金曜の夜、BAR恋古都。
カウンターの奥、少し照明を落としたテーブルに、マリ、ナナ、ミカコが並んで座っている。
その輪の端に、サヨはいた。
サヨにとって、ここは初めての場所だった。
恋古都に来るのも、このメンバーで飲むのも初めて。
グラスを手にしながら、サヨは少しだけ背筋を伸ばす。
今日は女子会。 深刻な話をしに来たわけじゃない。
ただ、恋の話をして、少し笑って、 それだけのはずだった。

BAR恋古都で始まった、少し大人の恋バナ
グラスが軽く触れ合う音と、低めの音楽。
恋古都は、不思議と声を張らなくていい場所だった。
ナナ「ここ来るとさ、なんか正直になるよね」
ミカコ「余計なテンション上げなくて済むのは助かる」
マリ「無理に盛り上げなくてもいい空気、好きよ」
サヨは、三人のやりとりを聞きながら、静かに頷いていた。
サヨ「……こういう女子会、久しぶりです」
ナナ「でしょ? 編集部って、意外とこういう場ないもんね」
最初は、軽い恋バナだった。
最近どう? 今は誰かいるの? そんな、ありふれた問い。
ミカコは相変わらず合理的で、 ナナは感情たっぷりで、 マリは少し距離を取った視点で話す。
サヨは、基本的に聞き役だった。
笑いながら相槌を打ちつつ、 自分の話題が振られないように、どこかで気を配っていた。
話すつもりは、なかった。
今日はただ、ここにいられればいい。
そう思っていた。
ナナ「サヨはさ」
不意に、名前を呼ばれる。
ナナ「今まで、どんな恋してきたの?」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
恋バナが弾んでいく中で
ナナの一言をきっかけに、話題は少しずつサヨのほうへ寄っていった。
ナナ「サヨってさ、聞き上手だよね」
サヨ「そうですか?」
ミカコ「自分の話しない人ほど、そう言われがち」
サヨは苦笑いした。
正直に言えば、話さないというより、 「話すほどのことがない」と思っていた。
マリ「でも、今まで恋をしてきてないわけじゃないでしょう?」
サヨ「……まあ、それなりには」
ナナ「“それなり”って一番気になる言い方」
グラスが空き、次のドリンクが運ばれてくる。
少しアルコールが回ってきたのか、 場の空気がやわらかくなってきた。
ミカコ「サヨはさ、恋愛に真面目そう」
サヨ「え、そう見えます?」
ミカコ「勢いで付き合ったりしなさそう」
ナナ「わかる。ちゃんと考えそう」
その言葉に、サヨは一瞬だけ黙った。
考える。
考えすぎる。
それは、図星だった。
サヨ「……たしかに、勢いはないかもです」
マリ「悪いことじゃないわよ」
ナナ「でもさ、考えすぎて疲れない?」
サヨは、グラスの縁を指でなぞった。
サヨ「……疲れます」
ぽつりと落ちたその言葉に、 ナナがすぐ反応する。
ナナ「でしょ? ほら、もう一段階いこう」
サヨ「一段階?」
ナナ「失敗した恋とかさ。 “今だから言えるやつ”」
ミカコ「ここ、そういう話する場所だし」
マリは何も言わず、 ただサヨを急かさない距離で見ていた。
サヨは、少しだけ息を吸った。
話すつもりはなかった。
でも、不思議と 「話してもいいかもしれない」と思えた。
サヨ「……じゃあ」
グラスを置く音が、やけに大きく聞こえた。
サヨ「重い話になっちゃうかもしれないんですけど」
ナナ「大歓迎」
ミカコ「重いの、嫌いじゃない」
マリ「無理しなくていいけどね」
サヨは、少しだけ笑った。
そして、ゆっくりと言った。
サヨ「わたし、好きじゃない人と付き合ったことがあるんです」
サヨの告白「好きじゃない人と付き合った理由」
その言葉を口にした瞬間、 サヨは少しだけ肩の力が抜けた。
ナナは驚いた表情のまま、でも口を挟まない。 ミカコは黙ってグラスを傾ける。 マリは、ゆっくりと頷いた。
サヨ「もう、ずいぶん前の話です。今は別れてます」
それを先に伝えないと、 この話は変な方向に行ってしまいそうな気がした。
サヨ「告白されたんです。 すごく真面目に、ちゃんと」
嫌な人じゃなかった。 むしろ、いい人だった。
サヨ「優しくて、誠実で…… たぶん、付き合ったら大事にしてくれる人だって思いました」
ナナ「それはまた、断りづらいやつだ」
サヨは、苦笑いする。
サヨ「そうなんです」
“嫌いじゃない” その言葉が、当時の自分を縛っていた。
サヨ「好きじゃない、って理由だけで断るのが、 すごく冷たいことのように思えて」
ナナ「優しすぎる」
ミカコ「優しさっていうより、罪悪感ね」
サヨは、小さく頷いた。
サヨ「はい。 断ったら、この人を傷つけるって思ってました」
でも、付き合えば解決すると思った。
サヨ「一緒に過ごしていくうちに、 そのうち好きになるかもしれないって」
マリ「……よく聞く話ね」
サヨ「でも、ならなかったんです」
時間が経つほど、 “好きじゃない”という事実だけが、はっきりしていった。
