夜の都市に鳴り響く“回収車”の音
「不要なつぶやき、後悔の言葉、心残りのセリフをお出しください〜」
夜の街に、機械的な声が流れていた。
アスファルトは昼の熱をまだ抱いていて、遠くのビルの隙間からは電子看板の光が流れ落ちている。
スピーカーから響く呼びかけは、まるで選挙カーのようでいて、妙にやさしい。
「誹謗中傷、未練、独り言もOKです〜」
わたし──ナツメは、路地裏のベンチでカフェラテをすすっていた。
虹色の毛並みを夜風になびかせながら、ぼんやりと空を見上げる。
「今日は“ささやきの回収日”か……」
この街では週に一度、言葉のゴミが回収される。 呟きすぎた者の口から、夜になると“泡”が出るのだ。 その泡は風に舞い、翌朝には膨れすぎて破裂する。 だからこそ、こうして集めて捨てる。
ナツメは笑った。 「生きづらさって、言葉の渋滞やもんな」
頭上には、電線よりも細い糸のような“言葉の残響”が無数に漂っている。
その糸に触れると、他人の思考が小声で流れ込んでくる。
「あの子に既読つかない……」 「もう、がんばれない……」 「ラーメン食いてぇ……」
夜風は人間の声を撫でながら、次の交差点へと溶けていく。
不条理と現実の境目は、もうとうに消えていた。
回収車との遭遇
路地の角を曲がると、銀色のトラックが止まっていた。
車体には青い文字でこう書かれている。
「区指定:つぶやき・未練・ため息専用」
荷台のシャッターが半開きになっていて、中から光る泡のようなものが漏れ出している。 それらはふわふわと漂い、すれ違う人々の顔をかすめては、ぼそりと喋る。
「まじむり」 「別に好きじゃないし」 「うわ、また既読スルー」
どうやら、誰かの過去のつぶやきらしい。
「……発酵してんなぁ」
ナツメが呟くと、背後から声がした。
「あ、すみません、お客様。こちら、つぶやきの分別お願いします」
振り向くと、半透明の人間が立っていた。 青い作業着の胸ポケットには、“言葉回収課”の名札。 声はやけに穏やかで、瞳の奥は空洞のように澄んでいる。
ナツメは持っていた紙袋を見下ろす。
中には、使い古したノートと、小さく丸まったメモの束。
「これはな、“言えんかったこと”や。まだちょっと湿ってるけど」
回収員は袋の中を覗き込み、手帳の端を摘まむ。 すると、そこから黒い煙のような文字が立ち上がり、空中でこう読めた。
『おまえの幸せを願う』
回収員は眉をひそめる。 「古いつぶやきですね。賞味期限、切れてます」
ナツメは笑った。 「せやろ。腐ってるけど、まだええ匂いするやろ?」
回収員は少し考えてから、慎重にその言葉を袋に戻した。 「捨てるのは簡単です。でも……未練は再利用できませんよ」
「知っとる。せやけどな、 言葉ってのは、いったん腐ってからが美味いんや」
トラックの荷台で、無数の声が泡立つようにざわめく。 「好き」「ごめん」「ほんとは違う」 その中で、ナツメの声も混ざっていた。
──「黙ってることも、才能やで。」
誰のつぶやきだったかは、もう思い出せない。 でも確かに、風がその言葉を拾って、遠くまで運んでいった。
拾われた“昔の自分のつぶやき”
「あの……ナツメさん、ですよね?」
回収員が手元の端末を見ながら、ナツメに向き直った。 透明な画面には、数字の嵐と無数のハートマーク。 その中心には、ひとつのつぶやきが煌めいていた。
『愛されるより、光るほうが早い。』
「これ、今夜またバズってます」 回収員の声は静かだったが、どこか困惑を含んでいる。
ナツメは一瞬、目を細めた。 「あぁ……あれは七年前の夜中、コンビニ帰りにつぶやいたもんや。 缶コーヒーのキャップ閉め損ねて、靴がベトベトなったときにな」
回収員は首をかしげる。 「……そんな状況から生まれたんですか?」
ナツメはにやりと笑い、虹色のしっぽを揺らした。 「大体の名言は、滑って転んだ跡や。成功の靴底には砂糖がついとる。」
その瞬間、空がざわめいた。 どこからともなく、無数の“ハッシュタグ”が降ってくる。
「#ナツメ式」
「#闇ポエム」
「#共感したら負け」
タグは雨のように降り注ぎ、地面に当たると小さな音を立てて弾ける。 一つ一つが光を放ち、通行人のスマホ画面に吸い込まれていく。
