声をかけた瞬間、空気が事故る
帰り道、駅前のコンビニの横で、ひとりの女性が立ち尽くしていた。
スマホを見て、バッグを探して、またスマホを見る。
その動きがあまりにも落ち着かなくて、どうしても目に入った。
少し迷ってから、僕は近づいた。
声をかける前に、頭の中で一応シミュレーションする。
距離、声のトーン、言葉選び。
変な人だと思われないように、慎重に。
そして、できるだけ柔らかく。
「あの……大丈夫ですか? 何か困ってる感じがして」
その瞬間だった。
女性の目が一気に見開く。
「えっ……ナンパ? ちょっと無理なんですけど」
思っていたより、はっきり言われた。
しかも声、ちょっと大きい。
「いや、あの、違くて……えっと……」
一気に言葉が詰まる。
違います、をどう言えばいいのか分からない。
否定すればするほど怪しくなるやつだ、と頭のどこかで冷静に分析している自分もいる。
「その、道とか……あ、いや、そうじゃなくて……」
完全にしどろもどろだった。
女性は一歩引いて、スマホをぎゅっと握る。
「すみません、ほんとに大丈夫なんで」
言い切りだった。
これ以上の会話は、不要です、という空気。
「あ、はい……すみません。失礼しました」
僕はそれだけ言って、その場を離れた。
歩き出してから、三歩目で思う。
……今の、完全に不審者側だったな。
五歩目で、別の思考が追いかけてくる。
いや、でも。
知らない男に急に声かけられたら、そりゃ怖いよな。
十歩目で、さらに別の感情が湧く。
それは理解できる。
理解はできるけど。
それなりに、心には残る。
善意がどうとかじゃない。
正しさの話でもない。
ただ、胸の奥に、変な熱だけが残った。
家に帰って、鍵を閉める。
冷蔵庫の前に立ったとき、ようやく言葉になる。
今日は、スカッとしたい。
でも、怒るほどでもない。
できれば、さっぱりして。
あとに残らないやつ。
僕はエプロンを取った。
今日は、誠実めしの出番だ。
今日のテーマ:余計な熱を、抜く
冷蔵庫を開けて、すぐ閉めた。
食材を見て、何を作るか考える前に、
まず自分の状態を確認する。
今日は、ちょっとだけイラっとしている。
でも、怒りたいほどじゃない。
むしろ、気まずさに近い。
自分が間違ったことをしたわけでもないのに、
なぜか肩に力が入ったままの感じ。
こういう日は、ガッツリしたものを作ると失敗する。
強い味にすると、
「スカッとした気がする」だけで、
あとから余計に疲れるのを、僕は何度か経験している。
今日は、余計な熱を抜くのが目的だ。
だから条件は決めた。
・切る工程は少なめ
・火は弱め
・味は足さず、整える
材料も、主張が強すぎないものにする。
今日の自分に必要なのは、
「頑張った感」じゃなくて、
ちゃんと終わった感だ。
悔しさを消す料理じゃない。
正しさを証明する料理でもない。
気持ちをこれ以上こじらせないための、ごはん。
そう決めたところで、
ようやく何を作るかが見えてきた。
今日は、さっぱりしていて、あとに残らないやつにする。
本日の誠実めし:鶏むね肉の塩レモン蒸し焼き
今日は、鶏むね肉を使う。
安いから、という理由もあるけど、
それ以上に、余計な主張をしないところがいい。
包丁で、むね肉を大きめにそぎ切りにする。
厚みを揃えるだけで、味の入り方が変わる。
下味は、塩だけ。
ここで胡椒を足したくなる気持ちを、ぐっと我慢する。
今日は刺激が欲しい日じゃない。
フライパンに油をひいて、火は中弱火。
肉を並べたら、焼き色をつけるというより、触らずに待つ。
途中でひっくり返して、
水を少しだけ加える。
じゅわっと音が変わったところで、
すぐにフタをする。
焼く、というより蒸す。
この工程があると、
鶏むね肉は、ちゃんと柔らかくなる。
フタをしたまま、数分。
その間に、レモンを半分に切る。
果汁は、まだ使わない。
皮だけを、軽く削る。
火を止めて、フタを開ける。
最後に、塩をほんの少し足して、
レモンの皮を散らす。
仕上げに、果汁をひと絞り。
これで完成だ。
派手さはない。
でも、ちゃんと手をかけた感触はある。
皿に盛りつけて、椅子に座る。
湯気が、ゆっくり立ち上るのを見て、
さっきまで胸に残っていた熱が、少し下がった気がした。
今日の誠実めしメモ(簡易)
・材料は、鶏むね肉・塩・レモン
・焼かずに蒸すことで、余計な硬さを出さない
・味は足さず、香りで整える
・フタをする工程は、気持ちを落ち着かせる時間
実食:味より、呼吸が戻る
箸で、鶏肉をひと切れ取る。
思ったより、やわらかい。
蒸し焼きにしたおかげで、繊維がきれいにほどける。
口に入れると、まず塩。
そのあとに、レモンの香りが追いかけてくる。
酸っぱさは、ほとんどない。
さっぱりしている、というより、邪魔をしない感じだ。
噛んでいるうちに、
さっきまで胸の奥に残っていたモヤっとした熱が、
少しずつ下に降りていくのが分かる。
「うまい」と言うほどでもない。
でも、「これでいいな」とは思える。
食べながら、さっきのことを思い出す。
えっ、ナンパ?という顔。
しどろもどろになった自分。
気まずさと、妙な敗北感。
それでも、こうして落ち着いて考えると、
やっぱり結論は同じところに戻る。
知らない男に声をかけられたら、警戒する。
それは、たぶん正しい。
理解できる、というのと、
気持ちが完全に追いつくかどうかは、別だけど。
でも、この料理を食べている今は、
そのズレを無理に埋めなくていい気がした。
皿が空になるころには、
呼吸が、ちゃんと深くなっていた。
食事って、
気持ちを解決するためのものじゃない。
こじらせないための、ひと区切りなんだと思う。
不審者になった日も、ちゃんと終わる
洗い物は、フライパンと皿だけ。
シンクに立ちながら、
さっきの自分を思い出して、少しだけ苦笑いした。
結果的に、
今日は誰も助けられなかったし、
ちょっと怪しまれただけだった。
でも、だからといって、
声をかけたこと自体を、なかったことにはしない。
警戒されるのも、当たり前。
しどろもどろになるのも、まあ、僕だ。
そう思えた時点で、
今日のモヤモヤは、役目を終えた気がした。
誠実めしは、完璧な答えをくれない。
ただ、ちゃんと一日を終わらせてくれる。
それで十分だ。
宅麺
