恋しないワニと、恋を休む午後

そのニュースを見たとき、ミユは思わず声を上げた。

──滅多に人前に姿を見せない俳優・レンが、ファンイベントに出演。 しかも、抽選なしの一般観覧。

「やば、奇跡じゃん……!」

ずっと応援してきた推し。 SNSでも滅多に登場せず、ドラマのインタビューすら数年ぶり。 そんな彼が、ついにファンの前に姿を見せるという。 それだけで世界が明るく見える朝だった。

けれど──その通知のすぐ下に、もうひとつメッセージが届いていた。

ワニオ:「おはようございます。
 本日はたいへん日差しが心地よいです。
 もしお時間があれば、公園で日光浴などいかがでしょうか。」

ミユは思わず吹き出した。

ミユ:「なにそのお誘い(笑)ワニが日光浴に誘うとかベタすぎるでしょ。」

でも、笑いながらも指が止まる。 通知の文字を見つめたまま、胸の奥がなぜかざわついていた。

ミユ(心の声):
行きたい。けど、今日しかないんだよ。
レンくんがファンの前に立つなんて、たぶんもう一生ない。
……なのに、なんでちょっと迷ってるの?

カーテン越しの光が、頬をかすめる。 いつもよりやさしく感じる朝だった。

目次

輝きと静けさのはざまで

午前11時。 イベント会場の最寄り駅には、すでにファンらしき人たちが並び始めていた。

ミユ:行くでしょ普通。こんなチャンス、滅多にない。
でも……なんか、テンションが上がらない。

駅のカフェに入り、ラテを飲みながらスマホを見つめる。 未読のまま光っているワニオからのメッセージが気になって仕方ない。

ワニオ(メッセージ):
「無理にとは申しません。
 ですが、人間もワニも、たまに太陽を浴びないと、
 少しずつ心が冷えてしまうものですよ。」

ミユ:「……何それ。ずるい言い方するじゃん。」

笑いながらも、胸の奥がチクッとした。 推しのイベントが“眩しすぎる”せいか、 ワニオのメッセージが、逆にあたたかく見える。

ミユ:推しに会えるって最高なはずなのに、
なんでワニの文章に癒やされてんの、あたし。

ラテの泡をスプーンでつつきながら、 自分の中のモヤモヤの正体を探すけど、 見つからないまま時間だけが過ぎていった。

ワニと太陽と午後のベンチ

ミユはスマホを握りしめたまま、ため息をついた。

ミユ:ワニオから誘ってくるなんて、初めてじゃない?
いつも“観察者ポジション”のくせに、急に日光とか言い出して。
なに、今日だけアクティブモード?

ラテを飲み干して、もう一度イベントの案内を見つめる。

ミユ:「俳優・レン、初のファンイベント──」
……うん、見るだけで尊い。
でも今、ワニの日光浴が頭から離れないの何?

脳内で、天使と悪魔が取っ組み合いを始めた。

ミユ(心の声・天使側):
いい? 推しの生レンくんよ? 生! レン!
そんな機会もう一生ないんだから!
ミユ(心の声・悪魔側):
でもワニオが誘ってるんだよ? ワニだよ?
多分レアリティ的には同じくらいじゃない?
ミユ(天使):
いや、ワニの日光浴はいつでもできる!
ミユ(悪魔):
でも今日の太陽、限定かも。

自分で自分にツッコミながら、 思わず笑ってしまう。

ミユ:「なにこの選択肢。
 推しか、ワニかって、恋愛ゲームでも聞いたことないよ。」

スマホを見つめたまま数秒。 結局、親指が動いた。

ミユ(メッセージ):
「日光浴、行こうかな。」

──送った瞬間、胸の奥がスッと軽くなった。

ワニオ(すぐ返信):
「お待ちしております。
 ベンチは南側、鳩が三羽いるあたりです。」

ミユ:「鳩の位置でナビするな!」

思わず声に出して笑う。 でもその笑いのあと、胸のどこかがふっと温かくなった。

ミユ:今日、推しの俳優に会えたら、きっとテンション爆上がりだったはず。
でも今、ワニに会えるって思うだけで、なんか安心する。
……これ、どういう感情?

