待ち人ベンチの夜
夜になると、街のいたるところに“待ち人ベンチ”が点灯する。 金属の座面にはセンサーが埋め込まれていて、座った人の鼓動を記録し、 そのリズムに合わせて「恋の通知音」が流れる仕組みだ。
──ピコン。 あなたの好きな人が、あなたを好きになる確率が上昇しました。
ナツメはその音を聞きながら、虹色の毛を逆立てた。 「……また確率の夜か。」
この街では、恋は“確率”で管理されている。 座っているだけで誰かが好きになってくれる。 動かなくても、いつか何かが起こる。 そう信じる人たちが、ひとりまたひとりとベンチに吸い込まれていく。
ベンチの座面はぬるりと温かく、 触れるたびに前の人の体温が伝わってくる。 「受け身の恋は、体温の再利用やな」 ナツメはそう呟いて、 近くの街灯に背中を預けた。
ベンチに座る人々は、 まるで魚の群れのように同じ方向を見つめていた。 目の前にはなにもない。 それでも彼らは、確かに“待っている”。
誰かが近づいてきた。 ワニオだった。 スーツ姿で、なぜか花束を持っている。
「ナツメさん、ベンチの使用目的がわかりません。 待ってる人たちの顔が、みんな同じ表情なんです。」
ナツメは笑った。 「恋ってのは、集団催眠の一種や。 “来るかもしれない”という希望が、 “まだ来てない”という現実を正当化する。」
ワニオはしばらく考えて、 花束の花を1本抜いた。 「この花、誰に渡せば正解なんでしょう。」
ナツメは首を傾げる。 「知らん。けど、花が枯れるまで考えるんはどうや?」
ワニオはしばらく黙っていた。 その沈黙の中に、 “まだ届かない恋”の重みが沈んでいた。
恋の自動販売機
ベンチを抜けると、角の先に光る箱があった。 夜風のなか、赤とピンクのネオンが滲んでいる。 近づくと、それは「恋の自動販売機」だった。
ガラスの奥には、いくつもの缶やボトルが並んでいる。 「片想いソーダ」「復縁ドリンク」「失恋エナジー」。 どれもラベルが派手すぎて、味がまったく想像できない。
ワニオが首をかしげた。 「これは……飲み物なんですか?」
ナツメは笑う。 「恋のドリンクや。飲む側と飲まれる側、どっちになるかはランダムやけどな。」
ワニオはためらいながら100円玉を入れた。 ガコン、と音がして、缶が落ちてくる。 ラベルには『お試し愛 350ml』と書かれていた。
プルタブを開けると、 中からはピンク色の霧が立ちのぼる。 霧の中から、知らない誰かの声が聞こえた。
──「あなたのこと、なんとなく好きかもしれません。」
ワニオは固まった。 「……誰ですか、これは。」
ナツメは肩をすくめた。 「お試しや。製造元は“たまたま”。原材料は“都合のよさ”や。」
霧は空へと消えていく。 残ったのは、微かに甘ったるい匂いだけ。 ワニオは花束を見つめ、しばらく黙っていた。
「……僕、こういうのに弱いんです。」
ナツメは缶を拾って、指で弾いた。 「そういう恋がいちばん売れる。 自分で選んでないのに、“選ばれた”と勘違いできるからな。」
ガラスの奥では、別の缶が明滅している。 「告白ジュース」「安心関係ティー」「とりあえず交際ゼリー」。 ナツメは鼻で笑った。
「愛ってやつは、いまや自販機産業の一部や。 みんな、押す勇気も飲み干す覚悟も持ってへん。」
ワニオはそっと言った。 「それでも、押す人はいますね。」
ナツメはうなずいた。 「せやな。 押すだけで満足できる恋もある。 “行動した風の恋”ってやつや。」
二人はしばらく黙って、自販機を見つめた。 霧の残り香が夜気に溶け、 どこか遠くでベンチの通知音がまた鳴った。
──ピコン。 あなたの恋が、誰かの退屈を満たしました。
ベンチに座る影
自販機の向こう、薄闇に沈む広場に戻ると、ベンチの列はさっきよりも長くなっていた。
まるで生き物の背骨。そこに人が等間隔で並び、同じ方向に沈黙している。
──ピコン。
「あなたの寂しさは、近くの寂しさとマッチしました。」
ナツメは耳を伏せた。虹色の毛並みが、微かに灰色に滲む。
「寂しさと寂しさが握手したら、指が冷えるだけやのにな。」
最前列のベンチでは、若い男女が互いを見ていなかった。
彼らはスマホ画面の“好意シグナル”を確認して、同時にうなずく。
「えっと……じゃ、付き合ってみる?」
「うん。通知きたし。」
二人はぎこちなく手をつなぎ、ベンチの背もたれに同じ速度で寄りかかった。
彼らの足元には、捨てられたレシートが落ちている。
【ご購入】お試し関係(自販機割)/返品:不可
ナツメはレシートを拾い、しっぽで丸めた。
「受け身って、よく売れるんやな。選ばれた気分が付属しとるから。」
列の中ほど、ひとりの女性の膝から小さな蔓がのびていた。
蔓は金属の座面に絡まり、彼女の太ももの形を覚えていく。
