Ⅰ.言葉が“森になる”街
この街では、人が話した言葉が空気の中に薄く残る。 誰かが何かを呟けば、その言葉はしばらく宙に漂い、 やがて重力に負けて地面へと落ちていく。
落ちた言葉は土に染み込み、数日すると小さな芽を出す。 芽はやがて葉をつけ、文章のかたちをした植物になる。 それを人々は文葉(ふみば)と呼んだ。
文葉には“文脈”と呼ばれる太い枝が一本通っている。 その枝が、言葉に重みや意図や温度を与える。 文脈がある文葉は、風が吹いても折れず、揺れの中で静かに耐えている。
だが、時間が経つにつれ、文葉の端では小さく震えるものが現れる。 文脈から切り離された、軽い一片── 切り抜き葉だ。
切り抜き葉は信じられないほど軽く、 ひと吹きの風で街の上空へ飛び立つ。 ときにひとりで、ときに群れで。 まるで意味を探すようにさまよいながら、人々の耳元をすり抜けていく。
街の広場では、飛んできた切り抜き葉が人の頭上で揺れていた。 「嫌い」「疲れた」「最高」「最低」「もういい」 意味を持つはずの断片だけが、単語だけが、軽い羽のように漂う。
ナツメはその様子を静かに眺めていた。 虹色の毛並みが街灯に照らされ、淡く光を返している。
「……せやから言うたやろ。 言葉はな、放っとくと勝手に歩き回るんや。」
ナツメの足元にも、誰かの切り抜き葉が落ちていた。 小さく震えながら、意味を求めているようだった。
街では今日も、文葉が育ち、切り抜き葉が飛び、 本来の意図とは違う形の言葉が静かに増殖していた。
そしてこの日、ひとつの小さな切り抜き葉が、 ある少女の運命を大きく揺らすことになる。
Ⅱ.少女と飛び回る“言葉”
少女の名前はリコと言った。 この街で生まれ、この街のルールに疑問を持たないまま大きくなった。
リコの家の前にも、小さな文葉の鉢植えがある。 家族で話した言葉が土に染み込み、短い会話が一つの木になって揺れていた。
「今日もおつかれさま」「ごはんおいしいね」「明日もがんばろう」 そんな文脈が枝になり、葉には柔らかな言葉が並んでいる。
ある夕方、リコは仕事からの帰り道、ベンチに座り込んで深く息を吐いた。
「……ちょっと疲れただけ」
誰に向けたでもない、独り言だった。 その言葉は空中に滞り、ゆっくりと足元へ落ちていく。
本来なら、「ちょっと疲れただけ」という一文のまま土に染み込み、 小さな文葉として育つはずだった。
だがその瞬間、ビルの隙間を抜けてきた強い風が、 文葉になる前の言葉に横から吹きつけた。
「ちょっと」と「疲れただけ」がばらばらに裂け、 「疲れた」という一片だけが、ふわりと空へ舞い上がる。
それは、リコの知らないところで生まれた最初の切り抜き葉だった。
切り抜き葉は夜の街を漂い、 灯りのついた窓ガラスや、開け放たれたバーの入口をかすめていく。
バーのカウンターでは、誰かが言った。
「リコ、最近“疲れた”ってよく言ってるらしいよ。」
別のテーブルでは、それを聞いた人が、さらに一言つけ足す。
「へぇ、仕事やめたいのかもね。」
切り抜き葉は、耳から耳へ渡されるたび、 少しずつ色と形を変えていく。
夜のカフェでは、誰かのスマホの画面に文字が流れた。
「リコ、もう無理って言ってたって。」
その頃、リコは自分の部屋で、 湯気の消えかけたマグカップを両手で包みながら、ぼんやり窓の外を見ていた。
自分の言葉の一部が街を飛び回っていることなど、知る由もない。
窓の向こうの電線に、虹色の影が乗っていた。 ナツメだ。細い尻尾を揺らしながら、切り抜き葉の軌道を目で追っている。
「……始まったな。 一片だけの言葉は、ようけ誤解を連れて歩く。」
ナツメの足元にも、別の切り抜き葉が擦り寄ってきた。 「最低」「サイコー」「やばい」「もういい」 軽い言葉ほど、よく飛ぶ。
翌朝、リコが出勤すると、同僚が少し心配そうな顔で声をかけてきた。
「ねぇ、大丈夫? 昨日“もう無理”って言ってたって聞いたけど……」
リコは瞬きをした。
「え……そんなこと、言ってないよ?」
同僚は困ったように笑う。
「でも、みんなそう言ってて……。 心配だから、ちゃんと休んだほうがいいよ。」
その会話の頭上で、昨日の切り抜き葉が嬉しそうに揺れていた。 その葉には、もう「ちょっと」も「だけ」も残っていない。
ただひとつ、濃い文字でこう書かれているだけだった。
「リコはもう無理だと言っていた」
Ⅲ.切り抜き葉が暴走する
リコはその日、どこへ行っても優しく声をかけられた。 「無理しないでね」 「辞めたいなら相談してね」 「つらいときは言っていいんだよ」
だがその言葉が、彼女をなぜかさらに追い詰めた。 優しさの裏に、自分が言っていない“何か”が混ざっている気がしてならなかった。
彼女の背後では、昨日の切り抜き葉がふわりと浮かび、 その尾を引くようにして別の切り抜き葉が生まれていた。
- 「リコは仕事を辞めるらしい」
- 「リコはもう限界だって」
- 「前から疲れてたみたい」
まるで繁殖するように、断片は増え続ける。
