最近のふたり
気づけば、ケンジと過ごす時間が増えていた。
仕事終わりに軽く飲みに行ったり、 休日にふと思い立って街を歩いたり。 約束というほど大げさなものではなく、 「暇なら行くか」くらいの、曖昧な誘い。
それが、不思議と心地よかった。
ケンジはよくしゃべるわけじゃない。 でも、ユキノが話すと、ちゃんと聞いている。
「それでどうなったんだ?」 「ああ、そういうの嫌いそうだな、お前」
言葉は多くないのに、 こちらの輪郭をなぞるような相槌を打つ。
冗談は、少しズレている。
「ケンジさん、また説教ですか?」 「おい、今日は優しいバージョンだぞ」
そんなやりとりに、ユキノは思わず笑ってしまう。
最初に抱いていた “説教臭い年上の人”という印象は、 いつのまにか薄れていた。
代わりに残っているのは、 言葉の端々ににじむ、奇妙なほどの気遣い。
歩く速度を合わせる。 メニューを選ぶとき、さりげなく譲る。 ユキノが寒そうにすると、 何も言わずに店の奥の席を選ぶ。
「……気が利きますよね、ケンジさんって」
ユキノがそう言うと、 ケンジは少し困ったように笑った。
「そうか? ただのお節介だよ。 ほっとけない性分なだけだ。」
その言い方が、妙に本音に聞こえた。
一緒にいると落ち着く。 でも、ときどき、 近づいてはいけない場所があるような気もする。
これは恋なのか。 それとも、ただの居心地の良さなのか。
ユキノには、まだ名前をつけられなかった。
美術館のケンジ
そういえば、とユキノは思い出す。
少し前の休日、 何気なくユキノが誘って、美術館に行ったことがあった。
「美術館?」 ケンジは少し意外そうな顔をしていた。
「興味なさそうですか?」 「いや。嫌いじゃない。ただ……久しぶりだな。」
館内は静かで、人もまばらだった。 白い壁に並ぶ作品を前に、 ケンジは意外にも多くを語らなかった。
「どう思います?」 ユキノがそう尋ねると、 ケンジはしばらく作品を見つめてから言った。
「うーん…… たぶん、これ描いた人、 誰かに分かってほしかったんじゃなくて、 自分を納得させたかったんだと思う。」
ユキノは少し驚いて、ケンジを見る。
「……そんなふうに見るんですね。」
「正解なんてないだろ。 ただ、そう見えただけだ。」
説明口調でも、押しつけでもない。 作品に向けたその言葉は、 どこか演奏の合間の沈黙に似ていた。
別の作品の前では、 ケンジは冗談めかして肩をすくめた。
「これは……俺にはちょっと難しすぎるな。 たぶん、考えすぎると疲れるやつだ。」
ユキノは思わず笑ってしまった。
説教臭い人だと思っていた。 でも実際のケンジは、 “分からない”ことを無理に語らない人だった。
その姿は、 かつてユキノが救われた、 あの記事を書いた人のままだった。
「……ケンジさんの記事、 この感じですよね。」
ユキノがそう言うと、 ケンジは少し照れたように鼻を鳴らした。
「そうか? あれは、ただの独り言だよ。」
でもユキノは知っている。 その“独り言”に、 どれだけ救われた人がいたかを。
自分の気持ちは、まだ分からない。
ただ、 この人の言葉の置き方や、 ものを見る距離感に、 少しずつ心を預けはじめている自分がいた。
優しさに抱く違和感
それは、偶然だった。
コピー機の調子が悪くて、 少し奥のスペースへ回ろうとしたとき、 ユキノは足を止めてしまった。
ナナとミカコが、 小さな声で話しているのが聞こえたからだ。
「ねぇ、知ってる?」 ナナが声を落とす。
「ケンジさん、新しい恋愛メディアの話、断ったらしいよ。」
ミカコは驚きもせず、 どこか納得したように頷いた。
「編集長としてでしょ? 異例の抜擢じゃない。」
「そうそう。条件も、今より全然よかったらしい。」
ミカコは一拍置いて言った。
「……あの人、前も似たようなことあったわよね。」
ナナは肩をすくめる。
「あるある。 チャンスが来ると、なぜか引いちゃうタイプ。」
それ以上、会話を聞くことはできなかった。
ユキノはそっとその場を離れ、 胸の奥に、小さな違和感を抱えたまま席に戻った。
――どうして?
