ナツメ式|やさしさが溢れた街で

目次

Ⅰ.導入──やさしさが満ちすぎた街

この街には、ひとつの決まりがあった。

「相手を否定してはいけない」

否定の言葉を口にしようとすると、声はすべて消音される。 「嫌だ」も、「違う」も、「ごめん、無理」も、この街では音にならない。

それによって、街はいつも静かだった。 穏やかで、争いがなく、どこを歩いても笑顔だけが並んでいる。

ただ――その笑顔には、どこか薄い膜のようなものが張りついていた。

虹色の毛並みの猫・ナツメは、街の入り口で足を止めた。 街の空気は澄んでいるのに、空気の奥にある音だけが妙に沈んでいる。

「……静かすぎるな。 ほんまの優しさは、こんなに“無音”やないんやけど。」

ナツメが小さな路地を歩くと、すれ違った住人たちは皆、優しく微笑んだ。

「その考え、素敵ですね」 「あなたがそう思うなら私も賛成です」 「違いって大事ですからね、なんでも受け入れますよ」

誰もが、どんな意見にも肯定だけを返していた。 否定が許されない街では、褒め言葉と同意だけが増え続ける。

しかし、ナツメは気づいた。

道を歩く人々の足取りは不自然に重く、 彼らの影がどれも薄く揺れていた。

「……影が薄いんは、自分の声が奥に沈んでる証拠やな。」

街の中心に近づくほど、空気はさらに静まっていく。 建物の窓の奥には、人々が談笑している姿が見える。 しかしその笑顔はどこか貼りつけたようで、 言葉の裏に“違和感”が沈殿していた。

ナツメが市場の広場に出たとき、 小さな背中がしゃがみ込んでいるのが見えた。

少女だった。名前はミナ。 膝を抱え、泣いているわけでもないのに、目の奥が困っている。

ナツメはそっと近づき、横に座った。

「どうしたんや、嬢ちゃん。 街ぜんぶが優しい顔しとるのに、あんたの影だけ元気ないな。」

ミナはゆっくり顔を上げる。

「……わたし、もう何が好きで何が嫌なのか分からないんです。」

その言葉が、街の静けさをわずかに震わせた。 この街では珍しい“本音の響き”だった。

ナツメはミナの胸のあたりをじっと見つめる。 そこには薄く透ける膜が重なっていて、言葉が中に沈み込んでいた。

「その胸の膜……やさしさの皮やな。 ええ子でおろうとすると、何層にも重なって本音が沈んでまう。」

ミナは驚きもせず、ただ静かに頷いた。

「みんな優しいんです。だからわたしも“優しい人”でいないと……。 でも、わたしの声が、どこにも見つからなくて。」

街を包む静寂が、少しだけ重さを増したように感じられた。

ナツメは空を見上げ、毛並みを揺らしながらつぶやいた。

「ほな、この街の“やさしさの底”……見に行こか。」

Ⅱ.出会い──本音を失った少女

ミナはナツメの横で、胸に手を当てた。 その指先は少し震えていたが、泣いているわけではない。ただ、言葉を探しているようだった。

「……わたし、この街で“否定しちゃいけない”ってずっと教わってきました。 誰かが何かを言えば、“うん、いいね”って返さなきゃいけなくて。」

ミナは薄く笑う。 それは笑顔というより、街の空気に合わせた“表情のかたち”だった。

「でも、本当は……時々“違う”って思うんです。 だけど、その言葉だけが喉で止まって出てこなくて……。」

ナツメはミナの胸元に視線を落とす。 そこには、薄く透ける何枚もの膜が折り重なり、ゆっくり揺れていた。 優しさ、遠慮、配慮、共感、空気読み。 それらが層となって、本音を奥へ奥へと押し込んでいる。