サヨ「優しくされるたびに、 申し訳なくなって」
サヨ「笑顔を向けられるたびに、 自分が嘘をついている気がして」
ミカコ「それ、しんどいね」
サヨ「はい。 たぶん、付き合ってた間ずっと」
相手に嘘をついている。 でもそれ以上に、 自分に嘘をついている感覚がつらかった。
サヨ「“悪いことしてる”って、ずっと思ってました」
ナナ「でもさ」
ナナ「その時のサヨは、 ちゃんと悩んで選んだんでしょ?」
サヨ「……そう、ですね」
正解かどうかは分からない。
でも、何も考えずに付き合ったわけじゃない。
サヨ「だからこそ、 後からすごく後悔したんだと思います」
マリ「どんな後悔?」
サヨ「最初から、正直でいればよかったって」
サヨ「相手にも、 “好きじゃない”って気持ちを誤魔化してた自分にも」
言葉にした瞬間、 胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも同時に、 ようやく自分の気持ちを正しく置けた気がした。
それぞれの視点――マリ・ナナ・ミカコの言葉
ナナ「それ、誰かを騙した話じゃない」
サヨの話を聞き終えて、最初に口を開いたのはナナだった。
ナナ「ねえ、それさ」
ナナ「誰かを騙したとか、 ズルした話じゃないと思うよ」
サヨは、少し意外そうな顔をする。
サヨ「でも……」
ナナ「だってさ、 ちゃんと悩んで、ちゃんと向き合ってたでしょ」
ナナは、サヨのほうをまっすぐ見た。
ナナ「軽い気持ちで付き合ったなら、 後悔もしないと思うんだよね」
ナナ「後悔してるってことは、 それだけ真剣だったってことじゃん」
サヨは、その言葉をゆっくり噛みしめる。
ナナ「優しさってさ、 ときどき選択を間違えさせるけど」
ナナ「それ自体が悪いわけじゃない」
ミカコ「“好きじゃない”は、ちゃんとした理由」
ミカコは、グラスを置いて静かに言った。
ミカコ「そもそもだけど」
ミカコ「“好きじゃない”って、 断る理由として十分じゃない?」
サヨ「……そう、ですよね」
ミカコ「むしろ、それ以上に正直な理由ってない」
ミカコ「相手がいい人かどうかと、 恋愛感情があるかどうかは別問題」
サヨは、小さく頷く。
ミカコ「優しい人ほど、 “断られる側の気持ち”を想像しすぎる」
ミカコ「でもね、 続けられない関係を続けるほうが、 結果的には残酷よ」
その言葉は、突き放すようでいて、 どこか現実的だった。
マリ「嘘をついていたのは、弱さじゃない」
最後に、マリが静かに話し始める。
マリ「サヨちゃん」
マリ「あなたが一番つらかったのは、 “嘘をついていたこと”じゃない?」
サヨ「……はい」
マリ「それはね、 人を大事にしようとした結果よ」
サヨは、思わず目を伏せた。
マリ「もちろん、正解だったかは分からない」
マリ「でも、 自分の気持ちを後回しにしてまで、 誰かを傷つけたくなかった」
マリ「その弱さは、 責められるものじゃないと思うわ」
静かな声だった。
でも、その言葉は、 サヨの胸の奥に深く届いた。
正解は出ないまま、夜はやさしく終わる
話がひと段落すると、 テーブルの上には少しだけ、間が生まれた。
重たい沈黙ではなかった。
むしろ、 言葉を置き終えたあとの、静かな余韻のような空気だった。
ナナ「……なんかさ」
ナナはグラスを揺らしながら、ふっと笑う。
ナナ「恋愛って、ほんとめんどくさいよね」
ミカコ「それは否定しない」
マリ「でも、だからこそ面白いのよ」
そのやりとりに、サヨは思わず笑ってしまった。
サヨ「……すみません、 なんか重たい話しちゃって」
ナナ「なに言ってんの。 ちょうどいい夜の話だったじゃん」
ミカコ「初参加でそれ出せるの、逆にすごい」
マリ「ちゃんと向き合った恋の話は、 聞いていて疲れないわよ」
サヨは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
責められたわけじゃない。 評価されたわけでもない。
ただ、 「そういうこともあるよね」と 受け取ってもらえただけ。
それが、こんなに楽になるなんて思わなかった。
ナナ「次はさ、もっとどうでもいい話しよ」
ミカコ「失敗談とか?」
マリ「それなら山ほどあるわ」
サヨ「……それ、聞きたいです」
そう言った自分の声が、 さっきより少しだけ明るいことに気づく。
完璧な選択じゃなかった。
今でも、 「最初から断っていればよかったかな」と 思う夜はある。
でも。
サヨ「……あのときの自分も、 必死だったんですよね」
誰かを傷つけたくなくて、 自分の気持ちもよく分からなくて。
それでも、ちゃんと悩んでいた。
サヨは、グラスの中身を飲み干して、立ち上がる。
BAR恋古都を出ると、 夜風が少しだけ冷たかった。
でも、来たときよりも、 足取りは軽い。
正解は出ていない。
でも、 「間違いだった」と言い切らなくてもいい気がした。
サヨは小さく息を吐いて、 前を向いた。

