ナツメ式|時間のかけらスープ ― 過ぎ去った時間は、味がする。

ナツメ式|時間のかけらスープ

目次

Ⅰ.時の屋台

夜の商店街は、時間の落し物でいっぱいやった。時計の針、カレンダーの切れ端、誰かの「また今度ね」。それらが風に舞って、ガムテープみたいに足にくっつく。

わたし──虹色の毛並みの猫に擬態したナツメは、尻尾で針をはじきながら歩いていた。
「せやな。人間は、いらん時間をよく落とす。」

路地の奥に、一つだけ灯りがついていた。
看板には、手書きの字でこう書かれている。

『時間スープあります』

木の屋台や。鍋の中では、懐中時計がぐつぐつ煮えていた。金属の匂いと出汁の香りが入り混じって、どこか懐かしい。鍋のふちには、砂時計の砂がこぼれて湯気と混ざっている。

わたしは鼻をひくつかせて言う。

「時間、食べられるんか?」

屋台の主は、顔の半分がしわくちゃで、もう半分が真っ白のままだった。
「食べられるとも。忘れた時間は煮込むと甘くなる。焦がした思い出は苦い。どっちも栄養になる」

彼の手元では、木のスプーンが音もなく回っている。その回転は、秒針よりも正確やった。
屋台の奥、棚の瓶には「五年前の春」「付き合う前」「もう戻らん夜」などとラベルが貼られている。

わたしは腰を下ろし、スープ皿を受け取った。中には透き通った液体。よく見ると、液体の中で小さな針が泳いでいる。

「……チクチクする味がしそうやな。」

屋台主は笑った。「舌の上で、ちょっと過去が動くだけですよ。」

スプーンを口に近づけると、湯気の中に誰かの声が混じった。
『間に合わなかったね』『あのとき言えばよかった』
言葉は溶けかけた砂糖みたいに淡く、けれど舌の奥で確かに刺さる。

ナツメの毛並みが、ゆっくりと金色に染まっていく。
「……ぬくいな。けど、これは今の温度やない。」

そのとき、屋台の隅から声がした。

「マスター、今日も“あの時間”ありますか?」

新しい客が来た。目の下に深いクマをつくった男。背中には古びた時計の影が貼りついている。 その影が、ゆっくりと秒針を刻んでいた。

Ⅱ.時間を食べる客たち

男は屋台のベンチにどかりと腰を下ろした。背中の影が、ゆっくりと湯気の中に溶けていく。

「“三十年前の朝”をください。」

マスターは棚の瓶を一つ取り出し、慎重に蓋を開けた。中からは、ほんのりとパンとコーヒーの香りが立ち上る。 鍋の中にそれを垂らすと、時計の針が小さく跳ねた。

「よく煮込んであります。焦げつかないよう、ゆっくり思い出してくださいね。」 男は頷き、スプーンを手に取る。 一口すするたびに、肩が震える。目の奥が、遠くの朝を映していた。

「……あの人の作ったトーストの味だ。焦げと愛情の比率、完璧だった。」 その声がふるえて、スープの中にまた一滴、過去が落ちる。

マスターは静かに言った。 「思い出は、飲み干すまでは今のものです。」

ナツメは尻尾でテーブルをたたいた。 「おもしろいな。人間は、時間をもどすために、胃を使うんや。」

次の客は、目元を布で隠した若い女やった。 「“昨日”を半分だけください。全部はまだ、怖いから。」 マスターは、スープ皿の片側だけに光る液体を注いだ。 片側は透明、もう片側は闇色。匙を入れると、境界で“ためらい”が波打った。

女はそれを口にして、ゆっくりと笑った。 「……あ、ちゃんと生きてたんだ、昨日の私。」 その笑いが、湯気の粒を少し明るくした。

ナツメは屋台の上に乗り、覗きこむ。 鍋の中では、小さな砂時計たちが泳いでいる。 砂の一粒一粒が、誰かの“過ごし損ねた時間”のようや。

「ほな、次はわしの番か。」

ナツメは前足でカウンターを叩いた。 「虹色の猫の時間、どんな味やろな。」 マスターは驚いたように眉を上げた。 「猫の時間は珍しい。命の速度が違いますから。」

ナツメは笑った。 「命の速度、か。わしは生まれてからいまだに“朝”が終わらん気ぃするけどな。」

マスターは少し考えて、銀の匙を差し出した。 「では、“まだ終わらない朝”を一杯どうぞ。」

スープは淡い青色。 湯気のなかで、ナツメの毛並みがひととき白く透けた。 舌にのせると、静かな音がした。 それは秒針の鼓動でも、心臓の鼓動でもなかった。 “時間がため息をつく音”やった。