「嬢ちゃん……その膜、分厚いなぁ。 やさしさはええもんやけど、重なりすぎると“声の墓場”になるんや。」

ミナは不安げに眉を寄せた。

「……墓場?」

ナツメはうなずき、地面を軽く前足で叩く。

「本音を言えんまま飲み込んだらな、 その言葉らは沈んでいく。 人の胸ん中に“底”ができて、そこに溜まるんや。」

ミナは胸の奥を押さえ、困ったように笑う。

「……たしかに。ここが、いつも重たくて。」

ナツメは、ミナの影がいつの間にか薄くなっていることに気づいた。 地面に落ちた影は輪郭がぼやけていて、風に揺れて形を失ったようだった。

「影が薄なると、人は“わたし”が分からんようになる。 好きも嫌いも、よう分からんまま世界に合わせてまうんや。」

ミナは静かに俯いた。

「……わたし、本当は友達にも“今日は一人でいたい”って言いたかったんです。 でも、そんなこと言ったら、傷つけちゃうかもしれないって……。」

ナツメは尻尾をふわりと揺らした。

「やさしさの街はな、みんな優しい顔をしとるけど…… 人の本音がどんどん捨てられていく場所や。」

ミナは胸の奥にある“言えなかった言葉”を抱えながら、ナツメを見つめた。 その瞳には、小さな助けを求める灯が揺れていた。

「……ナツメさん。 わたし、自分の声を取り戻せますか?」

ナツメはゆっくり頷く。その瞳には、深い色が宿っていた。

「取り戻せるで。 せやけどまずは、捨てられた本音がどこに溜まっとるか…… 見に行かなあかんな。」

風が少し吹き、街の看板が揺れた。 その奥から、小さな微かな声が漏れ出している気がした。

それは、誰かが言えなかった“違う”の残響だった。

Ⅲ.崩壊──街の底から本音が滲み出す

ナツメとミナが広場を離れ、街の裏通りへ向かうと、道の奥から不自然な音が聞こえた。 それは風でも川でもなく、何かが“泡立つような音”だった。

街の住人たちの足取りは変わらず穏やかで、誰も異変に気づいていない。 だがナツメだけは、空気の流れがほんのわずかに濁っていることを感じ取っていた。

「……そろそろやな。 溜まったもんは、いつか浮いてくる。」

ミナは不安げにナツメの前足を握る。 その手のひらは汗ばんでいて、胸の奥の膜がまた一枚震えていた。

やがて二人は、街の地下へと続く階段にたどり着く。 禁止の札もなく、ただ存在を忘れられたかのように薄暗い階段だった。

下へ降りるにつれ、重い気配が増していく。 ミナは耳を澄ませた。

「……今、誰かの声が聞こえませんでしたか?」

ナツメは静かに頷く。

「聞こえとるで。 これはな、この街の人間が“言えんかった言葉”の残響や。」

階段を降り切ると、そこは巨大な地下空洞だった。 そして足元には、淡く光る液体がひたひたと広がっていた。

湖のように見えるそれは―― 街中の人々が吐き出せずに飲み込んだ本音だった。

表面には、無数の言葉が浮かんでいた。

  • 「ほんとは行きたくない」
  • 「やさしくしたくない日もある」
  • 「あなたの意見には賛成できない」
  • 「もう疲れた」
  • 「わたしの気持ちはどこ?」

