固まる時間の街
この街では、時間が固まる。
誰かが焦った瞬間に。
誰かが取り返しのつかないことを思い出した瞬間に。
誰かが「今すぐどうにかしなきゃ」と歯を食いしばった瞬間に。
時間は、足元に落ちる。
透明で、少し湿っていて、
ゼリーみたいに形を持つ。
最初にそれを見たとき、カイは笑った。
冗談みたいだったからだ。
けれど冗談は、繰り返されると生活になる。
朝、駅前の交差点で。
昼、会社のエレベーター前で。
夜、コンビニのレジの前で。
人が眉を寄せ、肩をすくめ、目を泳がせるたびに、
透明な塊がぽとりと落ちた。
落ちた時間は、踏むとねばつく。
踏んだ靴底に、薄い膜が残る。
それはすぐ乾くが、
乾いたあとも「急いだ感じ」だけが残る。
カイはそれを避けるのが上手くなった。
時間の塊が落ちそうな人の呼吸や、
指の震えや、
視線の焦点の合わなさを見て、
少しだけ距離を取る。
固まるのは、自分の時間だけじゃない。
他人の時間が固まっても、巻き込まれる。
それがこの街の厄介なところだった。
だからカイは、できるだけ淡々と生きた。
焦らない。
追わない。
急がない。
けれど、淡々と生きていても、
時間は勝手に固まる。
ある夕方、カイは仕事帰りの歩道で、
透明な塊につまずいた。
転びはしなかった。
でも、ほんの一瞬だけ、胸がぎゅっと縮んだ。
「……やばい」
その瞬間、足元に、もうひとつ落ちた。
自分の時間だった。
透明な塊は、さっき踏みかけたものより小さい。
けれど、やけに重たく見えた。
カイはしゃがみこみ、指で触れた。
冷たくも熱くもない。
ただ、指先にまとわりつく。
塊の中に、薄い文字みたいなものが浮かんでいた。
読み取れない。
でも、意味だけが伝わってくる。
――間に合わない。
――遅れる。
――置いていかれる。
カイは息を止めた。
そして、息を吐いた。
街は相変わらず動いているのに、
カイの足元だけ、少し沈んだような気がした。
そのとき、背後から、低い声がした。
「それ、拾っとき」
振り向くと、路地の入り口に猫がいた。
虹色の毛並みで、夜の光をまとっている。
やけに落ち着いた目をしていた。
「捨てたらな」
「あとで倍になって返ってくるで」
カイは何も言えなかった。
猫がしゃべったことより、
その言葉が妙に“本当っぽい”ことのほうが、怖かった。
地下の鍋屋
虹色の猫は、
振り返らずに歩き出した。
路地の奥へ。
街灯の届かない、
少し湿った道へ。
カイは、
自分でも理由がわからないまま、
その後を追った。
階段があった。
地下へ続く、
やけに長い階段。
下りるたびに、
街の音が遠ざかる。
車の音も、
人の声も、
やがて消えた。
地下の扉には、
小さな看板がかかっている。
時間鍋
扉を開けると、
そこは広い空間だった。
中央に、
巨大な鍋が置かれている。
黒く、丸く、
縁が少し焦げている。
鍋の中では、
透明なものが静かに煮えていた。
ぼこ、
ぼこ、と、
音がする。
カイは思わず、
ポケットの中の時間の塊を握った。
猫は鍋の縁にひらりと飛び乗る。
虹色の毛並みが、
火の揺らぎで色を変えた。
「焦げつく前に、
持ってくるんや」
カイは、
透明な塊を取り出した。
「これ……どうなるんだ」
猫は鍋の中を覗き込み、
鼻をひくりと動かす。
「煮るんや」
「固まった時間はな、
そのままやと噛まれへん」
「噛む?」
「飲み込む、でもええ」
「どっちにしても、
固いままやと喉に刺さる」
カイは、
鍋の中を見た。
そこには、
無数の透明な塊が浮いている。
大きいものもあれば、
小さな欠片もある。
どれも、
ゆっくりと輪郭を失っていた。
「みんなの時間か?」
猫は、
少しだけ笑ったように見えた。
「みんなのやし、
誰のでもない」
「ここはな、
焦った時間を、
ほどく場所や」
カイは、
自分の塊を鍋に落とした。
