夜更けの道
夜はもう深かった。
人の足音が消え、街灯だけが仕事をしている時間だ。
男は、誰にも見られないように道の端を歩いていた。
肩から下げた袋は大きく、底を引きずるたびに小さな音を立てる。
窓の向こうでは、いくつもの家に灯りがともっていた。
笑い声が漏れ、食器の触れ合う音が混じる。
男は、その明るさを横目に見ながら歩いた。
近づきすぎないように。
期待される距離を、きちんと保つために。
袋の中身は、来たときよりもずっと軽くなっている。
それでも足取りは重かった。
男は一度だけ立ち止まり、深く息を吐いた。
白い息はすぐに夜に溶け、何も残さなかった。
袋の中身
男は袋を地面に下ろした。
休むつもりはなかったが、腕が勝手にそうさせた。
袋の口は固く結ばれている。
中身を覗く必要はなかった。
何が入っているか、彼自身が一番よく知っている。
それは、欲しがられたものだった。
正確で、期待通りで、間違いのない品々。
男はそれを一つずつ渡してきた。
笑顔と引き換えに。
安心した顔と引き換えに。
だが、袋が軽くなるほど、胸の奥が重くなった。
それは疲労とは少し違う感覚だった。
「足りていただろうか」
男は誰にともなく、そう思った。
望まれた通りに渡した。
それでも、どこかで間違えている気がした。
男は袋の底を指でなぞった。
そこには、最初から入っていないものがある。
それが何か、彼は考えないようにした。
考えてしまうと、また歩けなくなるからだ。
路地裏の猫
男が再び歩き出そうとしたとき、
路地の奥から小さな音がした。
金属でも、風でもない。
何かが、軽く地面に降り立つ音。
男が顔を上げると、
街灯の届かない場所に、猫が立っていた。
ナツメだ。
毛並みは、ひとつの色に定まっていない。
光の当たり方によって、赤くも青くも見える。
二足で立ち、
こちらを見ている。
不思議と、男は驚かなかった。
その存在が、最初からそこにいたような気がしたからだ。
「えらい遅うまで働いとるな」
猫は、男の袋を一度だけ見て、
尻尾をゆっくり揺らした。
「それ、だいぶ軽なっとるのに」
「顔は、まだ重たそうや」
男は、返事を探した。
だが、言い訳の言葉は見つからなかった。
代わりに、
彼は袋の口を握り直した。
「期待されていることを、
ちゃんとやっているだけです」
ナツメは、その言葉を聞いて、
ほんの少しだけ首を傾げた。
「期待ってな」
「渡すもんやなくて、
乗っけられるもんやで」
男は、その違いがわからなかった。
だが、わからないままでも、
胸の奥が、わずかに熱を持った。
ナツメは路地の影に腰を下ろし、
男を見上げた。
「まだ配る気か?」
男は、しばらく考え、
そして小さく頷いた。
ナツメはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、そこに居続けた。
雪の降り方
男が袋を持ち直した、そのときだった。
空から、細かな白いものが落ちてきた。
音もなく、重さもない。
雪だった。
男は足を止め、空を見上げた。
雪は急ぐ様子もなく、
それぞれ勝手な速度で地面へ向かっている。
街灯の光に照らされ、
白い粒はやわらかく浮かび上がった。
男は、その光景を見て、
ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けた。
ナツメが、男の隣に立つ。
「雪ってな、ええよな」
「急がせへんし、
期待もせえへん」
男は、足元に落ちた雪を踏みしめた。
かすかな音がした。
袋の中で、何かが動いた気がした。
男は、戸惑いながら袋の口を緩める。
中には、まだいくつか包みが残っていた。
だが、そのどれにも宛名は書かれていない。
その中に、ひときわ小さな包みがあった。
男はそれを取り出し、掌に乗せた。
「これも、配るものです」
自分に言い聞かせるような声だった。
ナツメは、首を振った。
「それな」
「今日は、配らんでええ」
男は、包みを見つめた。
誰の期待にも合わない大きさ。
誰の希望も書かれていない紙。
雪が、包みの上に一粒、落ちた。
すぐに溶けて、跡だけを残す。
男は、その包みをポケットに入れた。
袋はまだ残っている。
それでも、男は歩き出さなかった。
雪は、少しだけ強くなった。
街の音が、雪に吸われていく。
その夜、男は初めて、
配らない時間を過ごした。
届かなかった夜
雪は夜のあいだ、黙って降り続けた。
積もるほどではないが、街の角を少しだけ丸くする。
男は路地裏に腰を下ろし、袋を足元に置いた。
いつもなら、こんなふうに座ることはしない。
立っているほうが“役に合う”からだ。
ナツメは少し離れた場所で、雪を見ていた。
虹色の毛並みは、街灯の光を受けて淡く揺れる。
男はポケットの中の小さな包みに触れた。
それがあるだけで、胸の奥の冷たさが少しだけ薄まる。
彼は言った。
「今日、配らなかったら……
期待を裏切ることになります」
ナツメは、雪の降る空を見上げたまま答える。
「裏切るってな」
「相手が勝手に決めた地図から外れることや」
男は、苦笑いをした。
「でも、誰かが悲しむ」
ナツメは初めて男のほうを見た。
その目は責めていない。
ただ、事実を見ている。
「悲しみはな、避けられへん日もある」
「せやけど、
その悲しみを、誰か一人に全部背負わせるのは違う」
男は袋の口を見つめた。
残っている包みは、決して多くない。
それでも、今夜は重かった。
しばらくして、男は袋から一つ包みを取り出した。
そして、掲示板の下にそっと置いた。
宛名は書かない。
説明もしない。
ただ、その包みの横に、小さな紙を添えた。
「おつかれさま」
男は自分で書いたその文字を見て、
すぐに視線を外した。
まるで見つかったら困る秘密のように。
ナツメが、短く笑う。
「それでええ」
夜が明けるころ、雪は止んだ。
街の人が少しずつ起き出し、窓を開ける。
いくつかの家で、小さな声が上がった。
「あれ? ひとつ足りない」
すぐに笑い声が混じる。
「きっと、どこかで落としたんだよ」
その言い方は、責める声ではなかった。
不思議と、誰も怒っていない。
西通りの掲示板の下で、
ある子どもが包みを見つけた。
紙には「おつかれさま」と書いてある。
子どもは首を傾げ、そして笑った。
その包みは、誰の手にも渡らなかった。
ただ、その場に置かれ、
その日一日、街の空気を少しだけ柔らかくした。
男は、もう一度だけポケットの包みに触れた。
そして袋を肩にかけ直す。
配るためではない。
ただ、持ち帰るために。
ナツメが、男の隣を歩きながら言った。
「誰かを喜ばせる役はな」
「休んだ日があって、やっと続くんや」
男は返事をしなかった。
返事のかわりに、歩く速度を少しだけ落とした。
街はまだ明るかった。
でも、男の胸の中は、昨夜より少しだけ暖かかった。

