音のない市場
その日、ナツメが迷い込んだのは――音のしない市場だった。
屋台は並んでいる。看板も出ている。呼び込みもいる。 けれど、どの口も開いているだけで、声が出ていなかった。 口パクのまま値下げ交渉し、口パクのまま笑い合い、口パクのまま怒っている。
ナツメは虹色の毛並みをふるわせて首をかしげた。
「……ミュート商店街か? どこ押したら音出るんやろ。」
よく見ると、通りの上にでっかい張り紙がぶらさがっている。
『本日より “ことば” は有料化されました。必要な方は沈黙販売所までお越しください。』
ナツメは思わず笑った。 「ことばが有料なんはまだわかるけど、なんで沈黙を売るねん。逆ちゃう?」
すると隣の屋台の男が、口パクで「しーっ」とやってきた。 その指先には、ちいさな値札がぶら下がっている。 『いまのしーっ 3秒沈黙:2愛貨』
「……沈黙、たっか。」
この街では、みんながしゃべりすぎた。 SNSでも、会議でも、恋人同士でも。 “言っておいたほうがいいこと”を無限に言い続けた結果、 今度は「何も言わないこと」が高級品になったらしい。
店先には、こんな商品が並んでいた。
- 5秒沈黙パック……1愛貨
- 「謝らないで済む静けさ」……3愛貨
- 「本当は好きだけど言わない権」……高額・予約制
ナツメはきょろきょろと見回した。 「なるほどな。ことばが値崩れしたんや。 “好き”も“ごめん”も“わかる”も、打ち放題でタダになってもうたから、 逆に沈黙にプレミアついたわけや。」
そのとき、通りの奥から、ひときわ静かな気配が近づいてきた。 音がしないのに、歩くたびに周囲の声がスッと消えていく。 まるで、歩く消音ボタン。
沈黙を販売する男だった。
沈黙を売る男
男は長身で、黒いスーツを着ていた。 胸元には小さな名札が光っている。
「株式会社サイレンス・エクスポート 営業部長」
ナツメは首をかしげた。 「会社にすんの、そこ? 静けさって輸出できるんやな。」
男はまったく口を動かさず、ただ指先で空中をなぞった。 すると、そこに文字が浮かび上がる。まるで思考が可視化されたみたいに。
『沈黙は需要過多です。みな、しゃべりすぎました。 今は“何も言わない勇気”が、最も高く取引されています。』
ナツメは尻尾で宙を叩いた。 「うーん……それ、わかる気もするけどな。 でも、ほんまに黙ってばっかりやと、誰も何も伝わらへんやろ?」
男は少しだけ目を細め、再び指で文字を描いた。
『伝わらないことに価値がある時代なのです。 わからないまま、誤解のまま、静かに終わる関係が、最も高く売れる。』
「はあ……それ、売る方もしんどない?」
男のスーツの内ポケットから、黒い小瓶が見えた。 ラベルにはこう書かれている。
『純度100%の沈黙(高級恋愛用)』
ナツメは吹き出した。 「“高級恋愛用”て、なんや。 どうせ“言葉にしなくても伝わる”とか、そういうやつやろ。」
男は軽く会釈し、指で「Yes」と書いた。 そしてもうひとつ、小さな白い瓶を取り出した。
『試供品:別れの直前に使う沈黙(2秒用)』
ナツメはそれを見て、すこしだけまぶたを伏せた。
「……なるほどな。愛の最後って、だいたい言葉より静けさの方が残るもんな。」
男は軽くうなずき、小瓶を差し出した。 ナツメは受け取らずに、少し笑って言った。
「いらん。わしはもう、だまる練習は十分してきた。」
その声を聞いた瞬間、男の影が一瞬だけ揺らいだ。 周囲の空気がざわめく。まるで、静けさが“怒った”みたいに。
ナツメは耳をピンと立てた。 「……あんた、沈黙に取り込まれすぎてるんちゃう?」
