静かな午後、マリは川沿いの遊歩道を歩いていた。風が気持ちよくて、なんとなく心も軽い。
けれどふと気づくと、見たことのない小道に迷い込んでいた。
「……あれ? ここ、どこかしら?」
足元に転がるのは、しゃべる石。空には魚が飛んでいる。木の幹は逆さで、葉っぱは砂糖菓子のように淡い。
マリは確信した。
――ここは、「ナツメの森」。
「おいでやす〜」
バウンドしながら近づいてくるのは、ゴムボールのような質感のナツメだった。
全身に星をまぶしたようなスーツ、空中で一回転しながらふわりと着地。
「こんにちは、ナツメさん……相変わらず、世界観が独特ね」
「マリさんや〜! よう来てくれはったなあ。ここ、わいの森やけど、迷うたら出られへんよ?」
「……え?」
「うそうそ。恋の話してくれたら、出口開くようにしといたから。どや?」
マリは少し笑った。こういうの、嫌いじゃない。
「なんで、人は恋に振り回されるんでしょうね?」
「ナツメさん、恋って時々……厄介よね。好きなのに、うまくいかないことのほうが多くて」
「うんうん。わいはこの前な、好きやと思ってた人の名前、ぜんぶ間違えて覚えてたわ」
「えっ……?」
「“マイキー”やと思ってたら、“ヒロミ”やってん。3ヶ月くらい“マイちゃん”って呼んでた。誰?」
「……それは不条理というより、ナツメさんが忘れっぽいだけでは……」
「ちゃうちゃう、これは運命の悪戯や。なあ、マリさん。人を好きになるのって、ちょっとずつ自分が溶けていく感覚、ない?」
マリはふと、遠い記憶をたぐる。
誰かを好きになって、傷ついた日。
うまく言えなかったこと。優しさにすがったこと。
でもそのすべてが、自分を優しくしてくれた。
「たしかに。恋って……自分の輪郭がぼやけて、でもその分、相手を受け入れるスペースが広がるのよね」
「せやろ。わいはそれが好きや。恋ってな、“自分”っていう風船が、“誰か”の空気で膨らむようなもんや」
「愛されたい」は甘い毒?
「でもね、ナツメさん。私は若いころ、“愛されたい”って気持ちばかりが強くて……誰かの理想になろうとしてたの。つらかった」
「うわー、あるあるやな。わいは逆に、“好かれすぎたら困るな”って逃げとったことあるで」
「逃げる? なんで?」
「だって、“全部見せたら嫌われる”って思うやん。わい、好きな人にすら素直になれへんかったもん。もしかして、恋って“演技”の連続なんかなって思ったこともある」
「……私もそうだったかも。いつも“いい女”を演じていた気がする。ほんとは不安で、傷つきやすいのに」
ふたりの恋の終点は?
「それで今は、どうなん? マリさん」
「うーん……演じるのを、やめたの。ありのままの私を、愛してくれる人と一緒にいたいと思ってる。そうじゃなきゃ、恋してる意味がないわ」
「マリさん、かっこええな〜。わいは今も、“ナツメ役”を演じとるけど、それが自分の“ほんま”やと思うてる」
「ふふ、不条理なようで、まっすぐね。……でも、ナツメさんにも、恋の終点はあるの?」
「恋の終点か……うーん、それは、“自分自身”にたどり着いたときちゃう? 人を好きになる旅の最後には、“ほんまの自分”が待ってるんかもしれへん」
出口のない森で
木々がゆらぎ、空が一瞬だけピンクに染まる。
マリはふと、自分の心が少し軽くなっているのを感じた。
「ありがとう、ナツメさん。あなたと話して、ちょっと自分を許せた気がする」
「いつでも来てええで〜! ナツメの森は、迷うてる人しか入られへんけどな!」
「……じゃあまた、迷ったときに来るわ」
「そのときは、今度は飴ちゃんの雨が降るようにしとくから」