名前のない関係に、指先が触れた

少しずつ、一緒にいる時間が増えてきた。
笑い合えるようになったし、沈黙すら心地よく感じる。

だけど──まだ、僕たちは恋人じゃない。

関係に名前がつかないまま過ごす時間のなかで、
“あの瞬間”が、ふたりの距離を静かに変えていった。

目次

遠すぎず、近すぎず 

ふたりで過ごす時間が、少しずつ増えてきた。

この前は美術館、今日はちょっとした雑貨屋めぐりと、そのあとゆるくランチ。どこかに「行こう」と決めていたわけでもなくて、ただ自然と会って、自然と時間が流れていく。

笑ったり、話したり、沈黙したり。

以前なら気をつかっていた沈黙も、最近はむしろ心地よかったりする。

そんな穏やかな時間のなかで、ふとした瞬間に思う。

──この関係って、何なんだろう。

恋人じゃない。だけど、ただの友達とは確実に違う。

肩が触れる距離を保ちながら並んで歩くミサキの横顔を見て、僕は思わず視線を逸らす。

近づきたい。けど、壊したくない。

そんな気持ちが、ずっと心の奥にある。

ミサキは今、笑っている。

僕といるとき、こうしてよく笑うようになった。以前よりも、ずっと自然に。

それがうれしいと思う。「いっそ今のままでもいいんじゃないか」と、どこかで思ってしまう自分がいる。

でも──それでいいのだろうか。

恋愛ライターとしてじゃなく、ひとりの男として、ちゃんと向き合いたいと思ったあの日の気持ち。

それを忘れたくない。

ミサキの笑顔に寄り添いたいなら、僕自身も、一歩を踏み出さなきゃいけないのかもしれない。

リクの心の声──迷いと欲

「告白のタイミングは、焦らず、でも逃さず。」

恋愛ライターとして、何度もそう書いてきた。
大切なのは、相手の気持ちを見極めること。
自分の想いだけをぶつけるんじゃなくて、ちゃんと“届く”ようにすること。

でも今、自分の恋を前にして思う。
タイミングって、そんなに冷静に計れるものだったっけ?

ミサキと過ごす時間は、穏やかで、優しくて、心が静かになる。
けれどその優しさに甘えて、僕はずっと「今じゃない」と言い訳してきたのかもしれない。

彼女の過去を知ってしまったからこそ、怖くなった。
また誰かに裏切られるかもしれない、そんな思いを抱えた人に、軽い気持ちでは踏み込めない。

でも──怖がっているのは、僕のほうじゃないか?

「今の関係を壊したくない」
「タイミングを間違えたら、引かれるかもしれない」
そんなふうに、自分の不安を“彼女を思いやる気持ち”にすり替えていたのかもしれない。

ミサキと出会ってから、恋がこんなにも“考えるもの”になっていたことに気づく。

でも本当は、恋ってもっと、
感情で動いていいものなんじゃないか。

頭じゃなくて、心で決めたい。
ちゃんと向き合いたいなら、
僕自身が、まずはその一歩を決めなきゃいけない。

ミサキの揺れる本音

「ずっと、誰かに“選ばれるのを待ってた”気がするんです」

カフェの窓際。
外を流れる人の波をぼんやり眺めながら、ミサキがぽつりとつぶやいた。

僕は驚いて、手にしていたカップを一度そっと置いた。

「選ばれるのを、待つ?」

「うん。
昔の恋でも、私、相手の気持ちに合わせることばっかり考えてて。
“嫌われないように”っていうのが、癖になってたのかも」

そう言って、彼女は小さく笑った。

「でも、それってたぶん……自分を大事にできてなかったのかもしれないよね」

言葉の端々に、過去の痛みがにじんでいた。
それでも、ミサキは前を向こうとしているように見えた。

「いまはね、ちゃんと好きになりたいなって思ってるんです。
自分から、ちゃんと選びたいっていうか……」

僕はその言葉に、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。

ミサキは、待っているだけの人じゃない。
誰かを信じることを、もう一度始めようとしている。

だからこそ、僕も応えなきゃいけない。

「……ミサキさん」
「うん?」
「今の話、聞けてよかった」

ミサキは少し照れたように笑った。

会話はそれで終わったけれど、そのあとの時間は、どこかあたたかくて。
言葉にしないまま、ふたりで同じページをめくっているような感覚が残っていた。

その手を、つなぐ

その帰り道だった。

夕方の空は少し曇っていて、さっきまで差していた西日も、どこかに隠れていた。
駅までの道を歩きながら、僕たちはぽつぽつと、たわいない話を続けていた。

「あ、雨……」

ミサキがそうつぶやいた瞬間、ぽつりと肩に冷たいものが落ちた。
間に合うかな、と思いながら急ぎ足になる。

でも、次の信号で止まったとき、僕たちは足を止めたまま、ふたりで同じ空を見上げていた。

雨粒の音が、ゆっくり近づいてくる。

僕は、バッグから折りたたみ傘を取り出しながら、迷っていた。
言おうか、言わないか。
今じゃないかもしれない。でも、今しかないかもしれない。

傘を開いて差し出すと、ミサキがそっとその下に入ってきた。

「ありがとう」

その声が近くて、顔を向けたとき。

ミサキの手が、すぐそこにあることに気づいた。

ふと、僕の手が動いた。
それが意識的だったのか、無意識だったのか、自分でもよくわからない。

気づけば、僕たちは手を繋いでいた。

強くもなく、弱くもなく。
確かめるように、でも、ほどけないように。

ミサキが少しだけ、驚いた顔をした。
でも、すぐにそっと笑った。

言葉はなかった。
ただ、ふたりの間に流れるものが、はっきりと変わった気がした。

恋人じゃないのに。
でも、恋人じゃないって、なんだったっけ。

握った手のあたたかさだけが、すべてを教えてくれていた。

恋が動き出す音

あのとき、手を繋いだ理由を、ちゃんと説明できる自信はない。

でもたぶん、それは“言葉よりも先に気持ちが動いた”瞬間だった。

この関係に、まだ名前はない。
でも、名前をつけたくなるくらいには、ミサキのことを思ってる。

大切にしたい。
もっと知りたい。
そばにいたい。

この気持ちは、もう“友達”なんかじゃない。

恋は、いつも突然で。
気づいたときには、もう始まってる。

僕は、ライターだから、言葉で伝えることが好きだ。
だけど今日ばかりは、あのとき手が教えてくれた。

“ちゃんと好き”って、きっとこういうことなんだって。

──次は、ちゃんと伝えよう。

この関係に、言葉を贈ろう。

──4話へ続く。

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