ、重いんや。」

ミサキは、自分の胸に抱いた光をそっと見つめた。 それは王冠よりも、宝石よりも、何よりも静かな輝きを放っていた。

風が吹き、ナツメの虹色の毛がきらりと揺れる。

ミサキは初めて、素直に礼を言った。

「……教えてくれてありがとう。ナツメ。」

ナツメは背を向け、歩き出しながら尻尾だけで返事をした。

「ええよ。 欲ばりの女王の物語は、まだ続くやろ。 その時はまた、案内したる。」

朝の光が地面に漂う粉をさらい、 ミサキの影だけがゆっくりと濃くなっていった。

――その影は、もう逃げなかった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次