失恋バス停で目を覚ます
目を開けたら、わたしは知らん町のバス停に座っていた。
屋根は錆びて、ベンチには落書きがびっしり。
「バカ」「好き」「もう嫌い」──その三語だけで埋め尽くされとる。
隣に座るのは、誰かの影のような人たちや。
顔はかすれていて、輪郭は薄い。
でもポケットの中にはみんな、写真や手紙を握りしめている。
──どうやらここは、失恋を待つ者だけが集まるバス停らしい。
バス停の時刻表を見上げると、数字が逆さまに流れていた。
午前八時が七時に、七時が六時に、ずるずると巻き戻っていく。
行き先はすべて「過去」。
行き止まりに書かれていたのは、ただひとこと──
「さよなら行き」。
「ふむ……ここでは別れに乗車券が要るんやな」
わたしは口笛を吹いて、境界をまたいだ。
さよなら行きの待合所
ベンチには五人ほどの人影が腰を下ろしていた。
ひとりは携帯を握ったまま、未送信の「好きです」を延々と打ち続けている。
画面は光っては消え、消えては光り、指先は止まらない。
別の影は、花束を抱えていた。
ただし花はすべて折れており、リボンの結び目から黒い水が滴り落ちている。
「渡せんかった花は、いっそ呪いに変わるんやな」
わたしが呟くと、影はうなずいて花束をバス停のゴミ箱に押し込んだ。
するとゴミ箱は「ありがとう」と低い声で返事した。
時刻表の掲示板には奇妙な言葉が並んでいる。
「振られた午前5時便」
「ブロック通知 午後9時発」
「自然消滅 深夜1時行き」
どの便も遅延マークが点滅していて、待っている影たちは苛立つことなく、むしろ安堵している様子だった。
「なるほど、終わりをもう一度確かめたいんか。
あるいは、まだ乗らんで済む言い訳を探してるんかもしれんな」
わたしはベンチの背にもたれ、逆流する数字を目で追った。
逆流する時計
バス停の横には、町外れに似つかわしくない巨大な時計台がそびえていた。
針はカチリカチリと音を立てながら、逆向きに回っている。
分針が戻るたび、人影たちのポケットから過去の恋が滲み出した。
ある女の影の肩には、昔の恋人の手が乗った。
だが時が巻き戻ると、その手は透けて消え、女の影は泣き顔に戻る。
隣の男の影は、何度もプロポーズを繰り返していた。
「結婚してください!」と声をあげるたび、彼女の影は振り返らず、時計の音にかき消された。
針が一巡するごとに、「別れの瞬間」だけが強調されて再生される。
──愛していた時間はすべて削ぎ落とされ、最後の「さよなら」だけがループするのだ。
わたしは笑った。
「失恋とは、逆再生のミュージックビデオやな。
イントロもサビも飛ばして、エンディングだけ何度も流す。
せやから余計に耳に残るんやろ」
その瞬間、時計台の文字盤がめくれ、巨大な瞳がこちらを覗いた。
「まだ乗らんのか?」と低い声が響き、針はさらに勢いを増して逆回転を始めた。
影たちの恋バナ
逆流する時計の影響で、バス停に座っていた人々の輪郭が少しずつ鮮明になってきた。
その中に見知った顔が混じっていた。
ソウタの影は、ウクレレを膝に抱えている。
「おれ、一目惚れしたときの気持ちがまだ抜けなくて……。
でも相手にはもう彼氏がいるんだ」
影はふわっとした声で言った。
時計が逆回転するたびに、彼の弦は切れて、また張り直され、音にならず消えていった。
ミカコの影は、カウンター席の女みたいに腕を組んで座っている。
「恋なんて、続くか続かないかの二択でしょ。
失恋はただの“期限切れ”。それだけよ」
影の口調は冷静だったが、足元に積まれた無数のメールの下書きが彼女の未練を暴いていた。
未送信の「元気にしてる?」が、青白い光で足元を照らしていた。
その横で、ワニオの影が正座していた。
「失礼ながら……この失恋バス停、まるで“恋愛という交通網”の縮図のようですな」
彼は哲学者ぶった口調で語り始める。
「つまり、恋は乗車、失恋は下車。では転機とは乗り換えでしょうか?
ただ、わたくし爬虫類ですので、切符を持つ習慣がなく……」
と真面目に語るワニオに、ソウタとミカコの影が一瞬だけ苦笑した。
──影にも笑いがあるのか。
わたしは鼻で笑い、ベンチに深く腰を下ろした。
ナツメ流・失恋の定義
時計台の針がついにゼロ時を指した瞬間、バス停全体が大きく揺れた。
「さよなら行き」のバスがやってくる──そう誰もが思ったが、道路は空っぽのままやった。
ソウタの影がぽつりとつぶやく。
「おれ、やっぱり乗れないかも」
ミカコの影は肩をすくめた。
「乗らなくてもいいのよ。次の便は、きっと自分で歩いて行ける場所にある」
そしてワニオが真顔で言った。
「つまりこの路線は“恋愛一方通行”ではなく、“環状線”なのでは?
終点に見えて、また始まりに戻る。まるでラーメン替え玉システムのようですな」
誰も返事をせず、ただ失笑がこだました。
わたしは煙草のように境界を吸い込みながら笑った。
「失恋とは、時刻表の書き間違いや。
遅れて来るかもしれん未来を、勝手に早く終わらせただけ。
──せやから人は、何度でもこのバス停に戻ってくるんやろな」
時計の針が止まり、時刻表の文字がすべて真っ白になった。
バスは来ない。
けれど、バス停にいた影たちは少しだけ軽くなったように見えた。
夜明けの光が差し込む。
わたしはベンチから立ち上がり、境界の向こうへと歩き出した。
振り返ると、バス停の屋根に大きく落書きが浮かんでいた。
「また来世で会おう」と。
──ナツメ式「失恋バス停と逆流する時計」 了。

