宙を舞うラブレター
夕暮れの風が、街のビルの谷間を抜けていく。
空には、封の甘い手紙や小箱がふわふわ漂っていた。赤いリボン、写真、片方だけのイヤリング──どれも重さを忘れて、気まぐれな気流に運ばれていく。
わたし──虹色の毛並みのネコに扮した、ナツメは路地の端でそれを見上げた。
「今日も配達渋滞か。恋の交通整理は、いつも空路やな」
頭上で封筒がくるりと回転し、宛名面がこちらを向く。
『あなたへ(受取人不明)』 とだけ書いてあった。雑だ。だが、雑な愛ほどよく飛ぶ。
そのとき、背後から軽快なベルの音。チリリン、チリン。
振り向くと、小さな三輪の配達カーが止まった。荷台には、心音のように脈打つ小箱が山積みだ。
運転席から飛び降りたのは、レースのヘッドスカーフに作業つなぎというちぐはぐな出で立ちの配達員。名札には大きく、こうある。
『シルクちゃん(愛の再配達担当)』
「やぁやぁナツメさん、風向きが悪いですね。今日の“想い便”は半分が空回りですよ」
シルクちゃんは口笛を吹きながら、空を泳ぐ封筒を虫取り網で回収する。網の目は細い。失言がこぼれないようにできているのだろう。
「受け取り手、見つからんのやろ?」
「ええ。宛先が“気が向いたら”とか“たぶんあの人”とか……。郵便法にも情緒にも違反です」
シルクちゃんは荷台の一番上から小箱を取り、耳にあてて振った。中で“トクン”と鳴る。
「中身は“好きです”の心臓。まだ新鮮ですけど、冷やし過ぎると固まります。再配達、行きます?」
わたしは肩をすくめ、尻尾で風向きを測る。
「ええよ。愛の宅配便に“置き配”はないしな」
そのとき、頭上の雲が開き、未投函の“ためらい”がぱらぱら降ってきた。濡れると足取りが重くなる。
シルクちゃんは胸ポケットから不在票を抜き、さらさらと書きつける。
『ご不在のためお届けできませんでした(理由:心が留守)/再配達のご希望は…ありません』
「返送不可、やな」
「そう。愛はだいたい片道契約です」
シルクちゃんはいたずらっぽく笑い、運転席を顎で示した。
「乗ってください、ナツメさん。風向きが変わる前に、いけるとこまで届けましょう」
わたしは三輪車の荷台に跳び乗り、虹色の毛並みを風にほどく。
宙では、まだいくつもの封筒が、薄い月明かりをすべっていた。
未配達の愛たち
「愛の宅配センター」は、街のはずれにある廃工場を改装した建物だった。
外壁はピンクに塗られているが、ところどころ錆びて涙の跡みたいに剥げている。
中に入ると、仕分け用のベルトコンベアがうねりながら回っていた。
“届かなかった愛”が詰まった小包が次々と流れてくる。
箱には、さまざまなシールが貼られていた。
- 「住所不明:相手が結婚しました」
- 「受け取り拒否:未読スルー中」
- 「転送先不明:想いが冷めました」
ナツメは荷台から降り、封の甘い箱をひとつ拾い上げた。
表面に書かれた宛名は、にじんで読めない。 代わりに、うっすらと残っていた指紋だけが、かすかに温もりを残している。
「開けたらあかんやつやろうけど……気になるんよな」
ナツメが爪先で封をこじ開けると、中からピンク色の煙がふわりと立ちのぼった。
それは“愛”の未使用分。使われないまま消費期限を迎えた想いの残り香だ。
煙は天井に届く前に、くしゃみをした。
「へっくしょん! あー、さみし……」
どうやらしゃべれるらしい。
シルクちゃんがあきれ顔で手を腰に当てる。 「また勝手に開けたでしょ。未開封の想いは繊細なんですよ。刺激を与えると、すぐしゃべる」
「しゃべる想い、便利やな。返品理由きけるやん」 「返品不可です。うちは片道限定の“感情物流”ですから」
仕分けベルトの向こうでは、他の配達員たちが作業している。 “元恋人専用レーン”の係員が、宛先不明の花束を次々に裁断していた。 花びらはシュレッダーを抜けて、天井の風穴から外へ。 風に乗って、見知らぬ人の頭に降り注ぐ。
「あ、なんか急に切なくなった……」 通りがかったサラリーマンがつぶやく。 それを見てシルクちゃんが微笑んだ。 「ほら、再配達成功」
