ナツメ式|重くなる値札の街──増えない賃金と、不安を食べる数字たち

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値札が呼吸する街

この街では、
値札が夜になると、
わずかに息をする。

誰も触れていないのに、
数字が少しだけ膨らむ。

朝になると、
人々はそれに気づく。

だが、誰も驚かない。

「前から、こんな感じだったよな」

皆がそう言う。

パン屋の棚に並ぶ食パン。
靴屋のショーケースの革靴。
駅前の掲示板に貼られた家賃表。

どれも少しずつ、
確実に太っている。

上がる、というよりも、
育つ、と言ったほうが近い。

数字は、
生き物のように丸みを帯び、
昨日よりも存在感を増している。

人々はそれを見て、
深く息を吸い、
何事もなかったように買い物を続ける。

誰かが言った。

「世界が悪くなったわけじゃない」

別の誰かが続ける。

「ただ、ちょっと重くなっただけだ」

値札は、
その言葉を聞いて、
さらに小さく、息をした。

軽い賃金

仕事を終えると、
人々は賃金を受け取る。

封筒に入った紙幣。
小さな袋にまとめられた硬貨。

数字は、昔と変わらない。

だが、手に取った瞬間、
皆、同じ違和感を覚える。

軽い。

風にでも吹かれたら、
そのまま持っていかれそうなほど、
頼りない重さ。

誰かが封筒を振ってみる。
音が、以前よりも薄い。

「気のせいだろ」

そう言って、
誰も深く考えない。

硬貨を量りに乗せてみる者もいるが、
針は正しい位置を指している。

数字も、重さも、
記録上は変わっていない。

変わっているのは、
手応えだけだった。

人々は、
封筒をポケットにしまい、
市場へ向かう。

太った値札と、
軽い賃金。

そのあいだに挟まれて、
街は、
静かに歩き続けていた。

値札の栄養

市場の奥に、
いつも人が集まらない一角があった。

値札が、
他よりもひときわ太った店だ。

その前で、
二足で立つ虹色の猫が、
しゃがみ込んでいた。

毛並みは、
見る角度によって色を変える。
赤でも青でもなく、
どれでもある。

猫は、
値札を指で軽くつついた。

値札は、
ぷるりと震え、
さらに丸みを帯びる。

「食べ過ぎやな」

猫は関西弁で、
ひとりごとのように言った。

「毎晩、ええもん与えられとる」

通りすがりの人が、
不思議そうに足を止める。

猫は顔を上げ、
にやりと笑った。

「心配や」

「不安や」

「足りんかもしれん、っちゅう気持ち」

猫は、
それらを指で数えるようにしながら、
値札を見つめる。

「それ、全部ここに来とる」

人は首を傾げる。

猫は続けた。

「数字はな、
人の気持ちで育つんや」

「安心が減るほど、
よう太る」

そう言って、
猫は立ち上がる。

「ああ、名乗ってへんかったな」

「ナツメや」

虹色の毛並みが、
市場の光に溶ける。

残された人々は、
太った値札と、
自分のポケットを、
交互に見比べた。

正しい我慢

それから、
人々は少しずつ、
生活の仕方を変え始めた。

先に削られたのは、
小さな楽しみだった。

砂糖を控える。
灯りを早めに消す。
靴底が擦り切れても、買い替えない。

誰かが言った。

「我慢できる人ほど、賢い」

別の誰かが続ける。

「苦しくない顔をしているのは、信用できない」

いつの間にか、
街には奇妙な空気が流れ始めた。

太った値札を見るたび、
人々は互いの袋を覗き込む。

何を買ったのか。
何を我慢したのか。

高いパンを買うと、
視線が集まる。

「あの人は、まだ余裕がある」

そう囁かれると、
値札は、
ほんの少しだけ、また太った。

人々は、
それに気づいていない。

我慢が正しさになり、
正しさが競争になる。

街は、
以前よりも静かだった。

笑い声は減り、
ため息が増えた。

それでも、
値札は痩せなかった。

不安は、
今日もきちんと、
与えられていた。

重さの正体

ある朝、
人々は気づいた。

値札が、
それ以上太らなくなっている。

痩せたわけではない。
ただ、増えなくなった。

街には、
ほっとした空気と、
同時に、戸惑いが流れた。

我慢は、
もう十分にしたはずだった。

なのに、
生活は、
以前の軽さを取り戻さない。

市場の隅で、
ナツメが、
太った値札を眺めていた。

虹色の毛並みが、
朝の光を受けて、
静かに揺れる。

「止まっただけや」

ナツメは、
誰にともなく言った。

「重たいもんは、
そのまま残る」

近くで聞いていた人が、
小さく尋ねる。

「じゃあ、どうすればいい?」

ナツメは、
少し考えてから、
肩をすくめた。

「知らん」

「せやけどな」

ナツメは、
市場の奥を指差す。

そこでは、
誰かが、
少しだけ高いパンを買っていた。

罪悪感を抱えた顔。
それでも、
ほんの一瞬だけ、
口元が緩む。

値札は、
動かなかった。

「不安を食わせへん時間がな」

ナツメは、
ぽつりと続ける。

「いちばん、
ええ栄養失調や」

虹色の猫は、
そう言い残し、
人混みに紛れていった。

街は、
相変わらず重たい。

それでも、
ほんの少しだけ、
呼吸が戻っていた。

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