雪散る ― 第1話:冬の入り口

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雪が散る季節

まだ冬の手前。けれど、風のどこかに冷たさが混ざりはじめると、人は少しずつ思い出しはじめる。

雪が散る季節――。

誰かにとっては、胸の奥に沈んでいた寂しさがそっと動き出す季節。
別の誰かにとっては、長い冬の向こうにある小さな光を想い描く季節。

同じ景色でも、感じ方は人の数だけある。

これは、そんな季節を迎えようとしていた三人が、それぞれの心と向き合う物語。

ふと、音が落ちた

取材を終えて、ケンジはゆっくりと商店街を歩いていた。冬の入り口の空気は、肩に触れるたびにどこか遠い記憶を呼び起こす。冷たいが、痛いほどではない。見上げれば、曇り空が街灯の光を淡く吸い込んでいた。

そんなときだった。

ぱらり、と一粒の音が落ちてきたような気がした。
耳に触れた瞬間、その音の温度が、まるで季節を変えたみたいだった。

ケンジは思わず足を止めた。

商店街の角に、小さなカフェがあった。窓際の席に寄り添うように置かれたアップライトピアノ。そこから、細い指が紡ぎ出すような旋律が流れていた。

寂しさにも聞こえる。
未来の気配にも聞こえる。

その矛盾した響きに、ケンジの胸がわずかにざわめいた。音はゆっくりと、しかし確かに、心の奥のどこか触れてはいけない場所に届いてくる。

カフェのドアを押すと、鈴の音が静かに鳴った。店内には数人の客がいたが、誰もピアノを弾く女性に視線を向けていない。まるで、彼女がこの世界から少しだけ切り離された場所にいるかのようだった。

それほどに、音だけが鮮やかだった。

ケンジは立ち尽くしたまま、その曲に耳を傾けた。
旋律は優しく、けれどどこか影を引いている。流れるほどに、ひどく個人的な感情が滲み出ているように思えた。

「……なんだ、この曲。」

気づけば、言葉になって漏れていた。

曲が終わり、鍵盤から指が離れる。静けさが店に戻ると、女性はゆっくりと振り向いた。

ケンジは目が合ってはじめて気づいた。

――こいこと。編集部のユキノだった。

ユキノは少し驚いたように目を見開き、すぐに表情を取り繕って微笑んだ。

「ケンジさん……ですよね?」

ケンジはうなずくしかなかった。言葉が喉の奥でほどけない。

ユキノはピアノの蓋にそっと触れる。
「たまに、ここで弾くんです。仕事の帰りとか……考えごとが多い日とか。」

ケンジは視線を鍵盤に落とした。
「さっきの曲……なんだか、不思議だな。」

ユキノは首をかしげる。
「不思議?」

「寂しいのに……どこか前に進んでる感じがした。」

ユキノは一瞬だけ目線を落とし、小さく笑った。
「そう聞こえるんですね。人によって、違うみたいで。」

ケンジは返事ができなかった。
胸の奥がまだその音を探しているようで、言葉にすれば壊れてしまいそうだった。

――冬の入り口。
ふたりのあいだに、まだ名前もない“何か”が静かに落ちていった。

こいこと。編集部のユキノ

翌日の編集部は、いつもと同じように忙しない空気に満ちていた。

ユキノは長くこの編集部にいる。
どんなテーマでも安定してまとめられ、後輩からも頼られる存在。
勝ち気で仕事が早く、雑談一つでも切れ味がある——そんな編集者だった。

ただ、その朝は少しだけ違った。

パソコンに向かってはいるものの、指がキーボードの上で止まる。
外見はいつも通りで、誰も気づかない程度の小さな違和感。
けれど、自分ではわかる。心のどこかが昨日のまま立ち止まっていた。