文字が泡のように浮かんでは沈み、沈んでは歪んだ音を立てていた。 その音は、どこかすすり泣きにも似ている。

ミナは胸を押さえる。 その胸の膜が、地下の湖の光と共鳴するように脈打った。

「……わたしの言えなかった言葉も……ここにある。」

ナツメは湖の端に腰を下ろし、水面をじっと見つめた。

「この街はな、“否定せんこと”をやさしさやと思い込んどる。 でも実際は、否定の代わりに本音を沈めていっただけや。」

湖が突然、波を立てた。 その波紋が天井にまで届き、街全体がかすかに揺れたように感じられた。

空洞の奥から、ひときわ強い声が響く。

「言いたかった!」

その叫びに合わせて、湖が膨れ上がり、本音の光が地面の隙間から街の地上へと噴き出していく。

地上では、控えめに笑っていた人々が突然胸を押さえ、驚いたように立ち尽くした。

「……何、この感覚……?」 「胸の奥から、何か……押し返してくる……」

湖の水面から無数の言葉が浮上し、空気を震わせた。

  • 「わたし、ほんとは違う」
  • 「あなたの提案、受け入れられない」
  • 「今日は優しくできない」
  • 「助けて」

それらの声が街全体を包み込み、建物のガラスを振動させ、 長い間押し込められてきた“本音の海”がとうとう地上へ溢れ出した。

ミナは水面の光に引っぱられるように、ふらりと前へ出た。 湖の奥から伸びてきた“自分の影”が、彼女の足首を掴む。

「……わたしの……声……?」

ナツメはすぐにミナの腕を引き寄せた。

「あかん。 溜めすぎた本音はな、時に持ち主を飲み込むんや。」

湖の光が激しく波打ち、街の静けさはとうとう崩れ始めていた。

Ⅳ.結末──やさしさの線を引く

本音の湖が暴れ、街全体が揺れた。 地上では、人々が胸を押さえ、溢れかえった言葉に怯えている。

優しさで固められた街の“静かな均衡”は、音もなく崩れていた。

ミナは湖の光に引かれるように、一歩前へ出た。 影が足を掴んだまま離れず、胸の膜は苦しげに脈打っている。

「……わたし……もう自分が分からない……」

ナツメはミナの肩に前足を置き、そっと囁くように言った。

「嬢ちゃん。“違う”と口にするのはな、 誰かを傷つけるためやなく、 自分の形を守るためなんや。」

ナツメは尻尾を一振りすると、その先から一本の“光る糸”が現れた。 糸は細く、頼りないほど儚い。 しかし触れると、温かい震えが指に伝わってくる。

「これはな、“境界線の種”や。 他人と自分を分けるために、人がほんまは持っとるもん。」

ミナが恐る恐る糸に触れると、 胸の膜がふわりと揺れ、少しだけ薄くなった。

「……これを……どうすれば……?」

ナツメはやわらかく微笑んだ。

「胸ん中に一本、線を引くんや。 “ここからここまでは、わたし”ってな。」

ミナは震える指で光の糸を胸に添え、そっと引いた。 その瞬間、胸の奥で沈んでいた無数の言葉が、静かに浮かび上がった。

湖のように濁っていた心の底から、一つの声が響く。

「……わたし、本当は今日、一人になりたかった。」

それは、ミナの“最初の小さな本音”だった。

光の糸が胸に馴染むと、ミナの影はゆっくり濃さを取り戻していく。 湖の波が落ち着き、光が弱まり始めた。

地上の人々もまた、胸の奥を押さえながら、小さな本音を呟き始めた。

「今日は無理だ……」 「それは違うと思う……」 「ごめん、今は聞けない……」

否定ではなく、境界線。 それはやさしさと同じくらい、誰かと生きるために必要なものだった。

湖が静まり返ると、ナツメはミナに近づき、軽く尻尾で背中を叩いた。

「嬢ちゃん。 やさしさは、全部受け入れることやあらへん。 “違いを持ったまま立つ”ってことなんや。」

ミナは涙を指で拭い、ナツメを見つめた。 その瞳には、自分を取り戻した光が宿っていた。

「……ありがとう。 少しだけ、自分の声が戻った気がします。」

ナツメは空を見上げ、星の浮かぶ夜を眺めながら呟いた。

「ほんまの多様性はな、 みんな違うまま、無理に混じり合おうとせんことや。 境界線は、争いのためやなく…… 自分が沈まんために引くもんなんやで。」

街にはゆっくりと、静かな呼吸が戻っていった。 本音は地面へ沈むことなく、 人々の胸に、薄く灯る光のようにとどまり続けた。

やさしさが飽和した街は、 ようやく“本音を持ったままの優しさ”へと姿を変え始めた。

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