沈黙の暴走
その瞬間、街全体がぐらりと揺れた。 周囲の人々の口が、ぱくぱくと動いているのに――何も聞こえない。 いや、もう“音”という概念そのものが削除されたのだ。
沈黙を売る男のスーツが波打つように膨張し、胸のあたりがぱっくりと裂けた。 そこからあふれ出したのは、まるで黒い靄のような“静寂のかたまり”だった。
それは見る間に人の形を失い、路地の隙間にまで染みこんでいく。 触れた看板から文字が消え、道の名前が消え、 最後には人の影までもが、音のない泡みたいに弾けて消えた。
ナツメは舌打ちした。 「ほら見ぃ。黙りすぎて世界がフリーズしてもうた。」
足元で、地面の模様が微かに震えている。 見ると、アスファルトに埋め込まれた標識が震えながら浮かび上がった。 そこには、ひとつの短いメッセージが刻まれていた。
『発言権、期限切れ。沈黙が全額支配しました。』
「しゃあないな……。静けさ、返金や。」
ナツメは前足を広げ、空気をゆっくりかいた。 その動きに合わせて、虹色の毛並みがざわりと光る。 まるで“沈黙”と“音”の境目を撫でるように、世界がゆらめいた。
遠くで、小さな「コトリ」という音がした。 それはこの世界で何時間ぶりかの“音”だった。 一斉に鳥が羽ばたき、屋根の上で誰かが息を飲む。
男は膝をつき、呆然とナツメを見た。 そして、かすれた声で初めて言葉を発した。
「……ありがとう。」
ナツメはしっぽを揺らしながら、にやりと笑った。 「ええんやで。沈黙も使いすぎたら爆発するねん。」
空気に音が戻ると、遠くの屋台から小鳥の鳴き声と笑い声が重なった。 市場の空気が少しずつ温まり、沈黙がただの“休符”として溶けていく。
男は最後の力でナツメに尋ねた。 「あなたは……いったい何者なんです?」
ナツメは肩をすくめ、淡々と答えた。
「言葉にならんもんの通訳者、ってとこや。」
そう言って、虹色の光を残しながら消えた。 風が吹き、街のどこかで鈴のような音が鳴った。
――世界が、ようやく静かにしゃべりはじめた。
静けさのあとで
翌朝、音の戻った市場は、まるで嵐のあとみたいにやけに静かだった。 いや、正確には“静かさが自然な音として馴染んでいた”。
屋台の客たちは少し控えめに話し、 それでも誰かが笑えばちゃんと響いた。 ひとつひとつの言葉が、音符みたいに浮かんでは消えていく。
沈黙を売っていた男の姿は、もうなかった。 代わりに、木の箱がひとつだけ残されていた。
ナツメが箱の蓋を開けると、中には小さな紙が入っていた。 『ご利用ありがとうございました。沈黙は返品できません。』
「返品不可、か……。まあ、音も沈黙もどっちも必要やもんな。」
ナツメはしっぽで箱を軽く叩いた。すると箱の中から“音のかけら”がこぼれた。 それは誰かの「おはよう」と、誰かの「好きだよ」と、誰かの「ごめんね」が 混ざったような、不思議な響きだった。
「結局、静けさも音も、誰かを想う気持ちの裏表か。」
ナツメは空を見上げた。 雲の隙間に虹色のラインが伸びている。 その光が猫の毛並みに反射して、まるで世界が一瞬、息を止めたみたいだった。
やがてナツメは、ぽつりと呟いた。
「沈黙を大事にできるやつほど、ちゃんとしゃべれるんやと思うで。」
市場の空気が、やさしく笑ったように感じた。
そして遠くの街角で、どこかの屋台が新しい看板を立てた。
『音と沈黙、両方あります。セルフサービスです。』
ナツメは満足そうに頷き、尻尾で風をなぞって歩き出す。 その足跡からは、かすかな“余韻”の音が響いていた。
――沈黙は消えたわけじゃない。ただ、ちゃんと居場所を見つけただけだった。

