Ⅰ.笑っていい役がいる町
その町では、毎朝きまって放送が流れた。
広場のスピーカーから、穏やかな声が響く。
「本日も、町の安心は保たれています。 皆さま、どうぞ落ち着いてお過ごしください。」
人々はその声を聞くと、ほっと息をつく。 不安がないわけではない。 ただ、不安の向け先が用意されている。
放送は続く。
「なお、本日の“笑っていい役”は── 西通りの掲示板に掲示されています。」
それを聞いて、誰も驚かない。 子どもも、大人も、 ただ自然に西通りへ向かう。
掲示板は古く、 何度も貼り替えられた紙の跡が残っていた。
中央に一枚、 今日の札が貼られている。
「本日の役:笑っていい役」
その下に、名前は書かれていない。 代わりに、 いくつかの条件だけが並んでいた。
- 空気を乱さない人
- 怒らない人
- 反論しない人
- 冗談を冗談として受け取れる人
条件を読んだ人々は、 互いに顔を見合わせ、 小さく頷き合う。
「ああ、あの人だな」 「今日も大丈夫そうだ」
誰も名前を口にしない。 だが、誰もが同じ人物を思い浮かべていた。
その人物は、 町の中で特別に目立つ存在ではない。
声が大きいわけでもなく、 主張が強いわけでもなく、 いつも少し遅れて笑う。
失敗しても、 空気を読んで先に謝る。
人々は、その様子を見ると安心した。
「あの人なら、笑ってもいい」
そう思うことで、 町は今日も穏やかに回り出す。
西通りの端、 放送塔の影に、 虹色の毛並みをした猫が立っていた。
二足で立ち、 町を静かに見下ろしている。
「……便利な役やな。」
猫――ナツメは、 掲示板の札を一瞥し、 小さく尻尾を揺らした。
「安心するために、 誰か決めなあかん町もあるんや。」
朝の光の中、 人々はそれぞれの場所へ散っていく。
誰かを笑っていい一日が、 何事もなく始まった。
Ⅱ.向いている人
その人は、朝の放送が終わる頃には、 もう自分が“今日の役”だと気づいていた。
名前は特別に呼ばれない。 ただ、視線の集まり方でわかる。
通りを歩くと、 いつもより少しだけ笑われる。
露骨ではない。 ほんの少し、 冗談のついでに添えられる程度だ。
「今日も調子どう?」 「いやあ、相変わらずだね」
その言葉のあとに、 小さな笑いが必ずついてくる。
彼は、それに気づいていないふりをした。
気づいていると認めてしまうと、 空気が壊れる。
彼は、空気を壊さない人だった。
市場で、 彼はうっかり商品を落とした。
瓶が割れ、 中身が地面に広がる。
周囲が一瞬、静まる。
彼はすぐに頭を下げた。
「すみません。 ぼくの不注意です。」
誰も責めていない。 だが、その謝罪を合図に、 笑いが起きた。
「ほら、今日の役だ」 「そうそう、らしいね」
笑いは軽く、 悪意はない。
だから彼も、 笑って返す。
「今日はそういう日みたいです。」
その言葉を聞いて、 周囲はさらに安心した。
――やっぱり向いている。
昼過ぎ、 彼は西通りの掲示板の前に立っていた。
札はまだ貼られている。
「本日の役:笑っていい役」
彼はそれを、 じっと見つめる。
自分の名前はない。 だが、 いなくても困らない名前だと思った。
そのとき、 背後から声がした。
「断らへんの?」
振り返ると、 虹色の毛並みをした猫が立っていた。
二足で、 少し首を傾げている。
「札、外してもええんやで。」
彼は一瞬、考えた。
だが、すぐに首を振る。
「今日は、みんな忙しそうだから。」
ナツメは、 その答えを聞いて、 何も言わなかった。
ただ、 少しだけ目を細める。
「……せやろな。 向いとる人ほど、 自分から降りへん。」
彼はその意味を、 まだ知らなかった。
その日一日、 彼は何度も笑われ、 何度も謝り、 何度も冗談にされた。
それでも、 町は平和だった。
だから彼は、 役を続けた。
誰かが安心できるなら、 それでいいと思った。
Ⅲ.笑いが役を飲み込む
翌朝も、放送は同じ調子で始まった。
「本日も、町の安心は保たれています。 皆さま、どうぞ落ち着いてお過ごしください。」
人々は頷き、いつも通りに歩き出す。
ただ、違っていたのは、 西通りへ向かう足の速さだった。
掲示板の前には、昨日より人が集まっていた。
札を見て、誰かが笑う。
「まだ続くんだ」 「向いてるからね」
札には、今日も名前が書かれていない。 それでも皆、同じ人物を思い浮かべる。
彼は市場へ向かっていた。
途中で、子どもが彼の前に飛び出す。
「ねえ、今日も役なの?」
彼は笑って頷いた。
「そうみたいだね。」
子どもは安心したように笑い、駆けていく。
市場では、彼にだけ値札が二重につけられていた。
ひとつは普通の値段。 もうひとつは、少し高い値段。
店主が、悪びれずに言う。
「今日の役だからさ。 ほら、笑っていい日だろ?」