ぽちゃん、と音がして、
透明な表面が少し揺れる。
塊は、
すぐには溶けなかった。
けれど、
ゆっくりと角が丸くなっていく。
「急いだ時間ほどな」
「弱火や」
猫は、
鍋の下の火を、
前足でちょん、と調整した。
炎は大きくも小さくもなく、
ただ、
静かに揺れている。
カイは、
鍋を見つめながら、
初めて自分の呼吸が、
少し深くなっていることに気づいた。
煮えないもの
時間の塊は、
鍋の中でゆっくりと形を失っていった。
角ばっていた輪郭が丸くなり、
やがて、
透明な水に溶け込んでいく。
カイは、それを眺めていた。
不思議なことに、
焦りは少しだけ薄くなっていた。
けれど——
鍋の底に、
どうしても溶けない塊があった。
黒く、
硬く、
光を反射しない。
「……あれは?」
虹色の猫は、
鍋の縁から覗き込み、
小さく鼻を鳴らした。
「煮えへん時間や」
「そんなものがあるのか?」
「あるで」
「後悔とか、
言わなかった言葉とか、
間に合わなかった挨拶とか」
カイの喉が、
少しだけ詰まった。
鍋の底の黒い塊は、
微動だにしない。
周りの透明な時間は、
やわらかく溶けていくのに、
それだけは、
沈んだままだった。
「じゃあ、どうするんだ」
猫は、
しばらく黙っていた。
地下の空気は、
静かに揺れている。
やがて猫は、
前足で鍋の縁を軽く叩いた。
「煮えへんもんはな」
「食べるんや」
「……食べる?」
「溶けへん時間は、
飲み込むしかない」
カイは、
言葉を失った。
「飲み込めるわけないだろ」
猫は、
カイを見上げる。
虹色の毛並みが、
地下の灯りを受けて、
ゆっくりと色を変えた。
「せやからな」
「みんな、
焦って鍋を強火にするんや」
「強火にすれば、
溶けると思って」
カイは、
思い当たる節があった。
急いで、
忘れようとして、
働いて、
走って、
次へ行こうとして。
でも、
黒い塊は、
焦げるだけで、
消えなかった。
鍋の底で、
小さく、
カチ、と音がした。
黒い塊が、
ほんの少しだけ、
ひび割れた。
「……」
カイは、
息を止めた。
「時間はな」
「溶けるもんやない」
猫は、
ぽつりと言った。
「柔らかくなるもんや」
セクション4:やわらかい時間
鍋の底の黒い塊は、
完全には消えなかった。
けれど、
ひびの入った表面は、
もう石のようには見えなかった。
カイは、
ゆっくりと柄杓を手に取る。
透明になった時間のスープを、
そっとすくった。
口に運ぶ。
味はしない。
でも、
胸の奥が、
少しだけ静かになった。
「これで、前に進めるのか?」
虹色の猫は、
鍋の縁からひらりと降り、
カイの足元に座った。
「前に進むって、なんや?」
「昨日より、
速くなることか?」
「昨日を消すことか?」
地下の天井から、
ぽたり、と水滴が落ちる。
猫は、
その音を聞きながら言った。
「時間はな」
「追い越すもんやない」
「抱えて歩くもんや」
カイは、
鍋の底に残った黒い塊を見つめた。
完全には溶けない。
けれど、
もう鋭くはない。
触れれば痛いかもしれない。
でも、
握れないほどでもない。
「……持って帰っていいか?」
猫は、
目を細めた。
「それはな」
「最初から、お前のもんや」
地下の扉が、
ゆっくりと開く。
外の空気は、
まだ少し冷たい。
カイは、
鍋を抱えずに、
ただ、黒い塊だけをポケットに入れた。
不思議なことに、
それは重くなかった。
街に出ると、
時計塔はいつも通り回っている。
誰も、
時間を煮ている者などいない。
虹色の猫は、
どこかへ消えていた。
ただ、
カイのポケットの中で、
黒い塊が、
ときどきやわらかく脈打った。
それは、
消えなかった時間だった。
そして、
もう急がなくていい時間でもあった。
ナツメ式|時間鍋
時間は、煮ても消えない。
けれど、
火を弱めれば、
少しだけやわらかくなる。



