① 良かれと思って
夕方の駅前は、妙にせわしない。
仕事帰りの人、部活帰りの学生、スマホを見ながら歩く人。
その流れの端にある自転車置き場で、リクは足を止めた。
一台だけ、横倒しになっている自転車。
ハンドルが隣の車体に引っかかり、
かろうじてバランスを保っている状態だった。
少し触れれば、崩れそうだ。
「危ないな」
通路の幅はそこまで広くない。
誰かがつまずいたら危ないよな。
ほんの数秒、迷う。
でも結局、体が先に動いた。
ハンドルを持ち、ゆっくり起こそうとする。
――その瞬間だった。
隣のペダルに、自分の足が軽く当たる。
ぐらり、と揺れた。
「あ」
嫌な予感は、だいたい当たる。
ガシャン。
一台が倒れ、隣にぶつかる。
ガシャン、ガシャン。
連鎖する音。
気づけば、目の前に広がるのは
小さな自転車のドミノだった。
一瞬、頭が真っ白になる。
「……」
通りすがりの視線が、ゆっくり集まってくる。
まだ誰も何も言っていない。
なのに、胸の奥がざわつく。
良かれと思っただけなのに。
ただ、起こそうとしただけなのに。
「すみません」
誰に向けたのか分からないまま、
リクは小さく頭を下げていた。
② その後の地獄(でも少しあたたかい)
倒れた自転車は、思っていたより多かった。
十台。いや、十五台くらいか。
もはや小さな事故現場である。
「……すみません」
まだ誰にも責められていないのに、
謝罪だけは先に出る。
リクは慌てて一台ずつ起こし始めた。
ハンドルを持ち、サドルを押さえ、
静かに立て直す。
焦ると、だいたい余計なことをする。
立てたはずの一台が、ぐらり。
「あ、ちょ、待って…」
ガタン。
二次災害。
そのときだった。
隣にいた年配の男性が、何も言わずに一台を起こしてくれた。
続いて、学生らしき女性も手伝ってくれる。
「大丈夫ですか?」
優しい声。
ありがたい。
本当にありがたい。
でも。
なぜだろう。
優しさが、ものすごく気まずい。
「すみません、僕が…」
「まあまあ、誰でもありますよ」
そう言われるほど、胸がぎゅっとなる。
良かれと思って動いた結果、
周囲の時間まで使わせてしまった。
最後の一台を立て終えたとき、
リクは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
みんなはもう、何事もなかったように去っていく。
その背中を見送りながら、
リクは静かに思った。
……何もしない方が、よかったんだろうか。
③ 帰宅、そして誠実めし
帰り道。
リクの頭の中では、さっきの音が何度も再生されていた。
ガシャン。
ガシャン。
(思い出さなくていいのに)
家に着き、鍵を開ける。
誰もいない部屋の静けさが、今日は少しありがたい。
バッグを置き、ネクタイをゆるめる。
冷蔵庫を開けると、そこにあるのは特別な食材ではない。
冷凍うどん。
鯖の水煮缶。
生姜。
ねぎ。
派手さはない。
でも、ちゃんと食べられる。
ちゃんと整えられる。
「……誠実めしが、必要だな」
つぶやいて、自分で少し笑う。
自転車を倒しただけで大げさだ、と自分でも思う。
でも。
良かれと思ってやったことが、
少し空回りした日の夜には、
何かをちゃんとやる時間が必要だ。
リクはうどんを取り出し、
静かに鍋に湯を沸かした。
④ つるんと整える
湯が沸くまでの時間は、少し落ち着く。
ぐつぐつと音がするだけで、
頭の中のざわつきが少し小さくなる。
冷凍うどんを鍋に入れる。
ほぐれていく麺を見ながら、
リクは深呼吸をひとつ。
その間に、鯖缶を開ける。
汁ごと器に出して、箸でざっくりほぐす。
生姜を刻む。
少量のごま油をたらす。
ほんの少し、黒胡椒。
派手じゃない。
でも、ほんのひと手間。
「……倒れたものは、立て直せばいい」
口に出してみると、少しだけ大げさだ。
それでも。
やらかしたなら、最後までやる。
手を止めない。
うどんが茹で上がる。
氷水にくぐらせ、ぎゅっと締める。
冷たい水の中で、麺がぴんと整う。
さっきまで熱を持っていたものが、
静かに落ち着いていく。
器に盛り、鯖をのせる。
ねぎを散らし、めんつゆをぶっかける。
完成だ。
⑤ つるん、とひと口

椅子に座り、箸を持つ。
特別な料理じゃない。
でも、自分で整えた一杯だ。
うどんをすくい、鯖と一緒に口に運ぶ。
つるん。
ひんやりとした麺が喉を通る。
生姜の香りがふわりと抜ける。
鯖の旨味と、ごま油のコク。
黒胡椒が、ほんの少しだけ背中を押す。
「……うん」
思ったより、ちゃんとしている。
思ったより、悪くない。
自転車は倒れた。
でも、ちゃんと立て直した。
周りの人に手伝ってもらったけれど、
最後まで向き合った。
それで、いいのかもしれない。
完璧じゃなくてもいい。
良かれと思って動いた自分まで、
否定しなくていい。
もうひと口、うどんをすする。
つるん。
今日のモヤモヤは、だいぶ小さくなっていた。
⑥ 翌日、そして軽い追撃
翌日。
編集部に入るなり、ナナの声が飛んできた。
ナナ:
昨日、自転車置き場で将棋倒し起こしたのアンタでしょ?
リクは固まった。
リク:
……なんで知ってるんですか。
ナナ:
駅前の小事故なんて一瞬で噂になるのよ。
ミカコがパソコンから目を離さずに言う。
ミカコ:
親切心がスケール大きめに空回りしただけでしょ。
ナナ:
まあ、逃げなかったのは偉いけどね。
アカリが身を乗り出す。
アカリ:
でもさ、起こそうとしたんだよね?それ普通にいい人じゃん。
リクは少しだけ照れる。
リク:
……昨日、鯖缶ぶっかけうどん作りました。
一瞬、沈黙。
ナナ:
なんでそこで料理報告なのよ。
ミカコ:
誠実めし発動したのね。
アカリ:
ねえそれ美味しかった?今度作って。
ナナが腕を組む。
ナナ:
いい?アンタはね、親切心は悪くないのよ。
ただ落ち着いて行動することを覚えなさい。
リク:
……気をつけます。
編集部に笑いが広がる。
昨日のガシャンは、もう少し遠くにある。
良かれと思って、少し転んで、
それでもちゃんと立て直す。
それが、今日も続いていく。