ナツメは笑いながら、バケツを持ち上げた。 「愛ってやつは、どこにでも届くんやな。受け取り拒否されても、風が拾う。」
シルクちゃんは宙を見上げてつぶやく。 「でも、風もいずれ疲れます。想いの運搬には燃料がいりますから」 「燃料?」 「ええ、“まだ好き”という名のガソリンですよ」
ナツメは尻尾をゆらしながら笑う。 「そりゃ、燃費悪いわけやな。」
仕分け台の片隅に、一通の小さな封筒が置かれていた。 宛名には、見慣れない文字でこう書かれている。 『未来のあなたへ ※返送不可』
ナツメとシルクちゃんは顔を見合わせた。 「……この便、再配達リストにないで」 「特別配送かも。行きます?」
ナツメはにやりと笑い、封筒をひょいと拾った。 「せやな。風が止む前に、届けたるわ。」
配達へ出る二人
三輪の配達カーは、街の細い路地をすり抜けていく。
荷台には、再配達予定の“愛の小包”が山積み。 シルクちゃんはハンドルを握りながら、軽快に歌っている。
「届け〜愛の宅配〜♪ 不在ならば〜次の恋〜♪」
「その歌、皮肉やな」 ナツメが助手席であくびをしながら言う。 「皮肉じゃありませんよ。現実です」 シルクちゃんはウィンクして、ブレーキを踏んだ。
最初の配達先は、薄暗いアパートの二階。
ドアノブには“立ち入り禁止”の黄色テープ。 シルクちゃんがノックすると、中から声がした。
「……今さら何のつもり? 愛なんて、もう届かないよ」
「再配達です。前回は“気づけなかった愛”で返送されてます」
シルクちゃんが軽く会釈して箱を差し出す。 ドアの隙間から、やせた指がのびてきて、箱を受け取った。
箱を開けると、中から淡い光が漏れる。 「……あ、これ。わたしが言いそびれた“ありがとう”だ」 その光が部屋を照らすと、壁に貼られたカレンダーの日付がひとつだけ暖かく揺れた。
「完了っと」
シルクちゃんが端末を操作して、伝票に印字する。 『受取済:愛は再燃することがあります』
次の配達先は、人気のない公園。 ベンチの上には、返送ラベルが貼られたクマのぬいぐるみ。 ナツメがそっと持ち上げると、ぬいぐるみがしゃべった。
「ボクは、あの子の“ごめんね”だったんだ。 でも、もう持ち主はいない。今は新しい誰かが笑ってる」
「そうか。ほんま、愛の世界は転職率高いな」 ナツメは苦笑しながら、ぬいぐるみの背中を撫でた。 「ほな、しばらく配送センター預かりやな」 「いいよ。倉庫の中、あったかいし」
車を再び走らせる。
途中、空を見上げると、手紙の群れが雲の間を泳いでいた。 開封済みの封筒たちが、風に吹かれながら重なり合い、空の魚みたいにゆれている。
「あの手紙たち、どこに行くんや?」 「宛先がない愛は、だいたい空気になります。 呼吸のたびに、知らない誰かの“好き”を吸ってるんですよ」
「……そら、恋って伝染るわけやな」 ナツメの毛並みが、ほのかにピンク色に変わった。 風が吹くたび、その色がゆらめき、淡く消えていく。
信号待ちの間、シルクちゃんがぽつりとつぶやいた。 「ほんとは、私にも届けたい相手がいるんです」 「へぇ、どんな人?」 「もうこの世にいませんけど。だから、宛名も書けない」
ナツメは少し黙ってから言った。 「なら、風任せや。だれかの夢の中に届くかもしれん」 「夢の中って、配送エリア外ですよ」 「それでも、誰かが待っとる気がするやろ?」
二人は顔を見合わせて笑った。 そのとき、荷台の中でひとつの封筒が光を放った。 “未来のあなたへ”と書かれた手紙が、勝手に宙に浮かび、まっすぐ夜空へ飛んでいった。
「行っちゃいましたね」 「ええねん。風が決めたんなら、それでええ」 ナツメは小さく笑い、毛並みに残るピンクを撫でおろした。 「愛って、いつも勝手に配達されるもんや」
宛先不明の手紙
夜が更けても、風はやまなかった。
ラブレターの群れは、まるで流星のように街を横切り、 どこにも届かないまま、夜空の隙間でくるくると回っていた。
配達カーは川沿いに停まった。 シルクちゃんはハンドルの上でため息をつく。 「今日の便、残りは一通だけです」