あの人なら、 もっと前に出てもいいはずなのに。
その違和感は、 数日後、別の形で確信に変わる。
たまたま、 ケンジのスマホ画面が目に入った。
通知に表示されたのは、 見覚えのある団体名だった。
「……保護犬団体?寄付のお礼?」
ユキノが思わず声に出すと、 ケンジは一瞬だけ視線を逸らした。
「ああ、これか。 酔った勢いでやっちまったんだよ。」
「結構な額ですよ、これ。」
「まぁ……な。」
笑ってごまかすような口調。 でも、その曖昧さが逆に引っかかった。
後日、 ユキノは知ってしまう。
それが一度きりではなく、 定期的な寄付だということを。保護犬団体の代表が挨拶に来たのだ。
優しさなのか。 それとも――
自分を削ることで、 何かを帳消しにしようとしているような。
ユキノは、 その答えをまだ言葉にできなかった。
ただひとつ、 はっきりしていることがあった。
この人の優しさは、 どこか壊れている。
そしてそれが、 不思議と目を離せなくさせるのだ。
マリの言葉
BAR恋古都は、いつもより静かだった。
カウンターに座るユキノの横に、 マリが自然な仕草で腰を下ろす。
「最近、ケンジと仲よくしてるみたいね。」
探るでもなく、詮索でもない。 自然なトーンで聞いてきた。
ユキノは一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「はい。 ……魅力的な人だと思っています。」
マリは微かに笑う。
「そうでしょうね。」
ユキノはグラスを見つめたまま、 自分の気持ちを言葉にする。
「優しいんです。 気づかいも、言葉も、行動も。」
「でも……」
そこで、少し間が空いた。
「その優しさが、 誰かのためというより…… 自分を削ってるみたいに見える時があって。」
マリは、ゆっくりと頷いた。
「気づいたのね。」
グラスに指を添えながら、 マリは静かに続ける。
「ケンジはね、 ああ見えて、とても繊細なの。」
「優しい人って、 他人を守るために強くなるでしょう?」
「でもケンジの場合、 優しさが内側に向くの。」
ユキノは、息を飲んだ。
「内側……?」
「自分を責める方向にね。」
マリは少し視線を落とす。
「あの人離婚してからも、 恋愛はしているの。」
「でも、 どこかで必ず一線を引く。」
「長く続く前に、 自分から距離を置くの。」
ユキノの胸に、 これまで感じてきた違和感が ひとつの形を持って浮かび上がる。
「……幸せになろうと、 してないんですね。」
マリは否定も肯定もしなかった。
「自分には、その資格がないって 思い込んでるところがある。」
「だから、 人には優しいけど、 自分には厳しい。」
ユキノは、 ケンジの笑い方や、 何でもない冗談の裏にあった沈黙を思い出す。
「……それでも、 すごく魅力的だと思ってしまうんです。」
マリは、静かにユキノを見た。
「ええ。」
「だからこそ、 惹かれてしまう人も多い。」
少し間を置いて、 マリは柔らかく言う。
「あなたなら、 その優しさを ちゃんと“外に向けさせる”ことが できるかもしれない。」
それは希望なのか、 それとも、残酷な可能性なのか。
ユキノは答えを出せなかった。
ただひとつ分かっているのは、 ケンジの優しさが、 誰よりもケンジ自身を 傷つけているということだった。
近づきすぎない距離
BAR恋古都を出ると、 夜の空気はひんやりとしていた。
真冬にはまだ少し早い。 それでも、 季節が静かに傾き始めているのを、 ユキノは肌で感じた。
帰り道、 ケンジのことを考えないようにしようとして、 それが無理だと気づく。
優しい人。
でも、その優しさは、 誰かを守るためというより、 自分を罰するために使われているように見えた。
――もし、もっと近づいたら。
この人は、 私の前でも笑ってくれるだろうか。
それとも、 私の手の届かないところで、 ひとりで自分を削り続けるのだろうか。
ユキノは立ち止まり、 深く息を吸った。
惹かれている。
それはもう、 認めざるを得ないほど、 はっきりしていた。
でも――
この人を好きになるには、 ただ前向きでいるだけでは 足りない気がした。
優しさに甘えることも、 救われることもできる。
それでも、 近づきすぎてはいけないような気がする。
今はまだ。
ユキノは、 そうやって一歩分の距離を 自分の中に引いた。
そして歩き出す。
この距離が、 彼を守るのか、 それとも自分を守るのか――
答えは、 まだ分からなかった。