周囲が笑う。
彼は一瞬、言葉を失った。
だが、空気が固まる前に、 彼は自分から笑った。
「じゃあ、今日は高い方で。」
その瞬間、市場の空気が軽くなった。
人々はさらに安心し、さらに笑う。
彼は代金を払いながら、 自分の中の何かが薄くなっていくのを感じた。
夕方、彼は仕事先で小さなミスをした。
書類の数字を一つ、入れ替えてしまっただけだ。
本来なら、確認して直せば済む。
しかし同僚は、それを見て笑った。
「あーあ。 ほら、やっぱりそういう役だよ。」
笑いが広がる。
彼は言い返そうとした。
「これは役じゃなくて、ただのミスだ」 そう言えばいい。
だが、口を開いた瞬間、 周囲の目が少しだけ冷たくなる。
「真面目になるなよ」
誰かが、笑いながら言った。
「今日の役、忘れてない?」
その言葉で、彼の言い返しは止まった。
自分が真面目になればなるほど、 空気が壊れる。
空気が壊れれば、 町が不安になる。
不安になれば、 役が必要になる。
彼は、黙って頭を下げた。
「すみません。 ぼくの不注意です。」
笑いが戻る。
安心が戻る。
彼はその音の中で、 自分が“人”として扱われていないことに、 はっきり気づいた。
帰り道、彼は西通りの掲示板の前に立った。
札の下に、新しい注意書きが増えていた。
「本日の役:笑っていい役」
「※役の人は、説明不要」
「※役の人は、謝罪推奨」
「※役の人は、空気を乱さないこと」
彼は、その文字を見つめた。
説明不要。
謝罪推奨。
空気を乱さない。
――つまり、黙って笑われろ。
背後で、足音がした。
振り返ると、ナツメがいた。
虹色の毛並みは薄暗い夕暮れの中で、 少しだけ沈んで見えた。
「……なぁ。 だいぶ“役”が育ってきたな。」
彼は苦笑いをした。
「みんなが安心できるなら、いいかなって。」
ナツメは、掲示板の注意書きを見て、 目を細めた。
「安心ってな、 誰かを“触ってええもん”にした瞬間から、 もう安心やないんよ。」
彼は、その言葉の意味を理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
理解した瞬間、 町の平和が嘘になるからだ。
夕闇が濃くなり、 西通りの掲示板だけが妙に明るく見えた。
札は風に揺れながら、 まるで呼吸するように、 ひらひらと音を立てていた。
Ⅳ.役を外す日
その夜、町はいつもより静かだった。
酒場の笑い声は小さく、 通りを歩く足音も控えめだった。
人々はどこか落ち着かない様子で、 何度も掲示板の方角を気にしていた。
彼は、西通りの端に立ち、 札を見つめていた。
「本日の役:笑っていい役」
その下に並ぶ注意書きは、 もう読まなくても頭に入っている。
彼は、ゆっくりと札に手を伸ばした。
外すつもりは、なかった。
ただ、 触ってみたかっただけだ。
札は、思ったよりも軽かった。
紙一枚。
それなのに、 町の空気が一瞬、止まった。
遠くで、誰かが息を呑む音がした。
彼は、札を掲示板から剥がした。
その瞬間、 風が吹き抜け、 通りの灯りが一斉に揺れた。
町の人々が集まってくる。
「どうしたんだ?」 「今日の役は?」
彼は、札を手に持ったまま、 小さく頭を下げた。
「今日は、 役をお休みします。」
沈黙が落ちる。
誰も怒らない。 誰も責めない。
ただ、 町の安心が行き場を失った。
人々は互いに顔を見合わせ、 そわそわと視線を泳がせる。
誰かが、小さく言った。
「……じゃあ、今日は誰が?」
その問いに、 誰も答えられなかった。
しばらくして、 人々は静かに散っていく。
安心のない夜を、 それぞれが抱えたまま。
掲示板の前に残ったのは、 彼と、ナツメだけだった。
ナツメは、札を見て、 尻尾を一度だけ揺らした。
「役、外したな。」
彼は頷いた。
「正しいことをしたかは、 わかりません。」
ナツメは、少し考えるように空を見上げた。
「正しさの話やない。」
「笑ってええ相手がおらん夜はな、 ちょっと怖い。」
「でもな、 その怖さを誰にも押し付けへん夜は、 たぶん、 ちゃんとした夜や。」
彼は、その言葉を胸にしまった。
翌朝、放送は流れなかった。
スピーカーは沈黙したまま、 町は自分で音を探し始める。
掲示板には、 何も貼られていない。
代わりに、 風に揺れる紙切れが一枚、 地面に落ちていた。
それは昨日の札だった。
誰かが拾い、 また貼るかもしれない。
あるいは、 別の役に書き換えるかもしれない。
ナツメは、 その様子を遠くから見て、 小さく呟いた。
「安心ってな、 みんなで抱えるもんや。」
「一人に持たせた瞬間、 それはもう、 安心やのうて、 ただの都合や。」
虹色の猫は、 朝の光の中へ歩き出した。
誰かを笑っていい町は、 その日、 少しだけ静かになった。