ナツメは助手席の封筒を見た。 『未来のあなたへ ※返送不可』 その文字は光を吸うように沈み、何度見ても、心の奥に刺さった。
「返送不可、か……」 「つまり、“いずれ届く”という意味ですよ」 「ほんまに届くんやろか。未来は、住所不定やで?」
「でも、愛って、宛先がないほど強いじゃないですか」 シルクちゃんは静かに言って、封筒をナツメに差し出した。 「これ、ナツメさんが投函してください。たぶん、そう決まってる」
ナツメはしばらく黙っていた。 川面に映る街灯が揺れて、波紋がひとつ、ふたつ。 それはまるで、かつての恋人の瞳のようだった。
「……“未来のあなた”って、誰やろな」 「さあ。でも、いつか誰かの心に届いた時、その人が宛名になる」 「それ、ええ言葉やな。えらい詩的やん」 「配達員ですから。ラブレターには慣れてます」 シルクちゃんが少し照れたように笑った。
ナツメは封筒をくわえ、ポストへ向かう。 ポストの投入口には、“未来便”と刻まれていた。 郵便番号の代わりに、“000-∞”と書かれている。
ナツメはつぶやく。 「どこにも届かへんかもしれんけど、 届かん想いも、空を流れるうちは生きとるんや」
そう言って、封筒をすっと差し入れた。 ポストの奥から、風鈴のような音が鳴る。 夜の空気が一瞬だけやさしく震えた。
シルクちゃんが小さく拍手した。 「これで今日の便、完了です」 「そうか。……けど、なんやろ。まだ何か、届いてない気ぃするな」 「それが、ナツメさんの荷物なんじゃないですか?」 「わいの荷物?」 「はい。“未配達の詩”って伝票に書いてあります」
ナツメは一瞬、目を丸くした。 そして苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。 「そら、しゃーないな。詩は、いつも宛先不明やから」
川面に浮かぶ月が、封筒の軌跡を照らした。 それはまるで、未来への道しるべのようだった。
宙を舞う愛
風が少し強くなった。 ナツメとシルクちゃんの足元で、封を閉じ損ねたラブレターが一枚、ふわりと浮かび上がる。
「逃げましたね」 「ええねん。愛は、捕まえんほうが生き延びる」
ナツメがそう言って空を見上げると、 雲の切れ間から、数えきれないほどの手紙が光を受けて輝いていた。 青い封筒、破れた葉書、スマホ画面の中で送信されなかったメッセージ。 すべてが夜風に混ざって、まるで星座のような群れをつくっていた。
「シルクちゃん、あれ見てみ」 「うわ……。“想いの群れ”ですね。配送システムが追いつかないと、ああやって溜まるんです」 「ほんなら、あの空こそ“恋の倉庫”やな」 「在庫無限の倉庫です。しかも、賞味期限なし」
シルクちゃんは帽子を押さえ、ため息まじりに笑った。 「……でも、時々怖くなるんです。 もし誰かが全部受け取ったら、どうなるんでしょうね?」
「そんときゃ、世界が燃えるやろな。 でもそれも、たぶん悪くないで」
ナツメは三輪カーのボンネットに腰を下ろし、 尻尾の先で風を撫でた。 その毛並みは、赤・青・金と次々に色を変え、やがて淡い桃色で落ち着いた。
「……届かん愛も、飛ばしときゃええねん。 誰かの夜に刺さるまで、風が持ってってくれる」
「そんな投げやりな投函、初めて見ましたよ」 シルクちゃんが笑う。 「人生、たいてい送料不足やしな」
二人は顔を見合わせ、夜風の中で笑った。 封筒たちは空を漂いながら、少しずつ光の粒へと変わっていく。 それは、まだ届かない“好き”たちの残響。
やがて空には虹のような帯がかかり、 そこを一羽の鳥が横切った。 その翼が、ひとつの手紙を受け取り、どこか遠くへ運んでいく。
ナツメはそれを見送りながら、 「せやな、返送不可。──それでええ」 と小さくつぶやいた。
シルクちゃんが荷台のエンジンをかける。 乾いたモーター音の奥で、風鈴のような音が鳴った。 次の配達先は、まだ誰も知らない。
──ナツメ式 『愛の宅配便(返送不可)』 了。