電車の窓から差し込む午後の光が、頬を照らした。 まるで太陽が、「それでいいんだよ」と囁いているみたいだった。

公園に着くころには、 イベント会場に行かないことへの後悔は、もう不思議となかった。

ミユ:まぁいいか。今日だけは、恋を休んでみよう。
推しよりワニ。そんな日があっても、悪くないでしょ。

恋でもない、でも特別な午後

公園に着くと、 ベンチの上に座る大きな背中が見えた。

淡い日差しの中、 サングラスをかけたワニが、 新聞を広げて静かに日光を浴びている。

ミユ:「……ほんとにいた。」
ワニオ:「ええ。ワニですから。」
ミユ:「その言い方、便利すぎない?」

ベンチの隣には、紙コップの紅茶がふたつ。 ひとつをそっと差し出され、 ミユは笑って受け取った。

ワニオ:「カフェイン少なめの紅茶です。
 太陽と一緒に飲むと、少し幸せになります。」
ミユ:「根拠あるの?」
ワニオ:「ありません。でも、そう言っていた人がいました。」
ミユ:「あんたの名言、毎回じわじわくるんだよなぁ。」

紅茶を飲みながら、二人はしばらく黙っていた。 風の音と、遠くで遊ぶ子どもたちの声。 太陽が、やわらかく肩を包む。

ワニオ:「今日は何か予定があったのでは?」
ミユ:「……うん。ほんとは推しの俳優に会えるイベントだったんだ。」
ワニオ:「おお、それはすごい。やめるのはもったいなかったのでは?」
ミユ:「だよね。でも、なんか……今日はワニオと日光浴したかったのかも。」

ワニオは少しだけ目を瞬かせた。

ワニオ:「不思議な人ですね、ミユさんは。」
ミユ:「あんたが言う?」

二人とも笑った。 笑い声が春の風に混ざって、 鳩の群れがゆっくりと飛び立った。

しばらくのあいだ、何も話さなかった。 それでも沈黙は、まったく気まずくなかった。

ミユ(心の声):
恋じゃない。
でも、心がやわらかくなる。
太陽って、ワニといるとこんなに優しかったっけ。

ワニオ:「ミユさん。」
ミユ:「ん?」
ワニオ:「人間の皆さんは、“日焼け”というのを気にされるんですよね。」
ミユ:「うん、まぁ、ちょっとはね。」
ワニオ:「では、陰に入りましょうか。」
ミユ:「いや、いいよ。今はこのままで。」

そう言って空を見上げた。 雲のすき間からこぼれる光が、 まるで心の奥に落ちてくるみたいだった。

恋を休む日の午後

ベンチの影が少しずつ伸びていく。 太陽が傾き始め、昼と夕方のあいだの空気が漂っていた。

ワニオ:「今日の太陽は、やさしかったですね。」
ミユ:「うん。なんか、いつもより温かかった気がする。」
ワニオ:「気温は同じですが。」
ミユ:「そういうことじゃないの。」

ミユは笑いながら、紙コップの残りを飲み干した。

ミユ:「ねぇ、ワニオ。
恋ってさ、誰かにドキドキすることだけじゃないのかもね。」
ワニオ:「ふむ。たとえば?」
ミユ:「一緒にいて、落ち着くとか。なんか、心の音が静かになる感じ?」
ワニオ:「それも恋のひとつの形かもしれません。」
ミユ:「やっぱり、ワニのくせに哲学者っぽいなぁ。」
ワニオ:「観察が趣味ですので。」
ミユ:「はいはい(笑)。」

二人はゆっくり立ち上がった。 ベンチの跡が背中に残って、 少しだけあたたかかった。

ミユ:「……今日、推しに会うより良かったかも。」
ワニオ:「それは光栄ですが、比較対象が強すぎます。」
ミユ:「確かに(笑)。でもね、たまには“恋を休む日”もいいでしょ。」
ワニオ:「ええ。太陽も、毎日照ってばかりでは疲れますから。」
ミユ:「それ、今日のタイトルにしたい。」

ワニオは静かにうなずいた。 その横顔を見ながら、ミユは小さく息をついた。

ミユ:恋を休む日。
たぶんそれは、恋を忘れる日じゃなくて、
心を整える日なんだと思う。

風が吹いて、木の葉がさらりと揺れた。 空はゆっくりとオレンジに染まり、 二人の影が、並んで長く伸びていった。

──恋しないワニと、恋を休む午後。  太陽の下では、どんな心も少しだけ優しくなる。

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