私は“話し合い”という言葉がちょっと苦手だ
「ちゃんと話し合おうよ」って言葉が、わたしはちょっと苦手だ。
言っていることは正しいし、わたしもその必要性を理解している。言葉にして、気持ちを整理して、お互いの考えをすり合わせる。恋愛に限らず、人間関係において大事なプロセスだってことくらい、わかってる。
でも、「話し合い」という単語が持つ空気感がどうもダメ。静かにピリつくような緊張感、どちらかが悪者になる前提、正解を出さなきゃいけない圧力。それらがふわっと漂うあの雰囲気が、胸の奥をざわつかせる。
「ちゃんと話し合いたい」って言われると、わたしの中に「今から正論を突きつけられるんだろうな」って覚悟が芽生えてしまう。あるいは、「自分の気持ちを説明しなきゃ」って身構えてしまう。
もちろん、相手はそんなつもりじゃないのかもしれない。でも、この“話し合い”って言葉には、どうしてもジャッジメントの匂いがする。誰かが悪くて、誰かが正しくて、そのうえでどう歩み寄るか、っていう構図。そんなもの求めてないし、疲れるだけなんだよな、って思うこともある。
黙る時間が怖い人と、黙れる関係の違い
わたしにとって理想の関係って、黙っていても気まずくない相手。
何かを決めなきゃいけないわけじゃない。気持ちを言葉にして交換し合うことだけが「わかり合う」ってことでもない。お互いの呼吸やテンポ、機嫌のグラデーションを感じ合って、それでも無理に言葉を出さずにいられる関係が、すごく居心地がいい。
逆に、「ちゃんと話そう」と言われてしまうと、そこで言葉にできない気持ちは無視されてしまうようで苦しくなる。「わたしは今、モヤモヤしてる」っていう事実はある。でも、そのモヤモヤに名前をつけられない時もある。
それを「整理して伝えなきゃ、ちゃんと聞いてもらえない」って思ってしまうのが、しんどい。
わたしは、話し合うよりも“一緒に黙れる関係”のほうが、本音に近づける気がしてる。そこにあるのは、沈黙を恐れない信頼と、言葉にしなくても汲み取ろうとする優しさ。
もちろん、誤解を放置するわけじゃない。でも、「話し合うこと=関係を良くする唯一の手段」と思っていると、うまくいかないこともある。
言葉にしない優しさと言葉にする誠意
誤解してほしくないのは、「話し合いなんて意味ない」と思ってるわけじゃないってこと。
ちゃんと話さなきゃ伝わらないこともあるし、「この人はどうしたいんだろう?」って不安になる時に、言葉があるだけで救われることもある。
でもね、わたしがしんどくなるのは、「話し合おう」って言われた瞬間に、“正解の言葉を用意しなきゃ”ってモードになってしまう自分なんです。
相手のために、自分の気持ちを整理して、矛盾なく説明できるようにする。間違った言い方をしないように気をつける。感情的にならないように自分をコントロールする。……そうやって頑張るのって、ある意味「誠意」なのかもしれないけど、その場で“誠意ある人間”を演じることに必死になってしまうのって、なんだか本末転倒な気もして。
そういうとき、「大丈夫だよ。今はうまく言えなくても、気持ちはわかってるよ」って言ってくれる人がいたら、どれだけ救われるだろうって思う。
言葉にしない優しさって、確かにある。でも、言葉にしないことが“逃げ”にならないように、誠意をもって向き合う姿勢もやっぱり大事。
どっちかじゃなくて、両方あっていいんじゃないかなって、最近は思っている。
「話し合い」は目的じゃなくて手段でいい
「ちゃんと話し合おう」って言葉が重たく感じてしまうのは、その言葉に“ちゃんと解決しなきゃ”っていうプレッシャーが乗ってるからなのかもしれない。
でも本当は、話し合うこと自体がゴールじゃなくて、お互いの気持ちが少しでも近づいたり、理解できたり、ほっとできたりすればそれでいいと思う。
たとえば、その日話しても答えが出なかったとしても、「今日はしんどいね」って言い合えるだけで、少し救われたりすることってある。
きれいな言葉じゃなくていい。うまく整理されてなくてもいい。モヤモヤしたままでも、それをそのまま出していい関係性があれば、それだけでずいぶん楽になる。
だからたぶん、わたしが本当にほしいのは、「ちゃんと話し合うこと」じゃなくて、「話せる安心感」なんだと思う。
苦手だなって思ってた「話し合い」も、そんなふうに少し見方を変えたら、ちょっとだけ優しくなれる気がしている。