「……やさしいな。味はあんまりせんけど、沁みる。」

屋台の外では、風が止んでいた。 通りに落ちていた時計の針が、ひとつ、またひとつ、ゆっくり回り出す。

そのとき、鍋の底がかすかに鳴った。 音は脈のようで、時間そのものが息をしているみたいやった。

Ⅲ.溶ける時間

突然、屋台の時計たちが一斉に狂い出した。 柱時計は踊り、懐中時計は蓋を叩き、デジタルの数字は逆流していく。 秒針が空を泳ぎ、分針が鍋の中へと落ちた。

マスターが叫ぶ。「火を弱めろ! 時間が煮詰まってる!」 けれど鍋の中では、すでに何かが沸騰していた。 ぐつぐつという音に混ざって、笑い声やため息が泡になって弾けていく。

通りの石畳が柔らかく波打ち始めた。 地面が溶け、屋台ごと液体のように沈んでいく。 ナツメの毛並みも、虹色から半透明に変わり、光を飲み込みながらにじんだ。

「おいおい、わしまで煮込む気かい。これ、猫舌やぞ。」

マスターは必死に鍋の蓋を押さえた。 「時間が、こぼれ出してる……!」 こぼれた液体は路地を伝い、人々の足元へ流れ込む。 それに触れた者はみな、自分の過去に溺れた。 女は昨日を抱きしめ、男は十年前の朝に跪き、子どもはまだ来ない未来の光を追いかけた。

ナツメはその流れの中で、小さな銀のスプーンを拾い上げた。 湯気の奥で、自分の影がゆっくり溶けている。 「影も時間の一部なんやな。ほんま、よくできた仕組みや。」

ふと、鍋の縁に小さな泡が浮かんでいるのを見つけた。 泡の中には、“まだ過ごしていない時間”が閉じ込められていた。 空白のまま、未来の味が眠っている。

ナツメはスプーンでそっとそれをすくい、口に運んだ。 ぬるくて、無味やった。けれど、どこかあたたかい。

「未来ってやつは、味がないから、ようやく食べやすいんやな。」

液体化した時間はさらに勢いを増し、屋台の屋根を越えて空へ昇った。 夜空に浮かぶ月の輪郭が、湯気のように歪む。 その中に、何百もの針が浮かび上がり、金色の魚みたいに泳ぎ出す。

マスターは笑った。「こりゃあ、だいぶ煮えたな。これが世界の“茹で上がり”か。」 ナツメは軽く尻尾を振る。「ええ出汁出とるわ。きっと明日のスープも濃いで。」

人々がそれぞれの過去に沈み、屋台は蒸気のように溶けていく。 鍋の中では、最後の砂時計が逆さまになり、砂が空へとこぼれていった。 その砂は星に似ていた。

時間が完全に液体になると、音が止んだ。 通りには、光る波紋だけが残る。 その波紋の中心で、ナツメだけが、まだ沈まずにいた。

わたしは手の中のスプーンを見つめながら呟く。

「やっぱり、“今”は薄味やな。せやけど、いちばん落ち着く。」

その瞬間、鍋の底から静かな鐘の音が響いた。 一度きりの“時報”やった。 それを合図に、世界はゆっくり冷めていった。

Ⅳ.スープのあとに残るもの

朝が、ゆっくりと降りてきた。 湯気のような夜が剥がれ落ち、街の輪郭が少しずつ戻ってくる。 けれど、屋台はもう跡形もなかった。 そこにあったのは、冷めた鍋と、欠けたスープ皿が一枚だけ。

ナツメは皿のそばに腰を下ろした。 虹色の毛並みが朝日に透けて、灰と金のあいだを揺れている。 皿の底には、光を帯びた液体がほんの少し残っていた。 それは、溶けきらなかった時間のかけらや。

ナツメは舌でそれをひと舐めした。 味はほとんどなかった。けれど、ほんの一瞬だけ胸が熱くなった。 きっとそれは、まだ終わっていない思い出の体温だった。

「ぬるい思い出ほど、いちばん沁みる味やな。」

風が通り過ぎる。 どこかで壊れた時計が鳴った。 秒針はもう動かへんのに、その音だけが“今”を刻んでいる。

ナツメは立ち上がり、鍋のふちをそっと撫でた。 指先に残ったぬくもりは、まるで誰かの掌みたいやった。 「時間も、ほんまは触れるもんなんやな。」

屋台の跡地には、空の瓶がひとつだけ転がっていた。 ラベルにはかすれた文字で書かれている。

『いつか飲みたい時間』

ナツメは瓶を拾い、ポケットに入れた。 どこかでまた誰かが、時間を煮ている気がする。 そのとき、この瓶を差し出してやろう。 「おかわり、お願いします」って。

朝日がビルの隙間から差し込む。 溶けた針の欠片が光を跳ね返し、路地の壁に虹色の線を描いた。 ナツメの毛並みがそれを受けて、再び七色にきらめく。

「時間はよう煮えてる。 今日もまた、ええ味出しそうや。」

ナツメは背中を伸ばし、まだ眠い空に小さくあくびをした。 その吐息は、朝の風に混じって消えた。 路地の隅で、小さな鍋の音がもう一度だけ鳴った。 まるで、世界が「おかわりどうぞ」と言っているみたいやった。

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