リコが歩くたびに、切り抜き葉は彼女の背中へ群がり、 薄い膜のように張り付いていった。
通りすがりの人がそれを目にし、呟く。
「あの子……ずいぶん弱ってるんじゃない?」
誰もが、リコ本人よりも“切り抜き葉のリコ”を見つめていた。
昼休み、カフェの窓にも切り抜き葉が貼りついた。
「リコ、泣いてたらしいよ。」
店内の客がその葉に目を留め、ささやく。
「最近は誰でも疲れてるけど…… あの子は特に大変そうね。」
リコはカップを握りしめた。
「わたし……泣いてないのに。」
その言葉を口にした瞬間、彼女の足元にまた新しい文葉が落ちた。 しかし育つ前に、文脈部分が腐ったように崩れ落ち、 断片だけが空へ吸い上げられた。
「泣いてないのに」という切り抜き葉。
その葉は逆説的に解釈され、 他人の心のフィルターを通るたびに意味を変えていく。
「泣いているのを隠してるんだよ」 「きっと誰にも言えない悩みがあるんだよ」
断片はもはや意思を持った生き物のようだった。
夕方、帰宅しようとしたリコの前に、 大きな影が立ちはだかった。
その影は、切り抜き葉が無数に重なってできた“巨大な輪郭”だった。 リコの言葉の断片だけで形成された、 “切り抜きのリコ”とでも呼ぶべき存在。
「リコはもう無理だって言ってた」 「辞めたいんだって」 「弱ってるんだって」 「泣いてたんだって」
断片たちは、本人の声よりも大きな音で喋り続ける。 街の人々は、その巨大な影を“本物のリコ”だと思い込み始めていた。
リコは思わず後ずさる。 足元が崩れそうになる中、 背後でふわりと温かい空気が動いた。
振り返るとナツメが立っていた。 虹色の毛並みはいつもより深い色を帯び、 その瞳は静かに光っていた。
「……リコ。 言葉の断片を放っとくと、こうやって“別のあんた”を勝手に作るんや。」
リコは震える声で問う。
「どうしたら……止められるの……?」
ナツメはゆっくりと答えた。
「止めるんは無理や。 でもな、文脈を照らす方法ならある。」
切り抜き葉が街に満ちる夕暮れの中、 ナツメはリコを連れてある場所へ向かう。
言葉の森の奥、 本来の意味が眠る場所へ──。
Ⅳ.結末──文脈を取り戻す方法
ナツメに導かれ、リコは街の外れへ向かった。 そこには人の背丈ほどの文葉が密集し、 風に揺れるたびにささやく音が重なっていた。
文葉の森── 人々が日々話した言葉が積み重なり、 木々のように成長した場所だった。
森の奥へ進むと、長く太い一本の文樹(ぶんじゅ)が立っていた。 まるで大木のようにそびえ、 幹には人々の“言いたかった言葉”が無数に刻まれている。
だが、その足元には切り抜き葉が大量に落ちていた。 文脈を離れた断片は、木の根を弱らせ、 言葉の大木そのものを枯らしつつあった。
ナツメはその根元に歩み寄り、リコを振り返る。
「リコ。 ここが“文脈の底”や。 本来の意味は、ぜんぶここに残っとる。」
リコは大きく息を呑んだ。 文樹の根からは淡い光が滲み、 触れるとあたたかい脈動が伝わってくる。
「これが……わたしの言葉の“本当の意味”……?」
ナツメは小さく頷き、片方の前足を空へ向けた。 すると、ナツメの爪先から細い光の糸が伸びていく。
「これは“文の灯(あかり)”。 文脈を照らす光や。」
リコの手のひらの上に、 小さなゆらぎを持つ光の種が落ちてきた。
それは不思議なほど軽く、 けれど胸の奥に存在を響かせるような力を持っていた。
「これを、自分の言葉に当ててみ。」
リコは震えながら、光の種を胸元へ押し当てた。
すると、胸の内側からいくつもの声が立ち上がった。
「ちょっと疲れただけ」 「辞めたいわけじゃない」 「つらいけど、まだ頑張れる」
リコ自身の声だった。 切り抜かれ、誤解された言葉の“本当の枝”が、 ゆっくりと姿を取り戻していく。
彼女の頭上にまとわりついていた切り抜き葉たちは、 震えながら文樹の根へと吸い込まれていった。
断片たちは抵抗もせず、 光に触れた瞬間、意味を取り戻して静かに溶けていく。
街で暴れていた切り抜き葉も、 ひとつ、またひとつと文樹へ戻り、根に吸収されていった。
やがて森から風が吹き抜け、 そこかしこに残っていた断片のざわめきが静まる。
リコはゆっくりと息を吐いた。
「……わたしの言葉、戻ってきた。」
ナツメはリコの横に座り、虹色の尻尾をふわりと揺らした。
「切り抜き葉は止められん。 でもな、“正しい文脈を自分で照らしたら、断片は勝手に静まる”んや。」
リコは静かに頷いた。 その背の影は、今までより濃く、はっきりとしている。
「……ありがとう、ナツメさん。」
ナツメは目を細め、夜空を見上げた。
「言葉は全部でひとつや。 一部分だけで決めつけたら、 どんなやさしい言葉でも刃になる。」
リコも夜空を見上げる。 街の遠くで、文樹の枝が静かに揺れ、光が波のように広がっていた。
「——せやからな、リコ。 自分の言葉の“枝ぶり”は、 自分で守ったらええ。」
ナツメの虹色の毛並みが月光を受けて淡く輝いた。 文脈を取り戻した街には、 ゆるやかな呼吸が戻り始めていた。