彼女が立ち上がろうとしても、座面が「ピッ」と鳴って離さない。
「離席不可:予約中の好意が未到着です」
女性は困った顔で笑う。
「すぐ来るはずなんです。だって“もうすぐ届きます”って。」
ナツメは首をかしげる。
「“もうすぐ”は、時間やなくて呪文やで。」
列の端では、スーツの青年がベンチの影と話していた。
「僕、アプローチ待ってて、そのまま誰かと付き合いました。」
影はうなずく。影は優しい。
「好きじゃないけど、嫌いでもないから。」
「それ、座り心地の話やろ?」とナツメが言うと、影はわずかに縮んだ。
広場のスピーカーが風に揺れ、ひび割れた放送が落ちてくる。
「待機ユーザーの皆さまへ:長時間の着席は、恋情の血流を悪化させます。定期的に立ち上がってください。」
誰も立たない。
代わりにベンチの方が立ち上がった。
脚が伸び、背もたれが背骨になって、鉄の群れが歩きだす。
まだ座っている人を乗せたまま、街灯の下を行進し、横断歩道を渡る。
「連れていかれとるやん……」とワニオが呟く。
行進の列から、ポケットサイズの拡声器が落ちた。
そこから薄い声が漏れる。
「気づいてほしい、と思っている間は、気づかれないように工夫してしまう」
ナツメは拡声器を拾い、電源を切った。
「それ、よう分かる。見つけてほしいやつほど、透明度が高い。」
広場の中央で、ひとつだけ空のベンチが残っていた。
表面に傷があり、誰かの爪のあとが刻まれている。
「待つのに疲れた爪痕やな」
ナツメが腰を下ろすと、座面のセンサーが震えた。
──ピコン。
「あなたの鼓動は、あなたの方を向いています」
ナツメは笑い、すぐに立ち上がった。
「ベンチが祝ってくれても、歩かへんと夜は明けん。」
行進していたベンチの群れが、角を曲がって見えなくなる。
彼らの背もたれに、薄い霜のような文字が浮かび上がるのが一瞬だけ見えた。
『待ってる間に、好きじゃない方へ流れました』
ワニオが小さく息を呑む。
「ナツメさん、僕、花の渡し方が分かりません」
「歩きながら渡せ。座ったままやと、花は枯れる。」
ナツメはレシートを握りつぶし、夜風に放った。
紙は小さな鳥になり、しばらく空をもがいて、街の向こうへ消えた。
「受け身の季節、長すぎるねん。」
ナツメの毛並みが、桃色から金へ、そして透明に近づく。
「座り癖がついた心は、まず足首からほどくんや。」
行動の一口
夜風の奥で、金属の喉を鳴らす音がした。
振り向くと、あの「恋の自動販売機」がひとりで移動していた。
ベンチたちが歩いて去った方向へ、ゴロゴロとキャスターの音を立てて。
ナツメとワニオは追いかけた。
自販機は広場の真ん中に止まり、静かに電源を入れ直した。
ライトが灯り、パネルに新しい文字が浮かぶ。
「限定商品:行動炭酸水。 開栓した者は、もう待てません。」
ナツメは思わず笑った。
「まるで恋のリハビリドリンクやな。」
ワニオが震える声で尋ねる。
「飲んだら……何かが変わるんでしょうか。」
「変わるかどうかは、たぶん関係ない。
“動いた”っていう泡が喉に残るだけや。」
ワニオはポケットから100円玉を取り出した。
コトン、と入れると、銀色の缶が落ちてくる。
ラベルには小さく「炭酸は弱め」と書かれていた。
ワニオは缶を開け、一口飲んだ。
その瞬間、彼のスーツの袖から、小さな泡がふわりと浮き上がる。
泡は風に乗って、まだ歩き出せていないベンチたちの背中に触れた。
すると、座っていた人々がゆっくりと顔を上げた。
ひとり、またひとりと、ベンチから立ち上がる。
彼らの膝から絡んでいた蔓がほどけ、靴底が地面を踏みしめる音が広場に響いた。
ナツメはその音を聞きながら、缶を拾って口をつける。
舌先に小さな刺激が走る。
炭酸の気泡が、喉の奥で“焦り”みたいに弾けた。
「……ああ、これはええ。
待つ恋には出えへん味や。」
空を見上げると、ネオンの残光が虹のように滲んでいた。
ベンチの群れが行進していった先から、朝の風が流れ込む。
ワニオが、胸の花束をナツメに差し出した。
「これ、渡してみます。」
「おお、誰に?」
「まだ決めてません。でも……歩きながら考えます。」
ナツメは笑った。虹色の毛並みが朝の光に溶ける。
「そうそう。恋は移動式。
座っとるうちは届かんのや。」
自販機のパネルが静かに明滅した。
【販売終了:次の街へ移動します】
ナツメは缶を置いて立ち上がる。 ベンチの影が遠くに消え、街が新しい朝を迎える。
その光の中で、ナツメが最後に呟いた。
「受け身は座ることやない。
“動かないふり”をしてる心の姿勢や。」
そう言って、彼は歩き出す。
しっぽの先で朝日をすくいながら、まだ眠る街を軽やかに抜けていった。
──どこかで、もうひとつの缶が開く音がした。
ナツメ式「待ち人ベンチと恋の自動販売機」
──了