——あんな顔で音を聴く人なんだ。

それが、妙に胸に残っている。

ケンジがピアノの前に立ち尽くしていた姿。
音を追いかけるような真剣な表情。
誰にも見せないような、少し脆さの混ざった横顔。

ユキノは、その場面をふと思い出し、息を小さく吸った。
音そのものではない。
その音に向けられた彼の“聴き方”が、気になっていた。

「ユキノさん、今日の特集どう?」

編集長の声にユキノはすぐ表情を整えた。
「大丈夫です。構成はできてます。仕上げますね。」

「頼りになるねぇ。さすがだよ。」

周囲は誰も、ユキノのわずかな変化に気づかない。
表情も声も、いつもと同じだから。

けれど、心の奥では、昨日のケンジの横顔がゆっくりと居座っていた。

それが恋かどんな気持ちかなんて、まだわからない。
ただ、“気になった”。それだけのこと。

でも、その“それだけ”が、朝になっても消えなかった。

救われた言葉と、現実のケンジ

昼休み、ユキノは編集部の近くの公園へ向かった。
ベンチに腰を下ろすと、薄い雲を透かす光が静かに落ちていた。

スマホを開くと、無意識にひとつの記事を探してしまう。
数年前、何度も読み返した記事。お気に入りの一番上に残している。

——“誰かと別れたあとに残るのは、孤独じゃない。
これから出会う自分への入口だ。”

ケンジが書いた文章だった。

当時のユキノには、この一文だけで十分だった。
手放したものばかりを数えていた時期。
その言葉が、日常のどこかに薄く残る痛みを、ほんの少し和らげてくれた。

だけど、編集部で実際に会ったケンジは……。

仕事は丁寧だけど、妙に説教くさくて、話が長い。
悪い人ではないのに、距離の取り方がよくわからない。
“救われた言葉の人”という印象とは、ずいぶん違っていた。

言葉はまっすぐなのに、本人はどこか扱いづらい。
そのギャップが、ユキノには時々くすぐったく、時々めんどくさくもあった。

だからといって嫌いというわけでもなく、
ただ、「職場にいる年上の、少し厄介な人」というくらいの距離だった。

そう思っていたのに——。

昨日、ピアノの前で立ち尽くしていたケンジの横顔は、
ユキノが知っているどのケンジとも違って見えた。

その違いが気になったのか、気にならなかったのか。
自分でもよくわからない。

ユキノはスマホを閉じ、立ち上がった。
昼の風が、木の枝をわずかに揺らしていた。

ケンジ、帰り道でふと思い出す

夜の帰り道。編集部を出ると、少し冷たい風が頬を撫でた。冬が近づいている。
缶コーヒーを買い、歩きながらひと口飲む。いつもと変わらない苦味だった。

なのに、胸の奥にひとつだけ、引っかかるものがあった。

——昨日の、あの演奏。

ピアノそのものがどうというより、音の“運ばれ方”だった。
指先から鍵盤に落ちていくあの感じ。
勝ち気な性格の人間がなぜあんな静かな音を出せるのか、ケンジには少し不思議だった。

曲の構造なんて専門的なことは考えたわけじゃない。
ただ、妙に耳に残る。
あの流れ、あの揺れ方、あのタイミングで落ちる音。

「……変な曲だったな。」

ぼそりと呟きながらも、思い出す。
ユキノが振り向いたときの、少し意外な表情。
編集部での強い口調とは違う、演奏の余韻をまとった目。

ケンジは缶を握り直した。自分でも理由はよくわからない。
気になっているわけでも、惹かれたわけでもない。
ただ、昨日の音が頭の奥にまだ残っているだけだ。

あの曲は、どこか自分の記憶のどこかを叩いたような感覚があった。
それが何なのかは思い出せない。思い出す必要もない。

「まあ、関係ねぇか。」

そう言って歩き出したはずなのに、不思議と足取りがゆっくりになっていた。
曖昧な旋律が、冷たい夜の空気の中でも消えずに漂っていた。

冬が近い。
ケンジはコートの襟を立て、家への道をゆっくりと歩いた。

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