「お客様、危険です!」 回収員がナツメの肩をつかもうとしたが、 その指は虹色の毛に触れた瞬間、すり抜けてしまった。
ナツメはふわりと笑う。 「心配せんでええ。こう見えて、タグ耐性は強いほうや。」
雨が止むと、街中に「いいね」の音だけが残った。 どこか遠くのビルの屋上から、 見知らぬ誰かのリツイートが風に流れてくる。
──『ナツメって誰?この人、やばい。好き。』
ナツメは苦笑して空を見上げた。 「好き言うてくれるのはありがたいけどな、 “誰”って聞いてる時点で、愛のスタート地点には立っとらん。」
その声は夜風に溶け、タグの残骸と一緒に街の端へと流れていった。
ナツメは傘代わりに、掌をひらく。 すると、その手の中に“沈黙”が生まれた。 透明で、やわらかくて、どんな言葉よりも温かい。
「やっぱり、黙っとくんが一番バズらへんな。 ……せやから、いちばん美しいんや。」
SNSという海の底
回収車の荷台の奥は、想像よりも深かった。 覗きこむと、底の見えない暗い水面がゆらめいている。
「……これが、つぶやきの最終処分場か?」 ナツメが呟くと、回収員が頷いた。
「はい。ここに流された言葉たちは、二度と戻りません。 ただし、“いいね”を一度でももらった言葉だけは、沈みきらずに浮いてくるんです。」
ナツメは小さく笑った。 「人気のある未練は、沈まへんわけか。 この世はやっぱり、バズった者勝ちやな。」
水面の下には、無数の文字が蠢いていた。 それらは溶け合い、泡になり、やがて“人の形”をつくる。
ぼやけた輪郭の女の声が、水の中から響いた。
「……ねぇ、わたしの言葉、まだ残ってる?」
ナツメは立ち止まる。 声の主は、もう二度と見たくないほど懐かしい顔をしていた。 もしかすると、それはナツメ自身の記憶だったのかもしれない。
「誰やおまえ……」
「あなたが“消したい”って思ったナツメ。 でも、完全には消せなかったナツメ。」
水の中の“もうひとりのナツメ”は、笑っていた。 虹色ではなく、灰色の毛並みで。 その手に無数の通知バッジが絡みついている。
「ねぇ、あの時の“おやすみ”に、ほんとは何を込めてた?」
ナツメは沈黙した。 沈黙が、いちばん重い。 だからこそ、回収できない。
やがて、灰色のナツメは静かに泡となり、闇の中へ消えた。 そのあとに、やわらかい声が残る。
「言葉は、届かなくても、誰かの海で光るから──。」
ナツメはそっと息を吐いた。 「……たしかに。 せやから、溺れるやつも出てくるんやけどな。」
彼は手のひらを差し出し、浮かんできた“残響”をひとつ掴む。 そこには、誰かが書いた断片が刻まれていた。
『返信しない優しさもあると思う』
「ほんまにそうか?」 ナツメは笑いながら、その文字をポケットにしまった。
──笑ってるのか泣いてるのか、もう自分でもわからない。
ささやきの夜明け
夜が明けた。 言葉の回収車はすでに去り、街には静寂だけが残っていた。
電柱に絡みついていたタグはすべて剥がれ、 空を飛んでいたつぶやきの泡は、朝露のように消えている。
ナツメは、路地裏のベンチに腰を下ろし、残り少ないカフェラテを飲み干した。 カップの底には、白い文字がひとつだけ浮かんでいた。
「発信より、呼吸を優先」
ナツメは小さく笑う。 「せやな。言葉も酸素も、吐きすぎたら苦しくなる。」
通りの向こうでは、誰かが早朝の掃除をしている。 ホウキがアスファルトを撫でるたびに、かすかに音が鳴った。 その音はどこか、キーボードのタイピングにも似ていた。
ナツメは立ち上がり、虹色のしっぽを揺らした。 街のガラス窓には、自分の影が映っている。 しかしその影は、少しだけ透けていた。
「……言葉、減らしても生きていけるやろか?」
答えは、風が持っていた。 ビルの谷間をすり抜け、ナツメの毛をやさしく撫でていく。 その風の中に、かすかな声が混ざっていた。
「あなたの沈黙、ちゃんと届いてるよ。」
ナツメは目を閉じた。 胸の奥に、小さな泡が弾ける音がした。 それは、今日いちばん美しい“通知音”だった。
「……そっか。なら、もうええわ。」
夜と朝のあいだで、虹色の猫はふわりと歩き出す。 踏みしめたアスファルトの上には、言葉ではない“余韻”だけが残った。
今日もまた、世界は静かに更新されていく。
ナツメ式 「ささやきの回収日」──言葉が多すぎる夜に
─了

